夜の余白YORU NO YOHAKU
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長めの短編 28 / 雨の夜 / 約11分

夕立と、穴のあいた靴

弱いところを隠すより、見せるほうが近かった。

*

三十七歳の直樹は、好きな人と歩く日に限って、靴底に穴をあけた。

正確には、前からあいていた。駅の階段を上るとき、右足の裏にいつもと違う柔らかさを感じたのは先月だった。修理へ持っていこうと思いながら、晴れた日には忘れていた。その靴に、夕立の水が入り込んだ。

隣を歩く三十四歳の夏帆は、雨の向こうの看板を探していた。直樹は右足を少し浮かせて歩いた。彼女に気づかれないようにするほど、靴の中で水が動く音がした。

きちんとした店を予約し、きちんとした人だと思われたかった夜だった。

二人は知人の読書会で知り合った。夏帆は感想を話すとき、好きだった箇所だけでなく、分からなかったところもそのまま言った。直樹はそれがうらやましかった。

彼は本を最後まで読み、紹介された作家の別の作品まで調べた。話が止まらないよう準備してから行った。夏帆が、その本は途中までしか読めなかった、と笑うと、場が急に楽になった。

三度目の帰り、直樹は食事に誘った。夏帆は一度予定を確かめ、翌週ならと答えた。即答ではないのがかえって現実の約束らしく、直樹は帰宅してから何軒も店を調べた。

静かで、料理がおいしく、駅からも遠すぎない店。口コミの写真を見比べ、席の間隔まで確かめた。食事のあとに散歩できる川沿いの道も調べた。

靴の修理を忘れたのは、その準備の中では小さな見落としだった。出かける前に磨いたときも、靴底までは見なかった。表面が光れば大丈夫だと思っていた。

待ち合わせのとき、夏帆は淡い色の上着を着ていた。いつもより少し高い踵の靴で、直樹は背が近くなったことに気づいた。似合うと言おうとして、今日は早かったね、と別のことを口にした。

雨が降り始めたのは、それから十分後だった。

屋根のあるビルの入口へ逃げ込むと、夏帆が彼の足元を見た。

「片方だけ、音がする」

直樹は笑ってごまかそうとしたが、もう一歩動くと、水を含んだ靴下が音を立てた。

「靴底に穴があいてるらしい」

「今?」

「たぶん、前から」

言いながら、自分のいい加減さを言い訳で飾っている気分になった。店の予約は六時半。時計は六時十五分だった。ここからなら歩いて十分だが、雨は強くなるばかりだった。

夏帆は鞄からタオルを出した。直樹は自分のために使わせるのをためらった。彼女はまず自分の足を拭き、靴を脱いだ。片方の中敷きに、絆創膏が貼ってあった。

「こっちは靴擦れ。格好つけて、高いの履いた」

直樹はしばらく彼女の靴を見た。彼女も歩くたび痛かったのに、何も言わなかったのだ。

「大丈夫って聞いたら、大丈夫って言ったよね」

「直樹さんも、雨は平気って言った」

二人は顔を見合わせた。どちらも嘘をつくつもりではなかった。楽しい夜を壊したくなくて、平気な側に自分を置いていただけだった。

直樹は店へ電話した。雨で遅れるかもしれないと告げると、時間の変更は難しいという。彼は謝り、別の日へ予約を取り直せるか尋ねた。担当者は空いている日を二つ教えてくれた。

電話を切るまで、夏帆は黙って待っていた。直樹は、せっかく予約したのにと、自分で自分に腹を立てていた。

「今、がっかりしてる?」

夏帆が聞いた。

直樹はうなずいた。雨にも靴にも、自分にも。彼女を連れてよい店へ行けなかったことが、ただの予定変更より大きく感じられた。

「私は、まだ帰りたくないんだけど」

夏帆がそう言ったので、直樹は顔を上げた。

「その靴のまま歩かせるわけには」

「靴はどうにかして、そのあと考えない?」

駅前の量販店に、靴売り場があると彼女が教えた。直樹は携帯で地図を出した。五分ほどなら、なるべく屋根のある道を選べる。今度は、彼女がどのくらい歩けるか先に聞いた。

夏帆は足を靴へ戻し、ゆっくりならと言った。直樹は自分の歩幅を小さくした。今まで、彼女が合わせてくれていたことに気づいていなかった。

売り場の明るさは、予約した店の写真とはまるで違った。子どもが走り、店内放送が流れ、靴の棚には大きな値札がついている。直樹は急に、こんなところへ来る予定ではなかったと説明したくなった。

夏帆は椅子に座ると、息を吐いた。

「座れるだけで、かなりうれしい」

その声を聞いて、直樹も肩の力を抜いた。

安いスニーカーを二足選んだ。直樹は最初、夏帆の分も払うと言った。彼女は、自分で選んだ靴だから自分で払うと答えた。

「私をこの靴で歩かせた責任まで、取らなくていいよ」

少し冗談めいた言い方だった。直樹は笑ったが、自分が何かを埋め合わせることばかり考えていたと気づいた。

夏帆は白と薄い灰色を迷い、白にした。直樹は紺色を履いて売り場を一周した。右足が水に触れないことが、こんなに快適だとは思わなかった。

濡れた靴を入れる袋をもらい、靴下も買った。直樹が履き替えて戻ると、夏帆は新しい靴の紐を結び直していた。彼女はまだ少し踵が痛むと言った。すぐ元どおりにならなくても、それを言ってもらえるほうがよかった。

