夜の余白YORU NO YOHAKU
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長めの短編 34 / 雨の夜 / 約11分

手袋を片方ずつ

寒い夜に交わした、ささやかな貸し借り。

*

みぞれの中、三十四歳の琴音は、バス停で手袋を片方落とした。

気づいたのは、鞄から時刻表を撮った携帯電話を出したときだった。右手が冷たく、左のポケットには紺色の手袋が一枚だけある。駅へ向かうバスは遅れていた。屋根のない歩道のどこかへ戻って探すには、雨が強すぎた。

一緒にライブへ行った三十六歳の圭が、自分の手袋を外した。

「これ、使って」

琴音は首を振った。

「それだと、そっちが寒い」

圭は差し出した手を引っ込めず、困ったように笑った。琴音はその笑い方を、今日初めて近くで見た。仕事帰りに何度か立ち寄るレコード店では、彼はもっと気楽に話す人だった。

二人が知り合ったのは、昨年の秋だった。琴音が店の試聴機で同じアルバムを繰り返し聴いていると、隣にいた圭が、その演奏家は来年日本へ来ると教えてくれた。

そのとき彼のことを店員だと思った。琴音が値札の読み方を尋ねると、圭は自分も客だと言って笑った。店主が奥から口を挟み、彼はここでよく時間をつぶしているだけだと説明した。

それから店で会えば挨拶をした。仕事は違い、家も離れていた。共通の友人はいなかった。それでも、聴き終えた音楽について少し話せる相手がいると、琴音は会社からの帰り道を曲がるのが楽しみになった。

チケットの話が出たのは十一月だった。圭の友人が行けなくなり、一枚余るという。琴音は誘われたとき、うれしいより先に、代わりなのかと思った。そんなふうに考えた自分にも驚いた。

「私でよければ」

そう答えると、圭は、琴音さんがその人のアルバムを聴いていたから、と言った。だが、余ったチケットがなくても自分を誘っただろうかという疑問は残った。

前の恋人とは、何かのついでにばかり会っていた。近くで用事がある、買いものを手伝ってほしい、一人分作るのは面倒だ。琴音も会いたいと言わず、その用事を引き受けた。別れるとき、自分たちは忙しくて会えなかったのだと、二人とも説明した。

その説明だけでは足りないことを、今は知っていた。

ライブ当日、琴音は約束より二十分早く着いた。会場のロビーには、濡れたコートの匂いがした。圭はすでにいて、出演者の変更を知らせる紙を読んでいた。

目当てのピアニストが体調を崩し、代役が出演するという。公演自体は予定どおり行われる。払い戻しの案内の前には、短い列ができていた。

「どうする?」

圭が聞いた。琴音は、そのまま入ろうと答えた。聞かれる前に残念じゃないと言ってしまいそうだったので、少し間を置いてから付け加えた。

「残念ではあるけど、ほかの人の演奏も聴いてみたい」

圭は、僕も残念、と言った。琴音はそれを聞いて安心した。一緒に来た相手をがっかりさせないために、全部よかったことにしなくていい。

座席は舞台の左側だった。圭は上着を膝に畳み、琴音は鞄を足元に置いた。演奏が始まるまで、二人ともいつもの店のようには話せなかった。会場の天井を見上げたり、パンフレットの同じページを読み直したりした。

一曲目が始まると、その気まずさは少し遠のいた。

琴音は低い弦の音が好きだった。職場では一日中、複数の窓口から届く相談を聞き、誰が何を急いでいるか考えている。音楽を聴くときだけは、意味を取りこぼさないように身構えなくてよかった。

隣で圭が小さく膝を動かしていた。拍手の始まるところが、彼だけ少し早かった。顔を見るのは失礼かと思いながら、琴音は舞台より一度多く彼を見た。

休憩時間に、圭は二曲目の終わり方がよかったと言った。琴音はあの曲には入り込めなかった。そう話すと、圭は意外そうに目を開き、どこが苦手だったか尋ねた。

「終わったと思うと、また始まるところ」

「そこが好きだった」

二人は笑った。同じ公演へ来るなら、同じところで感動しなければいけないわけではなかった。

終演後、駅近くの小さな店で食事をした。外はすでにみぞれになっていた。窓際の席から、信号待ちの人たちが一斉に傘を傾けるのが見えた。

琴音はチケット代を入れた封筒を渡した。圭は飲み物代くらい出すと言ったが、琴音はそれも半分ずつにしたいと答えた。

「気を遣わせた?」

「自分で来たっていう気分でいたいの」

自分でもうまく説明できていないと思った。圭は少し黙り、それから封筒を受け取った。代わりに次に何か奢る約束をしようとは言わなかった。

料理が来るまで、二人は仕事の話をした。圭は建物の設備を点検する会社に勤めていた。音がいつもと違うと気になってしまい、休日の飲食店でも換気扇に耳が向くことがあるという。

「今も?」

琴音が天井を見ると、圭は今は大丈夫と笑った。

琴音は相談窓口の仕事について話した。相手が怒っていても、それが自分へ向けられたものか、制度への不満なのかを考える。終わったあとで、とても静かな場所へ行きたくなる日がある。

