三十歳の里穂は、恋人の悠介に触れるとき、いつも先に笑った。
上着についた糸くずを取るときも、並んで歩いて肩が当たったときも、冗談を一つ添えた。真剣に見えたら、重いと思われる気がした。三十二歳の彼も、つられて笑った。
二人の距離は、冗談の分しか縮まらなかった。
付き合って二か月になる。会えば楽しく、連絡も途切れない。次に会う約束はどちらからでもした。なのに、別れ際の改札で少し長く一緒にいたいと思っても、里穂は電車が来るねと先に言った。
悠介はうなずき、気をつけてと手を振った。彼女は帰りの車内で、自分から帰るように促したくせに、寂しいと思った。
悠介と知り合ったのは、友人の家で開かれた食事会だった。里穂が持参したサラダは、水気を切り足りず、器の底に汁がたまっていた。誰かに言われる前に、自分で失敗を笑いにした。
悠介は笑わず、取り分けるときに深い皿を持ってきた。それからドレッシングの作り方を聞いた。里穂は、家にあったものを混ぜただけだと答えた。本当は何度か試して作ったものだった。
帰り道で彼がまた食べたいと言ったときも、里穂は、次も水浸しでよければと返した。彼は困ったように笑い、味のことを言ってるんだけどと付け加えた。
あとから友人に、あの人は里穂へ話しかけたかったんじゃないかと言われた。里穂には、冗談で受け流した自分の声ばかり思い出された。
何度か会ううち、悠介から付き合ってほしいと言われた。里穂は驚いて笑い、悠介が返事を待つのを見て、ようやく自分もと答えた。あのときの緊張した顔を覚えている。
彼は勇気を出してくれた。自分はどうして、いつも少し逃げる場所を用意するのだろう。
里穂は、気を遣う職場に長くいた。誰かが不機嫌になる前に冗談を言い、自分の希望を最後に回す。場が落ち着くと、うまくできた気がした。
その癖を、自分が好きな人の前でも続けていた。触れたいと思うより先に、断られたときの言い訳を考える。冗談なら、相手が受け取らなくても、なかったことにできる。
悠介が悪いわけではない。彼は約束を急かさず、里穂の言葉をよく聞いた。ただ、彼女が笑えば、笑ってよい話だと思うのだろう。二人とも相手に合わせた結果、気持ちだけが少し置いていかれた。
ある晩、悠介から次の休日に映画へ行こうと誘われた。里穂が観たかった作品だった。彼はそのことを覚えていた。返事を打ちながら、里穂は、今日こそ少し違うことをしてみたいと思った。
友人へ相談すると、手をつなぎたいと言えばいいでしょうと簡単に答えられた。分かっている。分かっていることができないから困っている。
「言われたら、悠介さんも考えられるんじゃない?」
友人が続けた。里穂はその言葉を覚えた。自分の希望を言わないことは、相手を困らせない代わりに、相手が選ぶ機会もなくしているのかもしれない。
映画の日、里穂は待ち合わせへ少し遅れた。髪を直し始めると、どうでもよいはずの前髪が気になってしまった。悠介は駅前で本を読み、気にしなくていいと言った。
いつもなら大げさに謝って笑いを取るところだった。今日は、待ってくれてありがとうとだけ伝えた。悠介は少し驚いたあと、うなずいた。
二人は映画館で並んで座った。肘掛けが一つ、その間にあった。里穂は飲み物を置き、悠介は自分の鞄を足元へ寄せた。手を置く場所を考えすぎて、予告編の内容が半分も入ってこなかった。
本編が始まると、ようやく物語へ入れた。主人公は、家族に言えなかったことを手紙へ書く人物だった。里穂は、書いたあとも渡さずにいる姿を見て、少し腹が立った。言わなければ相手には分からないのに。その苛立ちは、自分にも向いていた。
上映後、悠介は主人公がようやく話せてよかったと言った。里穂は、もっと早く言えばいいのにと思ったと答えた。
「でも、難しいときはあるよね」
悠介が言った。里穂は彼の横顔を見た。自分なら簡単に言えるという顔ではなかった。
二人は駅まで歩くことにした。晴れた日で、夕方の風が少し冷たかった。里穂は鞄を右手から左へ持ち替えた。それだけで、心臓が速くなった。
横断歩道の手前で、悠介が先に車を確認した。青に変わるまで、二人の間に短い沈黙ができた。里穂は笑わずに手を出した。
悠介が見下ろした。ほんの数秒の沈黙に、里穂は手を引っ込めそうになった。何でもないと言えば、今ならまだ冗談にできる。
「触っていいの?」
彼が聞いた。
「うん。そのために、出した」
声は少し震えた。だが、自分が思ったほど大きな言葉ではなかった。悠介は指先からゆっくり握った。
「嫌だったら、すぐ言って」
里穂はうなずいた。笑ってごまかさなくても、逃げ道がある。だから、逃げなくてよかった。
信号が変わり、二人は歩き出した。手をつないだままだと鞄の位置が違い、里穂は肩を少し持ち上げた。悠介が持とうかと聞いたが、自分で持てると答えた。断ることと、手を離すことは別だった。
