三十七歳の直樹は、好きな人と歩く日に限って、靴底に穴をあけた。
正確には、前からあいていた。駅の階段を上るとき、右足の裏にいつもと違う柔らかさを感じたのは先月だった。修理へ持っていこうと思いながら、晴れた日には忘れていた。その靴に、夕立の水が入り込んだ。
隣を歩く三十四歳の夏帆は、雨の向こうの看板を探していた。直樹は右足を少し浮かせて歩いた。彼女に気づかれないようにするほど、靴の中で水が動く音がした。
きちんとした店を予約し、きちんとした人だと思われたかった夜だった。
二人は知人の読書会で知り合った。夏帆は感想を話すとき、好きだった箇所だけでなく、分からなかったところもそのまま言った。直樹はそれがうらやましかった。
彼は本を最後まで読み、紹介された作家の別の作品まで調べた。話が止まらないよう準備してから行った。夏帆が、その本は途中までしか読めなかった、と笑うと、場が急に楽になった。
三度目の帰り、直樹は食事に誘った。夏帆は一度予定を確かめ、翌週ならと答えた。即答ではないのがかえって現実の約束らしく、直樹は帰宅してから何軒も店を調べた。
静かで、料理がおいしく、駅からも遠すぎない店。口コミの写真を見比べ、席の間隔まで確かめた。食事のあとに散歩できる川沿いの道も調べた。
靴の修理を忘れたのは、その準備の中では小さな見落としだった。出かける前に磨いたときも、靴底までは見なかった。表面が光れば大丈夫だと思っていた。
待ち合わせのとき、夏帆は淡い色の上着を着ていた。いつもより少し高い踵の靴で、直樹は背が近くなったことに気づいた。似合うと言おうとして、今日は早かったね、と別のことを口にした。
雨が降り始めたのは、それから十分後だった。
屋根のあるビルの入口へ逃げ込むと、夏帆が彼の足元を見た。
「片方だけ、音がする」
直樹は笑ってごまかそうとしたが、もう一歩動くと、水を含んだ靴下が音を立てた。
「靴底に穴があいてるらしい」
「今?」
「たぶん、前から」
言いながら、自分のいい加減さを言い訳で飾っている気分になった。店の予約は六時半。時計は六時十五分だった。ここからなら歩いて十分だが、雨は強くなるばかりだった。
夏帆は鞄からタオルを出した。直樹は自分のために使わせるのをためらった。彼女はまず自分の足を拭き、靴を脱いだ。片方の中敷きに、絆創膏が貼ってあった。
「こっちは靴擦れ。格好つけて、高いの履いた」
直樹はしばらく彼女の靴を見た。彼女も歩くたび痛かったのに、何も言わなかったのだ。
「大丈夫って聞いたら、大丈夫って言ったよね」
「直樹さんも、雨は平気って言った」
二人は顔を見合わせた。どちらも嘘をつくつもりではなかった。楽しい夜を壊したくなくて、平気な側に自分を置いていただけだった。
直樹は店へ電話した。雨で遅れるかもしれないと告げると、時間の変更は難しいという。彼は謝り、別の日へ予約を取り直せるか尋ねた。担当者は空いている日を二つ教えてくれた。
電話を切るまで、夏帆は黙って待っていた。直樹は、せっかく予約したのにと、自分で自分に腹を立てていた。
「今、がっかりしてる?」
夏帆が聞いた。
直樹はうなずいた。雨にも靴にも、自分にも。彼女を連れてよい店へ行けなかったことが、ただの予定変更より大きく感じられた。
「私は、まだ帰りたくないんだけど」
夏帆がそう言ったので、直樹は顔を上げた。
「その靴のまま歩かせるわけには」
「靴はどうにかして、そのあと考えない?」
駅前の量販店に、靴売り場があると彼女が教えた。直樹は携帯で地図を出した。五分ほどなら、なるべく屋根のある道を選べる。今度は、彼女がどのくらい歩けるか先に聞いた。
夏帆は足を靴へ戻し、ゆっくりならと言った。直樹は自分の歩幅を小さくした。今まで、彼女が合わせてくれていたことに気づいていなかった。
売り場の明るさは、予約した店の写真とはまるで違った。子どもが走り、店内放送が流れ、靴の棚には大きな値札がついている。直樹は急に、こんなところへ来る予定ではなかったと説明したくなった。
夏帆は椅子に座ると、息を吐いた。
「座れるだけで、かなりうれしい」
その声を聞いて、直樹も肩の力を抜いた。
安いスニーカーを二足選んだ。直樹は最初、夏帆の分も払うと言った。彼女は、自分で選んだ靴だから自分で払うと答えた。
「私をこの靴で歩かせた責任まで、取らなくていいよ」
少し冗談めいた言い方だった。直樹は笑ったが、自分が何かを埋め合わせることばかり考えていたと気づいた。
夏帆は白と薄い灰色を迷い、白にした。直樹は紺色を履いて売り場を一周した。右足が水に触れないことが、こんなに快適だとは思わなかった。
濡れた靴を入れる袋をもらい、靴下も買った。直樹が履き替えて戻ると、夏帆は新しい靴の紐を結び直していた。彼女はまだ少し踵が痛むと言った。すぐ元どおりにならなくても、それを言ってもらえるほうがよかった。