「それで、音楽?」

「静かすぎると、今日の会話を思い出すから」

自分の習慣を人に説明して、琴音は初めて、その理由が分かった気がした。圭もレコード店へ寄るのは、自宅と仕事の間に少し違う場所が欲しいからだと話した。

店を出たとき、風が強くなっていた。圭は駅まで歩こうとしたが、琴音の帰りのバスは途中の停留所から出ている。彼女がそう伝えると、圭は一緒に待つと言った。

「反対方向になるよ」

「知ってる。まだ、話したいから」

その言葉を聞いたせいで、琴音は手袋を鞄から出す順序を間違えたのかもしれなかった。

停留所で、二人は手袋を一枚ずつ使うことにした。琴音の右と、圭の左が、同じ灰色になった。琴音が残った自分の手袋もはめようとすると、圭が、それなら最初から片方だけ貸せばよかった、と言って笑った。

「本当だ」

琴音も笑い、紺色の手袋を鞄へしまった。圭だけ片手を冷やしているのが気になって、うまく考えられなかったらしい。

残った手は、それぞれのポケットに入れた。手袋の余った指先を折ると、圭の手が自分より大きいことが分かった。彼と近づいているのに、触れる理由としてこの小さな忘れものを使いたくない気持ちもあった。

バスは十五分遅れた。琴音は今日の演奏の感想を話し、圭は違う曲の話をした。好きな音は重ならなくても、聴いていた時間は共有できた。

後ろに来た女性が、終バスはまだかと尋ねた。琴音は携帯電話で遅延情報を確かめ、まだ来ていないと答えた。画面を閉じると、仕事が終わっても案内しているね、と圭が言った。

責める声ではなかった。琴音は笑って、こういう質問ならすぐ答えられるから、と返した。本当に分からないのは、隣にいる人が自分とまた会いたいかどうかだった。

「次も、行かない?」

圭が聞いたとき、遠くにバスの灯りが見えた。

琴音は返事より先に、右手の手袋を外した。手の形がしばらく残り、それから柔らかく潰れた。

「返しに来る用事にしないでね」

自分でも、言葉が足りないと思った。圭の表情が一瞬止まったので、琴音は続けた。

「今日、楽しかった。だから、チケットが余ったときだけじゃなくて、私に会いたいときに誘ってほしい」

圭は少し驚き、それからうなずいた。

「じゃあ、ちゃんと誘う。来月、君と行きたい」

それは予定表に書ける約束ではまだなかった。それでも、手袋を理由にもう一度会う約束を作るより、琴音には確かな言葉だった。

琴音は手袋を返し、バスに乗った。車窓の向こうで、圭は両手をポケットに入れた。彼女は曇った窓に丸を作り、そこから手を振った。

帰宅して鞄を空けても、落とした手袋は出てこなかった。琴音は残った一枚を机に置いた。自分で選んだ安い手袋だったが、三年使っていた。片方だけになると、今まで気づかなかった毛糸のすり減りがよく見えた。

翌朝、会場とバス会社に問い合わせた。見つからなかった。圭にも知らせようと携帯電話を開き、どうしてそれを伝えたいのか少し考えた。返す物がなくても、昨日の続きの話をしていいのだろう。

『手袋、見つからなかった。片方だけだと、思ったより寂しいね』

送ると、圭は自分も昔、傘を三本続けてなくしたと返してきた。慰めには少し変な話だったが、琴音は笑った。困りごとを解決してもらうためだけに連絡する必要はない。

通勤途中で新しい手袋を買った。今度は明るい緑だった。試着した手を見て、琴音は自分の好きな色を選べたことをうれしく思った。昨日と同じ紺色に戻さなくても、片方をなくしたことまで忘れるわけではなかった。

その日の夕方、圭から公演の案内が届いた。琴音が一度も聴いたことのない奏者だった。候補の土曜は勤務日だったので、彼女は日曜なら会えると返した。

圭からの返信は、その日のうちには来なかった。琴音は、断られたと思わせてしまっただろうかと考え、理由を詳しく追加しそうになった。だが、自分は会える日まで伝えている。返事を待つ間の不安を、すべて説明で埋めなくてもいい。

翌朝、圭は日曜も公演があると知らせてきた。友人に頼んでいた仕事の交代を確認していたという。琴音は、自分の見えないところにも彼の生活があることを思い出した。

ところがその週末、琴音が熱を出した。圭は予約を取り消し、体調が戻ったらまた決めようと言った。薬を買いに来るとも、世話をするとも言わなかった。必要なものはあるかとだけ聞かれ、琴音は大丈夫と返した。

返したあとで、お見舞いの短い電話ならうれしいと伝えた。圭は夜に電話をくれた。五分だけのつもりが、今日見た犬の話や、店主が棚を倒しかけた話で十五分になった。

次に会えたのは、風のぬるくなった三月だった。延期した公演の代わりに、二人は午後のレコード市へ行った。会場へ向かう橋の上で、琴音はポケットから素手を出した。

「今日は何も忘れてない」

「それはよかった」

圭が笑った。琴音は、自分の右手を彼の左手のそばへ近づけた。彼がその動きを見て、手を開いた。

手袋のいらない季節になっていた。二人は、何も貸し借りせず、自然に手をつないだ。手のひらは思っていたより温かく、琴音は歩幅を少しだけゆっくりにした。

了Thank you for reading.

もう少し、夜のつづきを。

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ABOUT THIS LIBRARY

恋の、その先の余白。

「夜の余白」は、成人同士の恋愛と日々の心の動きを描く、オリジナル短編の書庫です。再会、秘密、別れ、そして新しい一歩。眠る前のひとときに、ひとつの物語を。

全130篇を無料でお読みいただけます。約10分で楽しめる短編を中心に、さまざまな恋の物語を集めました。作品はAIを用いて制作しています。露骨な性描写は含みません。

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運営名:夜の余白
初版:2026年10月21日
更新:2026年10月23日
収録:恋愛短編130篇(うち読了目安10分以上100篇)