中古レコード店で、四十七歳の航平は、昔の恋人の字を見つけた。
内袋に小さく、曲順を変えて聴く指示が書いてあった。A面の三曲目から。次はB面の最後。それから最初へ。几帳面な字なのに、聴き方はずいぶん勝手だった。
二十代のころ、彼が貸して返ってこなかった一枚だった。別れたあとで返してほしいと一度だけ連絡し、返事がないまま、それ以上は言わなかった。
値札を見て笑った。二百円。長く恨んだものに、そんな値段がつく。
盤を出して明かりへかざすと、B面に細い傷があった。それがいつできたものか分からない。航平は盤を袋へ戻し、レジへ持っていった。
店は母の家から駅へ帰る途中にあった。昔は会社帰りにも寄ったが、この数年は前を通るだけだった。その日は母の部屋から持ち帰る本を選び、鞄が重くなっていた。
母を施設へ送ったばかりだった。必要なものを運び、家に残ったものを少しずつ確かめている。物はまだそこにあるのに、使う人だけがいない。台所の時計も、玄関のスリッパも、母が帰ってくるのを待っているように見えた。
自分の部屋へ戻る前に、違う場所へ寄りたかった。何を買うつもりもなく入った店で、借りたまま返さなかった人の字に出会うとは思わなかった。
航平は店主へ、このレコードを持ち込んだ人について尋ねた。店主は帳簿を見て、四十五歳くらいの女性がまとめて持ってきたと答えた。個人の連絡先は教えられない。当然の答えだった。
航平はうなずき、自分の名刺を出した。
「もし連絡が取れるなら、渡してもらえませんか。返事がなくても、それ以上は聞きません」
店主は内容を聞き、本人へ確認してみると言った。航平はレコード代を払い、袋を受け取った。店を出てから、二百円のものを取り返すために大げさなことをした気がした。
だが、取り返したかったのはレコードだけではない。そのことも分かっていた。
帰宅してプレーヤーを拭いた。針を落とす前に、回転していない盤をしばらく見た。彼女と別れてから、何度か住む場所を変えた。仕事も変わり、一度結婚して、数年前にその結婚も終わった。
その間も、このレコードのことをたまに思い出した。彼女は借りたものを返さない人だったという、小さな判決を自分の中に残していた。
別れの理由を聞かれれば、価値観が合わなかったと答えた。実際は、将来の話をするたび、航平が先に結論を出した。彼女はまだ考えたいと言い、彼は待たされていると感じた。
貸したレコードが返らなかったことは、彼女のいい加減さを証明するのに便利だった。自分も返しそびれた本や、返事をしなかった手紙があることは、別の棚へ置いていた。
針を落とすと、一曲目が流れた。途中で、昔よく分からなかった管楽器の音が耳に残った。二十代のころは歌だけを追っていた。曲は変わっていないはずなのに、聴こえるものは違っていた。
B面の傷のところで、小さな音がした。針は飛ばず、曲は続いた。航平は最後まで聴いた。
一週間後、電話が来た。
相手が名乗る前に、航平は声で分かった。昔より少し低く、話し始める前に一度息を吸う癖は同じだった。
彼女は店主から名刺を受け取ったと話し、レコードのことで間違いないか尋ねた。航平がそうだと答えると、会って返したほうがよいものかと、少し笑った。
「もう買ったから、返すものはないよ」
航平も笑った。それでも一度会おうと、彼から言った。彼女はその週末なら時間があると答えた。
待ち合わせたのは、二人とも今の生活から寄りやすい駅だった。昔通った店を選ばなかったのが、航平には少しありがたかった。
彼女は淡い色のコートを着てきた。四十五歳になった顔を、航平はすぐに知っていると思い、次には知らない人だと思った。髪の分け方も、歩く速さも、記憶のままではなかった。
「それ、あなたのだった?」
会って最初に、彼女は言った。記憶の中ほど、申し訳なさそうではなかった。航平は一瞬、長く待っていた謝罪が来ないことに拍子抜けした。
「内袋に、字があったから」
彼が答えると、彼女は覗き込み、ほんとだ、と笑った。自分の字のことも、レコードを借りたことも、長いあいだ思い出していなかったらしい。
二人で喫茶店へ入り、レコードを挟んで座った。
彼女は実家を片づけていた。父親が亡くなり、母親は妹の家へ移るという。自分の部屋に残したものを引き取ると、段ボールが三箱になった。レコードを聴く機械はもう持っていないので、店へまとめて運んだ。
航平も母を施設へ送ったばかりだと話した。決めるまでに長くかかり、母自身が疲れてしまったことも、家へ帰るときに罪悪感が残ることも、思っていたより自然に口から出た。
彼女は自分の経験をすぐ重ねず、航平が話すのを待った。それが意外だった。昔の彼女はもっと早口だった気がする。いや、自分が最後まで聞いていなかっただけかもしれない。
「家へ帰ると、何をしていいか分からなくなるね」
