夜の余白YORU NO YOHAKU
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長めの短編 31 / 再会 / 約10分

レコードの傷のところ

同じところで止まっていた恋に、針を置く。

*

中古レコード店で、四十七歳の航平は、昔の恋人の字を見つけた。

内袋に小さく、曲順を変えて聴く指示が書いてあった。A面の三曲目から。次はB面の最後。それから最初へ。几帳面な字なのに、聴き方はずいぶん勝手だった。

二十代のころ、彼が貸して返ってこなかった一枚だった。別れたあとで返してほしいと一度だけ連絡し、返事がないまま、それ以上は言わなかった。

値札を見て笑った。二百円。長く恨んだものに、そんな値段がつく。

盤を出して明かりへかざすと、B面に細い傷があった。それがいつできたものか分からない。航平は盤を袋へ戻し、レジへ持っていった。

店は母の家から駅へ帰る途中にあった。昔は会社帰りにも寄ったが、この数年は前を通るだけだった。その日は母の部屋から持ち帰る本を選び、鞄が重くなっていた。

母を施設へ送ったばかりだった。必要なものを運び、家に残ったものを少しずつ確かめている。物はまだそこにあるのに、使う人だけがいない。台所の時計も、玄関のスリッパも、母が帰ってくるのを待っているように見えた。

自分の部屋へ戻る前に、違う場所へ寄りたかった。何を買うつもりもなく入った店で、借りたまま返さなかった人の字に出会うとは思わなかった。

航平は店主へ、このレコードを持ち込んだ人について尋ねた。店主は帳簿を見て、四十五歳くらいの女性がまとめて持ってきたと答えた。個人の連絡先は教えられない。当然の答えだった。

航平はうなずき、自分の名刺を出した。

「もし連絡が取れるなら、渡してもらえませんか。返事がなくても、それ以上は聞きません」

店主は内容を聞き、本人へ確認してみると言った。航平はレコード代を払い、袋を受け取った。店を出てから、二百円のものを取り返すために大げさなことをした気がした。

だが、取り返したかったのはレコードだけではない。そのことも分かっていた。

帰宅してプレーヤーを拭いた。針を落とす前に、回転していない盤をしばらく見た。彼女と別れてから、何度か住む場所を変えた。仕事も変わり、一度結婚して、数年前にその結婚も終わった。

その間も、このレコードのことをたまに思い出した。彼女は借りたものを返さない人だったという、小さな判決を自分の中に残していた。

別れの理由を聞かれれば、価値観が合わなかったと答えた。実際は、将来の話をするたび、航平が先に結論を出した。彼女はまだ考えたいと言い、彼は待たされていると感じた。

貸したレコードが返らなかったことは、彼女のいい加減さを証明するのに便利だった。自分も返しそびれた本や、返事をしなかった手紙があることは、別の棚へ置いていた。

針を落とすと、一曲目が流れた。途中で、昔よく分からなかった管楽器の音が耳に残った。二十代のころは歌だけを追っていた。曲は変わっていないはずなのに、聴こえるものは違っていた。

B面の傷のところで、小さな音がした。針は飛ばず、曲は続いた。航平は最後まで聴いた。

一週間後、電話が来た。

相手が名乗る前に、航平は声で分かった。昔より少し低く、話し始める前に一度息を吸う癖は同じだった。

彼女は店主から名刺を受け取ったと話し、レコードのことで間違いないか尋ねた。航平がそうだと答えると、会って返したほうがよいものかと、少し笑った。

「もう買ったから、返すものはないよ」

航平も笑った。それでも一度会おうと、彼から言った。彼女はその週末なら時間があると答えた。

待ち合わせたのは、二人とも今の生活から寄りやすい駅だった。昔通った店を選ばなかったのが、航平には少しありがたかった。

彼女は淡い色のコートを着てきた。四十五歳になった顔を、航平はすぐに知っていると思い、次には知らない人だと思った。髪の分け方も、歩く速さも、記憶のままではなかった。

「それ、あなたのだった?」

会って最初に、彼女は言った。記憶の中ほど、申し訳なさそうではなかった。航平は一瞬、長く待っていた謝罪が来ないことに拍子抜けした。

「内袋に、字があったから」

彼が答えると、彼女は覗き込み、ほんとだ、と笑った。自分の字のことも、レコードを借りたことも、長いあいだ思い出していなかったらしい。

二人で喫茶店へ入り、レコードを挟んで座った。

彼女は実家を片づけていた。父親が亡くなり、母親は妹の家へ移るという。自分の部屋に残したものを引き取ると、段ボールが三箱になった。レコードを聴く機械はもう持っていないので、店へまとめて運んだ。

航平も母を施設へ送ったばかりだと話した。決めるまでに長くかかり、母自身が疲れてしまったことも、家へ帰るときに罪悪感が残ることも、思っていたより自然に口から出た。

彼女は自分の経験をすぐ重ねず、航平が話すのを待った。それが意外だった。昔の彼女はもっと早口だった気がする。いや、自分が最後まで聞いていなかっただけかもしれない。

「家へ帰ると、何をしていいか分からなくなるね」

彼女が言った。航平はうなずいた。片づければ進んだ気になるが、何を終えようとしているのか分からない日がある。

懐かしい曲の話は、すぐ最近の眠れない夜の話になった。母親の家に残った古い薬箱、父親の手帳、何に使うのか分からない鍵。二人とも、簡単に捨てられないものをたくさん知っていた。

