四十歳の澄子は、恋人と部屋を探すたび、南向きを譲れないと言った。
植物が好きだった。今の一人暮らしの部屋には、窓辺に大小十鉢が並んでいる。朝にカーテンを開け、土の乾き具合を確かめる。仕事でうまくいかなかった翌朝も、葉は昨日の続きを静かに伸ばしていた。
前の結婚では、鉢を置くたびに邪魔だと言われた。窓の前を空けてほしい、土をこぼさないでほしい。言われるたびに場所を移し、最後には小さな一鉢しか残らなかった。
今度だけは譲りたくなかった。澄子は物件の条件を入力する画面で、南向きの欄へ印をつけた。
四十四歳の誠は、隣で駅からの距離を確かめていた。
誠には膝に古傷があり、遠くは歩けなかった。調子のよい日もあるので、初めて会ったころの澄子は知らなかった。二人で坂の多い街へ出かけた日、途中の喫茶店で彼がようやく打ち明けた。
澄子は、もっと早く言ってくれればと思った。誠は、楽しそうにしていた彼女の予定を変えたくなかったと答えた。そのとき、困ることは先に話そうと二人で決めた。
部屋探しでも、誠は最初に駅から近い場所がいいと伝えた。澄子は分かったと答えた。だが駅に近く、南向きで、二人の仕事部屋も取れる物件は高かった。
休みのたびに内見へ出かけた。広告では近く見えても、道には階段がある。南向きでも前の建物に隠れ、窓へ日が入らない。写真の明るさだけでは分からないことが多かった。
三軒目の帰り、澄子は遠回りして川沿いを歩こうと提案しかけ、やめた。誠が少し足をかばっていたからだ。自分だけが我慢しているという気持ちが、ふいに出た。すぐにそんな自分が嫌になった。
「今日は、ここまでにしようか」
誠が言った。澄子はうなずいた。二人の会話は次第に、家賃と面積の計算ばかりになっていった。
今の部屋へ誠が来ると、まず植物を眺めた。新しい葉が出たことを覚え、鉢を動かすときには重いものを避けて手伝った。彼が邪魔だと言ったことは一度もない。
それでも澄子は、部屋探しになると身構えた。駅に近いことを優先したら、次は植物の数を減らすことになる。その次は何だろう。彼が何も言っていないうちから、これから失うものを数えた。
ある晩、誠が物件の候補を送ってきた。方角の欄には北とある。澄子は図面を開く前に、南向きがいいと言ったでしょうと返した。
返事は少し遅れて届いた。窓の前が開けているので、写真だけでも見てほしかったという。澄子は画面を閉じ、また開いた。誠が自分の条件を忘れたわけではない。それでも、忘れられたような痛みが先に来た。
翌日、二人で電話をした。誠は内見をしなくてもよいと言った。澄子は、見ずに決めつけたのは自分だと答えた。見たあとで断ることもできる。それだけのことを、自分は忘れていた。
週末、北向きの部屋を訪ねた。駅からは平らな道で七分ほど。途中に小さな公園とスーパーがあった。誠の歩き方が、いつもの内見より軽かった。
澄子はそれに気づきながら、まだ喜ぶのが怖かった。
玄関の先へ入ると、窓の向こうに広い空があった。前には低い建物があり、その先は川だった。直射日光は入らないが、部屋は暗くなかった。
澄子は居間の真ん中に立った。壁に反射した光は柔らかく、自分の影が薄かった。南向きという言葉で想像していた明るさとは違うが、息苦しさはなかった。
「ここなら通える」
誠が言ったあと、すぐに口を閉じた。自分だけが先に気に入ったことを、悪いと思ったのだろう。
澄子はベランダに出て、鉢を置く幅を測った。手すりの高さ、風の抜け方、室外機の位置。今の部屋で使っている台は置けそうだった。ただ、日光を多く欲しがる鉢には厳しいかもしれない。
「全部の植物は、無理かもしれない」
澄子が言うと、誠は困った顔をした。
「減らしてほしいとは、言いたくない」
彼は本当に困っていた。条件を通すために、その場だけよいことを言っている顔ではなかった。
「この部屋でよかったって、私に言わせたい?」
澄子は聞いてから、自分の声の固さに気づいた。
誠はしばらく黙り、首を振った。
「よくないなら、そう言ってほしい。ただ、僕にも無理な道はある」
澄子はメジャーを巻き戻した。彼は自分の条件を説明している。前の夫と同じように何かを奪おうとしているのではない。
二人はその場で決めず、資料を持ち帰った。仲介の担当者へ返事をする期限を確かめ、もう一度話す時間を作った。
帰りの喫茶店で、澄子は前の結婚の話をした。鉢を減らしたことは、誠も知っていた。だが一つ譲ると次も譲らなければならない気がすることは、初めて伝えた。
「今も、それを私が続けてるのかもしれない」
澄子は言った。
「まだ何も言われてないのに、取られるものを考えてる」
誠はカップの持ち手から指を離した。自分が同じ相手として警戒されるのは寂しい、と答えた。その言葉は澄子に痛かったが、聞けてよかった。彼だけが理解する役を引き受ければ、また違う不満が残る。
