三十九歳の恵は、離婚の話し合いに、おそろいの腕時計をしていった。
深い意味はなかった。それしか電池が入っていなかった。普段は携帯電話で時刻を見ていたが、その日は鞄から何度も出すのが落ち着かず、引き出しの時計を選んだ。
待ち合わせた喫茶店で上着を脱ぐと、向かいの夫も同じものをしていた。二人で少し気まずくなった。
「それ、まだ動いてたんだ」
夫が言った。恵はうなずき、先月、電池を替えたばかりだと答えた。夫も同じ時期に替えていたらしい。暮らす場所が離れてからも、似た用事をしている。そのことを面白がってよいのか分からなかった。
時計を買ったのは、結婚して二年目だった。旅行先の店で、夫が最初に見つけた。恵は色違いなら使うと言い、彼は黒、彼女は茶色のベルトを選んだ。文字盤は同じだった。
その日は道に迷い、昼食の店へ着いたころには混んでいた。二人で別の店を探し、たまたま入った食堂の魚がおいしかった。恵には、時計よりその味を長く覚えていると思った。
実際には魚の種類を忘れた。時計は残った。日々の通勤、冠婚葬祭、母の病院へ行く日。特別な思い出と結びつけず、手首につけてきた。
夫と暮らした家を出るとき、恵は時計を持っていった。結婚生活の品を全部置いていくほど、気持ちをきれいに分けられなかった。かといって、持ち出したものを一つずつ、まだ好きだからと説明するのも違った。
小さな仮住まいの部屋で時計を使うと、彼に見られているように感じる日もあった。外して引き出しへ入れ、数日後にまたつけた。嫌いではないのに、つける理由まで問われる気がした。
今日も、夫が何か意味を見つけるだろうかと考え、袖を少し下ろした。
家を売ること、家具のこと、飼っている猫のこと。弁護士を通じて確認した内容を、もう一度、自分たちの声で確かめた。
二人だけで決めると、話はすぐ過去へ戻った。どちらが何を我慢したか、言ったはずのことを相手が覚えているか。第三者を通して書類にしたことで、ようやく今後の話へ進めた。
今日の目的は、また結論を変えることではない。荷物を運び出す日や、連絡の方法を確認するためだった。恵はメモを開き、順番に読んだ。
食器棚は夫が引き取る。食卓は処分する。二人で選んだものでも、それぞれの新しい部屋へ入る大きさは違う。夫は本棚の寸法を調べてきており、恵は自分の部屋に入らないと答えた。
昔なら、思い出があるから残すと言ったかもしれない。今は、使う場所のないものを抱えておく余裕がない。そのことを冷たさと取り違えたくなかった。
窓の外をバスが通った。恵は反射的に時計を見た。夫も同じ動作をした。文字盤の位置が揃い、二人とも一瞬、メモを見るふりをした。
別れることが決まっても、長く同じ生活をした体の癖は残っている。恵は、そのことまで急いでなくす必要はないと思った。
猫は恵と住む。すでに仮住まいへ連れてきていて、初めの三日間は棚の下へ隠れていたが、今は窓辺で昼寝をするようになった。
夫は猫が自分を忘れたかと聞いた。恵は、分からない、と答えた。覚えているとも忘れたとも、慰めのためには言いたくなかった。
「月に一度くらい、写真が欲しい」
夫が言った。
恵は返事をする前に少し考えた。猫の写真を送ること自体は難しくない。だが毎月という約束を作れば、送れなかった日に別の意味が生まれるかもしれない。
「無理のないときなら」
恵は答えた。夫は少し残念そうにし、それからうなずいた。できる約束だけにすることが、最後に覚えた二人のやり方だった。
猫の話になると、二人の声は少し柔らかくなった。初めて家へ来た日、玄関から動かなかったこと。夜中に押し入れを開け、自分で閉じ込められたこと。恵は笑い、夫も笑った。
楽しかった記憶が同じように残っていると、別れる決断が間違いに思える瞬間があった。けれど笑えたから、今後もうまく暮らせるとは限らない。
恵はカップを置き、メモの続きへ戻った。夫も顔を上げた。思い出を否定しなくても、話を先へ進められた。
最後に、残っている郵便物のことを確かめた。夫が転送の手続きを進めていると答え、恵は自分の分の封筒を受け取った。その中には、二人でよく行った店の案内があった。
恵が封筒を鞄へ入れると、夫はまた行くのかと聞いた。恵は分からないと答えた。好きな店だった。だが一人で行くかどうかは、その日の自分が決めればよい。
「嫌な思い出にしたくないんだと思う」
夫が小さく言った。
恵は、全部を嫌にするのは大変だよ、と答えた。夫は少し笑った。暮らした年数の中には、失敗した料理も、何もしなかった休日も、うまくいった仕事を喜んでもらった夜もあった。それらを一つ残らず別れの理由へ塗り替えることはできない。
会計は別々にした。最後だから自分が出すと言いかけた夫も、恵が財布を出すのを見ると、黙って自分の分を払った。小さなやり取りを終えるたび、二人は以前とは違う距離を覚えていった。