少し先で、里穂は握る強さを弱めてもらった。緊張しているのは彼も同じらしく、悠介は気づかなかったと謝った。里穂は大丈夫と反射的に言いかけ、今はちょうどいいと言い直した。
駅へ着くまで、二人は手をつないだ。話題は映画の細かな場面から、翌週の仕事の予定へ移った。特別な話をしなくても、手の温かさを意識し続けていた。
悠介は途中で、実は自分も手をつなぎたかったと話した。里穂は驚き、どうして言わなかったのかと聞いた。
「里穂が冗談にするから、まだ早いのかなと思ってた」
「私は、冗談にしないと、重いかなと思ってた」
二人は止まって顔を見合わせた。それぞれが相手の気持ちを推測し、同じ場所で待っていたらしい。
悠介は、確認すればよかったと言った。里穂も、ちゃんと返事をすればよかったと答えた。どちらか一人が不器用だったという話にしなくてよかった。
改札の前で、彼の指がほどけた。里穂は急に、手のひらの温度が変わるのを感じた。いつもなら電車の時刻を見ていた。
今日は、寂しいと言った。
初めて口にしたわがままは、思ったほど大きな音を立てなかった。悠介は時計を見たあと、彼女を見た。
「もう少し、歩く?」
里穂はうなずいた。ただし帰りが遅くなりすぎるのは嫌だと付け加えた。もう少し一緒にいたいことと、明日の朝に無理をしたくないことは、両方言ってよかった。
二人は駅を離れ、公園へ向かった。
公園の灯りの下には、ベンチが二つ並んでいた。一つには犬を連れた人が座っていたので、二人は少し離れた道を歩いた。夜になりかけた木の枝が、灯りの上で揺れていた。
悠介は、寒くないかと聞いた。里穂は少し寒いと答えた。彼が自分の上着を脱ごうとしたので、それは大丈夫、もう少しだけ近くにいてほしいと伝えた。
言ってから照れて笑った。悠介も笑ったが、今度はそれで話を終えなかった。少し近くへ立ち、これでいいかと尋ねた。
里穂はうなずいた。冗談を言わないことより、笑っていても自分の言葉を取り消さないことのほうが大事なのかもしれない。
二人が足を止めると、遠くの車の音が聞こえた。悠介が彼女の顔を見て、キスしてもいいか尋ねた。
里穂は、今度はちゃんと声で答えた。触れるより前に、心臓がその返事を聞いていた。
短く触れたあと、二人はどちらからともなく少し離れた。里穂は何か気の利いた言葉を探したが、見つからなかった。悠介も黙っていた。その沈黙を、気まずいと思わずに持っていられた。
帰りの駅へ戻る道で、悠介が次はどこへ行きたいか聞いた。里穂は、今度は家で一緒に料理をしたいと答えた。以前から考えていたことだったが、誘うと先を急いでいるように思われる気がして言えなかった。
悠介は、その週末なら午後が空いていると言った。里穂は遅い時間ではなく、昼からがいいと希望を伝えた。会う場所が変わっても、勝手に何かが決まるわけではない。これからも、その都度話してよかった。
電車に乗ってから、里穂は友人へ報告しようとしてやめた。まだ誰かへ面白く話すための出来事にしたくなかった。自分の中に静かに置いておきたい。
代わりに悠介へ、今日はうれしかったと送った。彼からは、自分もうれしかったと返ってきた。短い文で足りることに、里穂は少し驚いた。
翌週、里穂は昼食の材料を買う前に、悠介へ苦手なものを聞いた。彼はきのこを挙げ、里穂は自分が好きなものなので少し迷った。全部をやめるのではなく、別に炒めることにした。
同じ食卓にも、違う希望があっていい。里穂は買いもの籠へ二つの皿に分けられる材料を入れた。会う前から相手の答えを決める代わりに、尋ねることが一つ増えた。
料理の日、悠介は約束より早く着きそうだと連絡してきた。里穂はまだ掃除の途中だった。以前なら慌てて片づけ、何でもない顔で迎えただろう。今日は、予定の時間まで待ってほしいと返した。
断ったように思われないか、一瞬不安になった。だが悠介は、近くで買いものをしてから行くと答えた。欲しいものがあれば聞く、とも書いてあった。里穂は忘れていた牛乳を頼んだ。
彼を迎えると、居間の棚には読みかけの本が残っていた。悠介はその本を見て、面白いかと尋ねた。きれいな部屋だけが会うための条件ではなかった。
料理の途中、彼が包丁を使う横へ立つと、里穂は腕へ触れたくなった。今は危ないから、あとで、と自分で思って笑った。悠介がどうしたのかと聞き、彼女はそのまま話した。
食事のあと、二人でソファへ座った。里穂が近づいてもいいかと聞くと、悠介はうなずいた。自分だけが答える役ではない。彼の返事を待つ短い時間にも、以前より安心できた。
里穂は帰りの窓に映る自分を思い出した。あのときと同じように、いまも肩の力が少し抜けていた。
窓に映る自分は、少し笑っていた。その笑いは、逃げるためではなかった。悠介が隣で今日の味付けについて話し始めた。里穂は自分の感想も伝え、次に作りたい料理を一つ挙げた。