彼女が言った。航平はうなずいた。片づければ進んだ気になるが、何を終えようとしているのか分からない日がある。
懐かしい曲の話は、すぐ最近の眠れない夜の話になった。母親の家に残った古い薬箱、父親の手帳、何に使うのか分からない鍵。二人とも、簡単に捨てられないものをたくさん知っていた。
彼女は結婚せず、今は一人で暮らしていると話した。航平も離婚したことを伝えた。どちらも理由を詳しく尋ねなかった。それだけで今日分かる人に、互いを縮めたくなかった。
コーヒーを飲み終えるころ、彼女が内袋を撫でた。
「返したかったもの、ほかにもあった気がする」
航平は首を振った。
「これは、もう二百円払ったから」
彼女が笑い、彼も笑った。その笑いが落ち着いてから、航平は、自分がずっと腹を立てていたと認めた。
「レコードに?」
「それを理由にしてた、っていうほうが近いかも」
彼女は小さくうなずいた。返さなかったことは悪かった、と言った。ただ、別れた直後にはどう連絡すればいいか分からず、箱の中へしまい、そのまま忘れたという。
航平は、それなら仕方ないとすぐには言わなかった。当時の自分が寂しかったことも事実だった。彼女も、忘れたから許してほしいという顔はしなかった。
「私も、待ってって言いながら、何を待ってほしいのか説明してなかった」
彼女が言った。航平は、聞き直すより、結論を急いだ自分を思い出した。若かったからで全部を片づけるには、当時の二人はそれぞれ真剣だった。
二人とも、もっと上手にできたことはあった。だからといって、今日、その場でやり直す約束をする必要はない。
彼女は内袋を元どおり戻した。航平はレコードを鞄へしまった。テーブルの上が広くなると、ようやく今の二人の食べ物や飲み物だけが残った。
喫茶店を出たあと、駅まで少し歩いた。彼女が古い建物を見上げ、まだここにあるんだねと言った。航平は以前何があった場所か覚えていなかった。
同じ時期に近くで暮らしていても、覚えているものは違う。彼女が覚えていたパン屋を、航平は知らない。航平が話す橋の工事を、彼女は見たことがなかった。
昔を全部共有しているように感じていたのは、互いが違う場所で過ごした時間を考えていなかったからだろう。今は、その違いを聞くことが面白かった。
彼女は週に何日か、母親の引っ越し先へ行くという。航平も施設へ通う予定がある。会える日をすぐ決めるには、二人とも生活が落ち着いていなかった。
「また、聴いたら感想を教えて」
彼女がレコードのことを言った。
航平は、今度、音を聴ける場所へ一緒に行かないかと尋ねた。自宅へ招くのはまだ早い気がしたし、彼女も気軽に断れる場所がよかった。
彼女は、来月なら時間を作れそうと答えた。航平は、その頃にもう一度連絡すると言った。何年も会わなかったあとで、一か月待つのは不思議と長くなかった。
帰宅して、航平は母へ電話した。母はその日の食事と、隣に座った人の話をした。航平は家の片づけが少し進んだことを伝え、処分する前に見たいものがあれば教えてほしいと聞いた。
母は少し考え、台所の引き出しにある古い写真を挙げた。航平が捨ててもよいと思っていた紙の束だった。何が大切かを、自分一人で決めなくてよかったと思った。
電話を切ってから、レコードをもう一度回した。今度は内袋の指示どおり、A面の三曲目から聴いた。順番が違うと、よく知っている曲の始まり方まで変わる。
彼女へ短い感想を送った。昔なら好きな曲を挙げたあと、それが最もよい聴き方だと説明したかもしれない。今日は、この順番だと途中で少し明るくなる、とだけ書いた。
返事は翌日の昼に来た。彼女はその順番にした理由を、もう覚えていないと言った。航平は笑った。すべての過去に、回収できる意味があるわけではない。
次に会う日を決めるとき、彼女は仕事が長引く可能性を先に伝えた。航平は遅れても入れる店を探し、無理なら別の日でよいと答えた。できることとできないことを、今なら少しずつ話せた。
週末、航平は自分の本棚から、友人に借りたままの一冊を見つけた。貸した側の記憶ばかり残していたが、自分にも返しそびれたものがあった。
友人へ連絡すると、まだ持っていたのかと笑われた。本はもう要らないが、久しぶりに食事はしたいという。航平は本を持って行くと返した。要らないと言われても、返す前に自分で読み返したかった。
片づけることは、なかったことにする作業だけではない。今ある関係へ持ち帰れるものを選ぶことでもあるのだろう。航平は本の間から古いしおりを抜き、友人へ渡す袋を用意した。
傷のある曲を、最初からやり直す必要はなかった。針がその場所を通るとき、小さな音はする。それでも、その先へ音楽は続いた。
航平は棚へレコードを戻した。昔貸した場所でも、返ってこなかった箱の中でもない、今の自分が聴くための場所だった。次の夜、彼女へ話したいことは、一曲ぶんで十分あった。