店を出るとき、夫が時計を見た。
「これ、嫌なら、買い替えていいから」
恵は反射的に答えた。
「あなたの許可、いらないよ」
声が固くなり、夫の顔が一瞬止まった。恵は、もう少し柔らかく話せばよかったと思ったが、言った内容まで取り消すつもりはなかった。
「でも、気に入ってるから、使う」
続けると、夫はうなずいた。言い直すことと、相手の望む答えに変えることは違う。その違いを、もう少し早く知りたかった。
駅へ向かう道は、途中で二つに分かれた。夫は以前の家へ、恵は新しい部屋へ帰る。荷物の確認が残っているので、もう会わないわけではなかった。それでも、今日の話が一つの区切りなのは分かった。
夫が元気で、と言った。恵は、あなたも、と答えた。元気でいられない日があっても、もう互いが全部を引き受ける関係ではない。そのことを寂しいと思い、同時に少しほっとした。
帰宅すると、猫が玄関まで来た。鞄の匂いを嗅ぎ、すぐ窓際へ戻った。恵は上着を脱ぎ、時計を外した。
ベルトの内側に小さな傷みがあった。ずっと気づいていたが、まだ使えるからと後回しにしていたところだった。新しい時計を買うほどではない。けれど、このまま我慢する理由もなかった。
荷物を取りに行った日は、夫と時間をずらした。会えばまた話し合いを続けてしまいそうだったし、今日は自分のものを選ぶだけにしたかった。
玄関には、持ち帰る予定の箱がまとめてあった。恵が使っていたマグカップには、割れないよう新聞紙が巻かれていた。気遣いをうれしく思うことと、一緒に暮らさないと決めたことは、矛盾しないのだと自分へ言った。
本棚の上に、小さな貝殻が残っていた。時計を買った旅行で拾ったものだった。どちらのものとも決めていなかったので、恵は写真を撮り、引き取ってよいか短く連絡した。夫からは、どうぞ、と返った。
貝殻は軽く、箱の隅へ入った。思い出を全部持っていくことも、全部置いていくこともできない。今日はこれを持ち帰り、食卓は置いていく。それだけの選び方でよかった。
新しい部屋へ戻ると、猫が箱の上へ座った。恵は笑い、荷ほどきは明日へ回した。自分で決めた部屋には、自分の速さで片づける時間があった。
翌週、駅前の時計屋へ行った。店員はベルトの幅を測り、いくつか候補を並べた。恵は以前と同じ茶色へ手を伸ばし、それから薄い灰色を見た。
「こちらは、少し雰囲気が変わりますね」
店員が言った。恵は自分の手首へ当ててみた。文字盤は同じなのに、見慣れた時計が少し明るく見えた。
ベルトを替えてもらうことにした。古いものを持ち帰るか尋ねられ、恵は少し考えた。記念に残したいわけではない。だが今日、その場で捨ててもらう決心もつかなかった。
小さな袋へ入れてもらい、鞄へしまった。あとで自分で決めればいい。何でも一度に、最も正しい形で終えなくてよかった。
待っている間、恵はショーケースの新しい時計を眺めた。どれを買っても、今日から使えば自分のものになる。買わずに今の時計を使うことも、同じように自分で選べる。
昔なら、物まで思い出と一緒に捨てようとしたかもしれない。自分が大丈夫だと誰かへ証明するために、新しいものだけを身につけたかもしれない。
店員が戻り、長く使っていますねと言った。
「これからも、使うつもりです」
恵は答えた。理由は説明しなかった。針は問題なく動き、文字盤は読みやすい。手首に載せると、今もよく馴染んだ。
幸せだった時間も、終わった時間も、針を止める理由にはならなかった。
その日の午後、恵は一人で映画を観た。上映時刻まで二十分あり、近くの店でパンを買った。誰かの食べたいものと相談しなくてよいことが、気楽な日もある。今日はそういう日だった。映画を選ぶときも、誰かの好みを想像せず、以前から観たかった一本の券を買った。
帰りに猫の写真を一枚撮った。窓辺で眠り、片耳だけがこちらへ向いていた。送ろうか迷い、まず自分の保存用のフォルダへ入れた。
夕飯のあと、夫へ送った。文章は、元気にしています、だけにした。すぐ返信が来て、ありがとう、とあった。恵はその続きを無理に探さなかった。写真を送れたからといって、毎月の役目を引き受けたわけではない。
机の引き出しへ、古いベルトの袋をしまった。しばらく残すことにした。新しいベルトを気に入ったから、古いものを急いで嫌いになる必要はない。
翌朝、時計をつけて出勤した。会社の同僚が、色が変わったねと言った。恵はうなずき、少し軽く見えるでしょう、と返した。何かを終えた印として説明するより、その色が好きだと言いたかった。
仕事の帰り、以前二人で行った店の前を通った。今日は入らなかった。次も入らないかもしれないし、一人で食事をする日も来るかもしれない。どちらでもよかった。
恵は時計を見て、猫の夕飯には間に合うと思った。自分で選んだ帰り道を歩き、新しいベルトの下で、変わらない針が静かに進んでいた。