島で一か月仕事をした三十三歳の菜々は、最後の日、港の郵便局へ寄った。船の出る四十分前だった。荷物は宿の人が先に港へ運んでくれていて、肩には仕事用の鞄だけが残っていた。
郵便局の扉は、初めて来た日と同じように少し重かった。潮風で蝶番が錆びるのだと、以前、窓口の男性が教えてくれた。菜々は両手で扉を押し、入口のマットで靴の砂を落とした。
三十六歳の彼は、顔を上げて会釈した。背後の時計は九時二十分を指していた。あと一か月もあれば、名前を尋ねられただろうか。菜々はそう考え、そんなふうに期限を延ばすことばかりしてきた自分に気づいた。
菜々の仕事は、島の資料館に残された写真の整理だった。古い祭りや港の工事を写した写真を、持ち主の話と照らし合わせ、記録にする。普段は都市部の小さな制作会社に勤めていたが、担当者が急に休むことになり、一か月だけ出張した。
島へ来た最初の夜、母から電話があった。入院している母の声は、病室のテレビの音に混じって小さかった。
「海、見える?」
菜々は宿の窓から撮った写真を送った。しかし母は、画面の拡大の仕方が分からないと言い、すぐに諦めた。菜々は説明を繰り返しかけ、代わりに葉書を送ると約束した。
翌日、資料館で絵葉書を買い、昼休みに郵便局へ行った。宛名を書くだけなのに手が止まった。実家ではなく病院の住所を書くことに、まだ慣れていなかった。病棟名を確認するため携帯を出すと、窓口の男性が、小さな筆記台を指した。
「ゆっくりどうぞ。お急ぎの方が来たら、こちらで先に受けますから」
菜々は謝りかけ、ありがとうございます、と言った。彼は謝る必要のないように、すぐ別の作業へ戻った。
その日選んだ切手は島の花だった。母は三日後に電話をくれ、花の名前を聞いた。菜々は調べておらず、次の葉書に書くと答えた。その約束が、翌週も郵便局へ行く理由になった。
二週目は雨が多かった。資料館で話を聞く予定だった人が船の欠航で戻れず、菜々は写真の裏の文字を一人で読み取った。知らない人の人生を扱う仕事なのに、机の上では番号ばかりが増えていく。
母に何を書けばいいか迷い、絵葉書の白い面を半分残したまま郵便局へ持っていった。彼は船の絵の切手を出し、今朝はこの船も出なかったと教えてくれた。
「島の人は、予定が変わっても平気なんですか」
菜々が尋ねると、彼は笑った。
「困りますよ。困らない顔が上手くなっただけで」
その答えが妙にうれしかった。島では時間がゆっくり流れる、と仕事先の人たちはよく言った。けれど菜々には、待つ時間も、届かないものに焦る気持ちもあった。
彼は窓口の向こうで、封筒の束を揃えていた。その手が一度止まり、母への葉書なのかと尋ねた。先週、菜々が自分から話したことを覚えていた。
「元気なことだけ書こうとすると、何もなくなって」
「僕の母は、晩ご飯の話を喜びます。今日の魚が少し焦げたとか」
「そういうので、いいんでしょうか」
「僕には正解は分かりませんけど、焦げた魚の話のほうが、電話は長くなります」
菜々は筆記台へ戻り、宿の夕飯に出た魚の煮付けのことを書いた。骨を上手に外せず、宿の主人に小さな皿をもう一枚出してもらったこと。窓を開けると、煮汁の匂いに潮の匂いが混じったこと。
母から届いた返事は、病院の売店で買った便箋だった。昔、菜々が魚の骨を喉に引っかけて大騒ぎした話が書いてあった。菜々は覚えていなかった。母の暮らしが病院の一室に縮んだのではなく、そこから昔の時間へも続いていると感じた。
三週目、菜々は資料館の閉館後、港まで歩いた。郵便局の彼が、桟橋の近くで年配の男性と話していた。私服だと背が高く見えた。声をかけようとして、やめた。仕事で親切にしてもらっただけの相手に、休日のような顔で近づいてよいのか分からなかった。
彼のほうが気づき、軽く手を上げた。隣の男性は釣り道具を持って立ち去った。菜々は資料館の写真に写っていた岸壁が、今はどこなのかを尋ねた。
彼は少し考え、古い階段のところまで案内した。波が階段の途中まで上がり、濡れた段に海藻がついていた。
「昔の場所だと、説明しやすいですね」
菜々が言うと、彼は首をかしげた。
「今のことは、何を聞けばいいか分からなくて」
言ってから、菜々は顔が熱くなった。彼は階段を見たまま、島にずっといたわけではないと話した。進学で町を出て、数年前に戻ってきたという。
「戻った理由って、聞いてもいいですか」
「いくつかあります。父のこともあったし、仕事のことも。でも、ひとつにすると、きれいな話になりすぎる」
菜々はうなずいた。自分が島に来た理由も、仕事の都合だけではなかった。病院と会社の往復から離れられることに、ほっとした気持ちがあった。それを母に申し訳なく思っていた。
彼にそこまでは話さなかった。ただ、ここに来てよかったと言った。彼も、そう言ってもらうと僕がうれしいですね、と答えた。