「でも、すぐ安心してって言っても、難しいんだろうね」
「うん。難しい。でも、違う人だとは分かってる」
二人は図面を広げた。植物のために使いたい場所を、澄子が鉛筆で囲んだ。誠は自分の机と、通り道にしたい幅を書いた。対立しているのは、植物と膝ではない。二人がどこでどう暮らすかという、具体的な場所の話だった。
別の候補も残っていた。家賃は少し高いが、南向きで駅から近い。ただし部屋が狭く、在宅勤務の机を一つしか置けない。どの部屋にも得るものと難しいものがあった。
澄子は初めて、南向きなら全部うまくいくと思っていた自分を疑った。方角を守ることと、植物を大切にすることは同じではないのかもしれなかった。
二人は植物店へ行き、北向きの部屋について相談した。店員は写真と図面を見て、明るさの感じ方は人と植物で違うので、一度に全部を移さず様子を見てはどうかと話した。
澄子は今育てている種類を書いたメモを出した。店員がそれぞれの置き場所を考える横で、誠は何度か質問した。澄子が普段している世話の時間も尋ねた。
帰り道、誠は水をやるだけではなかったんだねと言った。澄子は笑った。土や鉢を選び、季節で置き場所を変え、具合が悪ければ考える。好きだから続けているが、何も考えずにできることではない。
澄子は母へ電話し、日当たりのよい実家へいくつか鉢を預けられるか聞いた。母は場所を確かめたいので写真を送ってほしいと答えた。全部を引き受けるとは言わなかったことが、かえってありがたかった。
実家へ運ぶ日、澄子は鉢の裏を拭いた。手放すのではなく、預ける。言葉だけの違いではなく、様子を見に行き、また育て方を考えられることを確かめた。
誠は運送の手配を手伝った。膝に無理をさせて運んでもらう必要はない。二人でできないことは、ほかの方法を選べばよかった。
部屋を決める返事は、澄子から電話した。誰かに譲らされた決断にしたくなかった。
引っ越し当日、荷物を運び込んだ部屋は、内見のときより狭く見えた。二人分の箱が床を埋め、植物の台を置く前に、窓までの道を空けなければならなかった。
誠は休みながら片づけた。澄子は急ぎたくなったが、今日全部終える必要はないと声に出した。言ってみると、自分自身の焦りも少し落ち着いた。
最初の夜、二人は窓の前で惣菜を食べた。まだカーテンの裾に折り目が残り、隣の部屋には開けていない箱が並んでいた。
「暗いって思う?」
誠が聞いた。
澄子は部屋を見回し、今は夜だから分からない、と答えた。二人は笑った。答えを急がず、朝に確かめればよい。
引っ越した朝、誠が小さなシダを買ってきた。近くの店へ朝食を買いに行った帰り、窓際に並んでいたという。澄子は鉢を受け取り、今度は買う前に相談してと笑った。
誠は申し訳なさそうになったが、彼女は続けた。
「うれしい。けど、置く場所を一緒に選びたいから」
二人で窓辺の台を少し動かした。シダの隣に、前の部屋から持ってきた鉢を置いた。昔のものと新しいものが、一つの窓に並んだ。
暮らし始めて二週間ほどたったころ、一つの鉢の葉が黄色くなった。澄子は自分の選択が間違っていたのかと思った。窓辺で黙っていると、誠が気づいて隣に立った。
「この部屋のせいかな」
彼も同じことを考えたらしかった。澄子は、まだ分からない、と答えた。以前なら、だから南向きがよかったと言っていたかもしれない。だが水やりの間隔も変わっていたし、引っ越しで置き場所が変わったこともある。
二人で写真を撮り、買った店へ相談した。澄子は助言をメモし、すぐ結論を出さずに様子を見ることにした。葉が一枚落ちても、部屋を選んだ全部が失敗になるわけではない。
翌朝、誠は鉢の下に置く小さな受け皿を洗っていた。澄子に代わって原因を決めようとはしなかった。ただ、今できる世話を一つ手伝っていた。その姿を見て、澄子も新しい場所で慣れる時間を、植物にも自分たちにも渡そうと思った。
一か月後、澄子は実家へ鉢を見に行った。母はよく育つものと、水の量に迷うものを分けて話した。澄子は一緒に世話をし、そのうち一鉢を持ち帰ることにした。
誠は駅まで迎えに来なかった。膝の調子がよくないので、家で夕飯を用意すると連絡があった。澄子は無理をして来なくてよいと返し、買いものを頼まれた。
帰宅すると、窓辺に一鉢分の場所が空いていた。誠が勝手にほかを移したのではなく、以前二人で測ったところだった。澄子はそこへ鉢を置いた。
夕飯のあと、二人でベランダへ出た。川の上の空は広く、日が落ちても少し明るかった。誠は今日は家にいて助かったと話し、澄子は母と植物の世話ができて楽しかったと答えた。別々に過ごした一日が、同じ部屋へ持ち帰られた。
何も譲らなかった部屋より、話し合って選んだこの部屋に、長くいたかった。澄子は窓を閉め、シダの新しい葉をそっと持ち上げた。伸び方は以前の鉢と違っていたが、それでよかった。