雨は窓の外で降り続いていた。二人は同じ建物のフードコートへ上がった。直樹は店を探し直そうとしたが、夏帆は空腹だと率直に言った。
夕飯は予定していた予算の十分の一だった。夏帆はうどん、直樹は定食を選んだ。彼女は、さっきよりずっとよく笑った。
「この席、意外と静かだね」
直樹が言うと、彼女は周りを見た。
「大きい音があるから、かえって隣の話が気にならないのかも」
確かに、二人の会話だけが浮き上がる心配はなかった。直樹は、うまい話題を出さなければという緊張を少し忘れた。
夏帆は、靴を買ったときの話をした。店で試したときは痛くなかったが、一駅歩くと踵に当たった。それでも、今日なら履きたいと思ったという。
「ちゃんとして見られたかった」
彼女が言った。直樹は箸を置いた。
「僕も。だから、こんなに店を調べて」
携帯電話に保存した候補を見せると、夏帆は数の多さに驚いた。直樹は説明しながら、少し恥ずかしかった。調べたこと自体ではなく、失敗すれば自分の価値まで下がるように考えていたことが。
前の交際では、相手が不機嫌になる前に予定を整える癖がついた。店が混んでいれば自分の選び方が悪く、雨が降れば代案を用意していない自分が悪い。そう考えていると、相手に何がしたいか聞く余裕もなくなった。
夏帆は自分も、人に合わせるほうが気楽だと思っていたと話した。希望を言えば、その希望が外れたときに相手をがっかりさせる。だから大丈夫と答え、あとから一人で疲れた。
「今日、足が痛いって言えたの、直樹さんの靴のおかげかもしれない」
「僕の靴は、役に立ったのか」
二人で笑った。穴があいてよかったとまでは思わない。修理へ持っていくべきだったし、彼女の足も痛くならないほうがよい。ただ、困ったことを二人で話した結果、予定どおりの夜とは違う場所へ来た。
食べ終わるころ、夏帆がデザートも見たいと言った。直樹は時計を見て、まだ店が開いていると答えた。彼女は小さなソフトクリームを買い、直樹はコーヒーにした。同じものを頼まなくても、隣に座っていられた。
雨が弱くなってから、二人は駅へ向かった。直樹は新しい靴で水たまりを避けた。夏帆はそれを見て、もう濡れないのに、と笑った。
「今日は、よく確認する日になったから」
彼が答えると、彼女は足元を見てうなずいた。
改札へ着く前に、直樹は次の約束を聞いた。電話で取り直した店の日程は、まだ夏帆に確認していなかった。彼は候補を見せ、無理なら別の日でいいと伝えた。
夏帆は勤務表を開いた。最初の候補は都合が悪く、二つ目なら空いていた。予定が合わないだけで、断られたわけではない。直樹はそれを、以前より落ち着いて受け取れた。
「今度は、歩けるところにしようか」
彼が聞いた。
夏帆は新しい靴の先を、彼の隣へ揃えた。
「どこでも。靴が壊れたら、また言って」
晴れた日だけの人にならなくて済んだ。直樹には、それが一番うれしかった。
帰宅して靴を乾かすと、穴は思ったより小さかった。だが小さくても、水は入る。見えにくいところだからと後回しにしていれば、いずれ自分が困るのだと思った。
翌日、修理店へ持っていった。直せると言われ、直樹は受け取り日を携帯へ入れた。夏帆へ報告すると、彼女も靴の調整を頼んだと返ってきた。
その週の読書会で、直樹は珍しく途中までしか読めなかったと話した。仕事が忙しかったこともあるが、調べものをする時間を取るより、今日はそのまま出かけたかった。
夏帆は向かいの席で、どこまで読んだかと聞いた。結末の話を避けながら、そこまでの場面について話せばよかった。ほかの参加者も、まだ読んでいない別の本のことを尋ねた。準備が足りないからといって、その場から外されるわけではなかった。
帰り際、夏帆が今日は楽しかったと言った。直樹は自分もと答えた。誰かに会う前に全部を整えておくことと、その人と会うのを楽しみにすることは、同じではない。少しくたびれた顔でも、話せることは残っていた。
次の食事の日は晴れていた。予約した店は、やはり料理がおいしく、席の間も広かった。直樹はそのことをうれしく思ったが、雨の日の代わりを取り戻せたとは考えなかった。
夏帆は調整した靴ではなく、あの日のスニーカーを履いてきた。食事のあと、少し歩きたいからだという。直樹も修理した靴を見せた。二人とも、格好をつけるのを完全にやめたわけではない。無理をしたときに、そう言えるようになっただけだった。
川沿いを歩きながら、夏帆は明日が少し憂鬱だと話した。直樹は、元気づける言葉を探す前に、何があるのか尋ねた。彼女は仕事の説明を始めた。途中でうまくまとまらず、笑ってごまかしかけたが、もう少し聞いて、と言い直した。
直樹はうなずいた。足元から水の音はしなかった。夜の風は涼しく、二人は急がず歩いた。夏帆が立ち止まれば、直樹も隣で待った。目的地までの道順より、いま歩ける速さを二人で確かめていた。