その夜、菜々は母へ電話をし、島の話をした。葉書を出しに行く郵便局の人が、切手を選ばせてくれることも話した。母は、いい人ね、と言ったあと、それ以上何も尋ねなかった。菜々は続きを期待していた自分を、少しおかしく思った。
最後の週、資料館の記録に間違いが見つかった。写真の人物を、同じ姓の別の人として登録していた。確認をお願いした島の女性が、申し訳なさそうに訂正してくれた。菜々は自分の確認不足を詫び、作業をやり直した。
帰る前日の夕方まで、仕事が終わらなかった。郵便局の窓口が閉まる時間を過ぎたと気づいたとき、菜々は初めて、今日こそ名前を聞くつもりだったのだと自覚した。
資料館の主任が、お土産を買う時間はあるかと尋ねた。菜々は大丈夫ですと答え、写真の記録をもう一度見直した。名前を間違えないことは、この仕事で何より大切だった。一方で、自分は一か月も会っていた人の名前を知らないままだった。
宿へ戻って荷造りをした。母の便箋は、折れないように資料の間へ挟んだ。最後の絵葉書には、自宅の住所を書いた。島にいたことを、仕事の報告書だけで終えたくなかった。
宛名を書き終えたあと、白い面に何を書こうか迷った。母へ送ったときより難しかった。菜々は、港で見た階段の絵を小さく描き、その横に、聞きたいことを聞きそびれた、と書いた。書いてしまうと、まだ聞く時間は残っていると思えた。
翌朝、宿の主人は荷物を港へ運ぶついでに、郵便局まで乗せようと言った。菜々は歩きたいと答えた。通い慣れた道を、自分の足で最後まで歩いておきたかった。
窓口で葉書を差し出すと、彼は宛名を見た。
「今日は、自分宛てです」
菜々が言うと、彼は不思議そうにした。帰ったあと、この島にいたことを忘れないように。そう説明すると、彼は消印を丁寧に押した。
乾くまで少し待つ手つきが、いつもと同じだった。今日が最後だと、彼は知らないかもしれない。菜々は今日の船で帰ることを伝えた。彼は仕事が終わったのかと尋ね、菜々がうなずくと、お疲れさまでした、と言った。
それで会話を終えれば、何も傷つかずに帰れた。いい人がいた島の、いい思い出になる。菜々は鞄の持ち手を握り直した。
「もう一枚、葉書をください」
並んだ葉書の中から、港の灯台が写ったものを選んだ。船の時間までは、まだ十分あった。
「あなたに出しても、迷惑じゃないですか」
言ったあと、店内が急に静かになった気がした。彼は窓口の時計を見た。
「勤務中なので、うまく返事ができなくて」
菜々はうなずいた。彼が困らないよう、葉書を鞄にしまった。聞けたことを後悔しないようにしようと思ったが、それは船に乗ってからでもよかった。
外の風は強かった。港の方向へ二歩進み、鞄のファスナーを閉めるため立ち止まった。五分ほどして、郵便局の扉が開いた。彼は私服の上着を羽織っていた。交代の時間だったらしい。
「待ってもらったわけじゃ、ないですよね」
彼のほうが少し息を切らしていた。菜々は、鞄を閉めていたら時間がかかって、と答えた。二人とも、苦しい説明だと分かって笑った。
「僕も、向こうの街の話を聞きたいです」
住所ではなく、まず互いの名前を伝えた。彼が自分の名を言ったとき、菜々は聞き返さずに済むよう、丁寧に耳を澄ませた。連絡先は互いの携帯に入れた。仕事場に手紙を送るのではなく、宛先はあとで相談することにした。
港へ続く道を一緒に歩いた。船の汽笛が聞こえると、菜々は歩幅を速めた。彼は鞄を持とうとせず、その速さに合わせてくれた。
「葉書じゃなくても、いいですか」
乗船口で菜々が言うと、彼は、最初は無事に着いたという連絡を、と答えた。遠くの人になる前に、短い約束が一つできた。
帰宅した菜々の郵便受けには、数日後、自分の葉書が届いた。聞きたいことを聞きそびれた、と書いた字を見て、もうその続きは変わっていると思った。
その晩、母の病院へ寄った。ベッド脇の棚に、島から送った葉書が四枚並んでいた。母は菜々の顔を見るなり、写真より日に焼けたと言った。菜々は窓際の椅子に座り、島で間違えた写真の話をした。
「ちゃんと直してから帰ってきたのね」
母はそれだけ言った。失敗を話しても、帰ってきた娘を責める材料にはしなかった。菜々はもっと早く、困っていることも話せばよかったと思った。
帰り道、彼から港の夕焼けの写真が届いた。窓口では見せなかった、少し曲がった水平線だった。菜々は写真の傾きを指摘しかけ、代わりに、今日の帰り道の街灯を撮って送った。きれいな景色ばかりでなくてもよかった。
彼は街灯の下の店が何の店か尋ねた。菜々は、毎日前を通るのに入ったことがないと答えた。島の彼と話すことで、自分の住む街にも知らない場所が残っていると気づいた。
次に会える日は、まだ決まっていなかった。それでも菜々は、会うまでの日々をただ待つ時間にしたくなかった。
母へ送る次の葉書を選び、その隣にもう一枚並べた。返事を書く相手が、もう一人増えていた。