彼女は結婚せず、今は一人で暮らしていると話した。航平も離婚したことを伝えた。どちらも理由を詳しく尋ねなかった。それだけで今日分かる人に、互いを縮めたくなかった。

コーヒーを飲み終えるころ、彼女が内袋を撫でた。

「返したかったもの、ほかにもあった気がする」

航平は首を振った。

「これは、もう二百円払ったから」

彼女が笑い、彼も笑った。その笑いが落ち着いてから、航平は、自分がずっと腹を立てていたと認めた。

「レコードに?」

「それを理由にしてた、っていうほうが近いかも」

彼女は小さくうなずいた。返さなかったことは悪かった、と言った。ただ、別れた直後にはどう連絡すればいいか分からず、箱の中へしまい、そのまま忘れたという。

航平は、それなら仕方ないとすぐには言わなかった。当時の自分が寂しかったことも事実だった。彼女も、忘れたから許してほしいという顔はしなかった。

「私も、待ってって言いながら、何を待ってほしいのか説明してなかった」

彼女が言った。航平は、聞き直すより、結論を急いだ自分を思い出した。若かったからで全部を片づけるには、当時の二人はそれぞれ真剣だった。

二人とも、もっと上手にできたことはあった。だからといって、今日、その場でやり直す約束をする必要はない。

彼女は内袋を元どおり戻した。航平はレコードを鞄へしまった。テーブルの上が広くなると、ようやく今の二人の食べ物や飲み物だけが残った。

喫茶店を出たあと、駅まで少し歩いた。彼女が古い建物を見上げ、まだここにあるんだねと言った。航平は以前何があった場所か覚えていなかった。

同じ時期に近くで暮らしていても、覚えているものは違う。彼女が覚えていたパン屋を、航平は知らない。航平が話す橋の工事を、彼女は見たことがなかった。

昔を全部共有しているように感じていたのは、互いが違う場所で過ごした時間を考えていなかったからだろう。今は、その違いを聞くことが面白かった。

彼女は週に何日か、母親の引っ越し先へ行くという。航平も施設へ通う予定がある。会える日をすぐ決めるには、二人とも生活が落ち着いていなかった。

「また、聴いたら感想を教えて」

彼女がレコードのことを言った。

航平は、今度、音を聴ける場所へ一緒に行かないかと尋ねた。自宅へ招くのはまだ早い気がしたし、彼女も気軽に断れる場所がよかった。

彼女は、来月なら時間を作れそうと答えた。航平は、その頃にもう一度連絡すると言った。何年も会わなかったあとで、一か月待つのは不思議と長くなかった。

帰宅して、航平は母へ電話した。母はその日の食事と、隣に座った人の話をした。航平は家の片づけが少し進んだことを伝え、処分する前に見たいものがあれば教えてほしいと聞いた。

母は少し考え、台所の引き出しにある古い写真を挙げた。航平が捨ててもよいと思っていた紙の束だった。何が大切かを、自分一人で決めなくてよかったと思った。

電話を切ってから、レコードをもう一度回した。今度は内袋の指示どおり、A面の三曲目から聴いた。順番が違うと、よく知っている曲の始まり方まで変わる。

彼女へ短い感想を送った。昔なら好きな曲を挙げたあと、それが最もよい聴き方だと説明したかもしれない。今日は、この順番だと途中で少し明るくなる、とだけ書いた。

返事は翌日の昼に来た。彼女はその順番にした理由を、もう覚えていないと言った。航平は笑った。すべての過去に、回収できる意味があるわけではない。

次に会う日を決めるとき、彼女は仕事が長引く可能性を先に伝えた。航平は遅れても入れる店を探し、無理なら別の日でよいと答えた。できることとできないことを、今なら少しずつ話せた。

週末、航平は自分の本棚から、友人に借りたままの一冊を見つけた。貸した側の記憶ばかり残していたが、自分にも返しそびれたものがあった。

友人へ連絡すると、まだ持っていたのかと笑われた。本はもう要らないが、久しぶりに食事はしたいという。航平は本を持って行くと返した。要らないと言われても、返す前に自分で読み返したかった。

片づけることは、なかったことにする作業だけではない。今ある関係へ持ち帰れるものを選ぶことでもあるのだろう。航平は本の間から古いしおりを抜き、友人へ渡す袋を用意した。

傷のある曲を、最初からやり直す必要はなかった。針がその場所を通るとき、小さな音はする。それでも、その先へ音楽は続いた。

航平は棚へレコードを戻した。昔貸した場所でも、返ってこなかった箱の中でもない、今の自分が聴くための場所だった。次の夜、彼女へ話したいことは、一曲ぶんで十分あった。

了Thank you for reading.

もう少し、夜のつづきを。

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ABOUT THIS LIBRARY

恋の、その先の余白。

「夜の余白」は、成人同士の恋愛と日々の心の動きを描く、オリジナル短編の書庫です。再会、秘密、別れ、そして新しい一歩。眠る前のひとときに、ひとつの物語を。

全130篇を無料でお読みいただけます。約10分で楽しめる短編を中心に、さまざまな恋の物語を集めました。作品はAIを用いて制作しています。露骨な性描写は含みません。

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運営名:夜の余白
初版:2026年10月21日
更新:2026年10月23日
収録:恋愛短編130篇(うち読了目安10分以上100篇)