雨は窓の外で降り続いていた。二人は同じ建物のフードコートへ上がった。直樹は店を探し直そうとしたが、夏帆は空腹だと率直に言った。

夕飯は予定していた予算の十分の一だった。夏帆はうどん、直樹は定食を選んだ。彼女は、さっきよりずっとよく笑った。

「この席、意外と静かだね」

直樹が言うと、彼女は周りを見た。

「大きい音があるから、かえって隣の話が気にならないのかも」

確かに、二人の会話だけが浮き上がる心配はなかった。直樹は、うまい話題を出さなければという緊張を少し忘れた。

夏帆は、靴を買ったときの話をした。店で試したときは痛くなかったが、一駅歩くと踵に当たった。それでも、今日なら履きたいと思ったという。

「ちゃんとして見られたかった」

彼女が言った。直樹は箸を置いた。

「僕も。だから、こんなに店を調べて」

携帯電話に保存した候補を見せると、夏帆は数の多さに驚いた。直樹は説明しながら、少し恥ずかしかった。調べたこと自体ではなく、失敗すれば自分の価値まで下がるように考えていたことが。

前の交際では、相手が不機嫌になる前に予定を整える癖がついた。店が混んでいれば自分の選び方が悪く、雨が降れば代案を用意していない自分が悪い。そう考えていると、相手に何がしたいか聞く余裕もなくなった。

夏帆は自分も、人に合わせるほうが気楽だと思っていたと話した。希望を言えば、その希望が外れたときに相手をがっかりさせる。だから大丈夫と答え、あとから一人で疲れた。

「今日、足が痛いって言えたの、直樹さんの靴のおかげかもしれない」

「僕の靴は、役に立ったのか」

二人で笑った。穴があいてよかったとまでは思わない。修理へ持っていくべきだったし、彼女の足も痛くならないほうがよい。ただ、困ったことを二人で話した結果、予定どおりの夜とは違う場所へ来た。

食べ終わるころ、夏帆がデザートも見たいと言った。直樹は時計を見て、まだ店が開いていると答えた。彼女は小さなソフトクリームを買い、直樹はコーヒーにした。同じものを頼まなくても、隣に座っていられた。

雨が弱くなってから、二人は駅へ向かった。直樹は新しい靴で水たまりを避けた。夏帆はそれを見て、もう濡れないのに、と笑った。

「今日は、よく確認する日になったから」

彼が答えると、彼女は足元を見てうなずいた。

改札へ着く前に、直樹は次の約束を聞いた。電話で取り直した店の日程は、まだ夏帆に確認していなかった。彼は候補を見せ、無理なら別の日でいいと伝えた。

夏帆は勤務表を開いた。最初の候補は都合が悪く、二つ目なら空いていた。予定が合わないだけで、断られたわけではない。直樹はそれを、以前より落ち着いて受け取れた。

「今度は、歩けるところにしようか」

彼が聞いた。

夏帆は新しい靴の先を、彼の隣へ揃えた。

「どこでも。靴が壊れたら、また言って」

晴れた日だけの人にならなくて済んだ。直樹には、それが一番うれしかった。

帰宅して靴を乾かすと、穴は思ったより小さかった。だが小さくても、水は入る。見えにくいところだからと後回しにしていれば、いずれ自分が困るのだと思った。

翌日、修理店へ持っていった。直せると言われ、直樹は受け取り日を携帯へ入れた。夏帆へ報告すると、彼女も靴の調整を頼んだと返ってきた。

その週の読書会で、直樹は珍しく途中までしか読めなかったと話した。仕事が忙しかったこともあるが、調べものをする時間を取るより、今日はそのまま出かけたかった。

夏帆は向かいの席で、どこまで読んだかと聞いた。結末の話を避けながら、そこまでの場面について話せばよかった。ほかの参加者も、まだ読んでいない別の本のことを尋ねた。準備が足りないからといって、その場から外されるわけではなかった。

帰り際、夏帆が今日は楽しかったと言った。直樹は自分もと答えた。誰かに会う前に全部を整えておくことと、その人と会うのを楽しみにすることは、同じではない。少しくたびれた顔でも、話せることは残っていた。

次の食事の日は晴れていた。予約した店は、やはり料理がおいしく、席の間も広かった。直樹はそのことをうれしく思ったが、雨の日の代わりを取り戻せたとは考えなかった。

夏帆は調整した靴ではなく、あの日のスニーカーを履いてきた。食事のあと、少し歩きたいからだという。直樹も修理した靴を見せた。二人とも、格好をつけるのを完全にやめたわけではない。無理をしたときに、そう言えるようになっただけだった。

川沿いを歩きながら、夏帆は明日が少し憂鬱だと話した。直樹は、元気づける言葉を探す前に、何があるのか尋ねた。彼女は仕事の説明を始めた。途中でうまくまとまらず、笑ってごまかしかけたが、もう少し聞いて、と言い直した。

直樹はうなずいた。足元から水の音はしなかった。夜の風は涼しく、二人は急がず歩いた。夏帆が立ち止まれば、直樹も隣で待った。目的地までの道順より、いま歩ける速さを二人で確かめていた。

了Thank you for reading.

もう少し、夜のつづきを。

北向きのベランダ →
ABOUT THIS LIBRARY

恋の、その先の余白。

「夜の余白」は、成人同士の恋愛と日々の心の動きを描く、オリジナル短編の書庫です。再会、秘密、別れ、そして新しい一歩。眠る前のひとときに、ひとつの物語を。

全130篇を無料でお読みいただけます。約10分で楽しめる短編を中心に、さまざまな恋の物語を集めました。作品はAIを用いて制作しています。露骨な性描写は含みません。

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運営名:夜の余白
初版:2026年10月21日
更新:2026年10月23日
収録:恋愛短編130篇(うち読了目安10分以上100篇)