三十三歳の智也は、残業帰りに三階の窓を見る癖があった。
駅へ続く商店街の端に、古いビルがある。一階は鍵屋、二階は空き室、三階が小さな時計修理店だった。細い階段の上にあるため、歩道からは店内が見えない。午前零時を過ぎても、曇りガラスの窓に四角い灯りがついていた。
智也の勤務先では、秋から新しい案件が重なっていた。帰る時間が遅くなり、終電に間に合うか時計を見るたび、今日も予定どおりに終わらなかったと思った。店の窓は、そんな夜の帰り道にあった。
自分だけが遅れているような日、その灯りを見ると少し楽だった。ここにも、まだ仕事をしている人がいる。勝手にそう思っていた。
腕時計が止まったのは、秋の初めだった。大学を卒業した年に自分で買った時計で、高価ではないが手首に馴染んでいた。携帯電話があれば時刻は分かる。それでも腕に何もないと、改札の前で一度立ち止まってしまった。
帰り道、智也は修理店の看板を見上げた。営業時間は午後一時から九時。時計を見ると八時四十分だった。いつもならまだ会社にいる時間に外を歩いていることが、少し後ろめたかった。
階段は、足を置くところだけ塗装が擦れていた。二階の踊り場に古い植木鉢があり、三階の扉には修理受付の小さな札があった。
初めて階段を上がると、三十代半ばの女性が作業台に座っていた。手元の灯りを消し、いらっしゃいませ、と顔を上げた。店内には壁時計がいくつもあったが、秒針の音は思ったより静かだった。
智也が腕時計を差し出すと、彼女は止まった日時と、最後に電池を替えた時期を聞いた。分からないと答えても責めず、確認して見積もりを知らせると言った。
用紙へ連絡先を書きながら、智也は窓を見た。外から見ていた灯りは、この部屋の天井灯だった。
「いつも、この時間まで?」
尋ねると、彼女は首を振った。
「昼間は、父の病院に行く日があって。その日は作業が後ろになります」
灯りを見て勝手に仲間を作っていたことを、智也は恥じた。同じ時間に起きているからといって、同じ理由ではない。
修理の見積もりは翌日の昼に届いた。電池だけではなく、部品の点検も必要だという。智也は頼むと返し、仕事の予定表へ受け取り日を書いた。
その週、店の灯りを見るたび、父親の病院という言葉を思い出した。いつまで入院するのか、彼女が一人で店を回しているのか、何も知らない。知らないのに心配だけを大きくするのは、以前の仲間意識とあまり違わない気がした。
智也は自分の帰り方を考えた。遅くまで会社にいることを、頑張っている証拠にしていたところがある。早く帰る同僚の家の事情は知らず、残っている人だけを頼りにしていた。
翌日、上司へ作業の順番を相談した。仕事が急に減ったわけではない。だが、今日やる必要のあるものと、明日に回せるものを分けるだけで、一時間早く帰れた。
商店街を歩くと、時計修理店の窓はまだ明るかった。いつもと同じ灯りが、以前より違うものに見えた。
時計は翌週、直った。受け取りに行くと、彼女は外した小さな部品を皿に載せ、原因を説明した。智也には仕組みのすべては分からなかったが、時計の中にいくつもの動くものがあることを初めて実感した。
「無理に動かそうとしなくてよかったです」
彼女が言った。智也は、何もできなかっただけだと答えた。彼女はそれも大事だと笑った。
彼は礼を言い、帰りかけて振り向いた。
「遅く帰るとき、ここの灯りに助けられてました」
彼女はピンセットを置いた。
「私は、駅の明かり。最後までついてるから」
智也は窓のそばへ寄った。店からは商店街の屋根越しに、駅の高い灯りが見えた。自分が見上げていた窓からも、別の誰かが外を見ていた。
彼女は遅くなると、片づけの区切りが分からなくなると話した。駅の時計を見て、今日はこちらまでにしようと決める。店の中の時計は修理中のものも多いので、全部が正しい時刻ではないという。
「時計屋さんなのに」
智也が笑うと、彼女も笑った。
「そう言われると思いました」
仕事の説明ではない会話をしたのは、それが初めてだった。智也はもう少し話したかったが、カウンターの奥には作業途中の時計が並んでいた。遅くまで仕事をする相手を、話し相手として引き留めるのは違う。
また何かあったらお願いします、と言って店を出た。階段を下りると、時計はきちんと動いていた。直ったことより、さっきの笑い声を思い出している自分に気づいた。
それから三週間、店へは行かなかった。時計に不具合はない。修理を頼む用事がないのに訪ねてよいのか分からなかった。
ある晩、雨の中で店の看板を出す彼女に会った。昼のうちに風で倒れ、片づけてあったらしい。智也が持ち手を支えると、彼女はありがとうと言い、名前を呼んだ。
受付用紙で覚えていたのだろう。自分は彼女の名字さえ知らない。智也が尋ねると、彼女は名札を指し、少し遅れて名乗った。
「仕事以外で言うと、変な感じですね」
二人は軒下へ入った。智也は、父親の具合を尋ねてよいか迷い、それでも病院の話を聞いていたので気になっていたと伝えた。
彼女は、もうすぐ退院すると答えた。医師の説明より、退院後に何をどこへ置くかで父親ともめているらしい。智也は大変ですねと言いかけたが、彼女が少し楽しそうに話すので、何でも同じ感想にまとめないようにした。
「お父さん、店へ戻りたいんですか」
「戻りたいんです。でも、前と同じようにはできないから」
彼女は看板の脚を直した。店は父親と二人で続けてきた。入院してから、一人でできる仕事と、誰かへ頼まなければ難しい仕事があると分かったという。
「智也さんは、最近、帰りが早いですね」
逆に言われ、智也は驚いた。自分もまた、窓の外を通る人として見られていた。
翌月、店は九時で閉まるようになった。退院した父親と食事をするためだという。歩道から見上げる窓が暗いと、智也は最初、少し寂しかった。
だが、その暗さをよくないことにしたくなかった。灯りがついている時間だけ、彼女を知っていたにすぎない。店の外の生活が戻るなら、それは喜ばしいことだった。
その週の金曜、智也は八時半に店へ行った。修理の用事がないことを、先に伝えた。彼女はカウンターの向こうで、少し驚いた顔をした。
「お仕事の邪魔でなければ、今度、食事に誘いたくて」
言い終えるまで、智也は手首の時計を触っていた。彼女は壁の予定表を見た。すぐに返事をせず、父親の通院の付き添いがある日を指で確かめた。
来週なら、と言われ、智也は携帯電話を出した。彼女も店の受付用ではない番号を教えた。店の客として知ったことを、個人的な連絡先と同じにしてはいけない。その線を一緒に越えられたことがうれしかった。
予定した日は、彼女の父親が体調を崩し、延期になった。大事には至らなかったが、外へ出られそうにないという連絡だった。智也は、落ち着いたらと返信した。
そのまま終わるかもしれないと思った。だが数日後、彼女から店の近くの食堂なら短い時間を作れると連絡が来た。待つことと、いつまでも何も言わずにいることは違う。彼女が改めて誘ってくれたことに、智也は安心した。
初めての食事は一時間ほどだった。智也は彼女が店の作業着で来ると思っていたが、紺色のセーターを着ていた。彼女は智也の鞄を見て、思っていたより大きいと笑った。
店の中で見ている姿だけでは、分からないことが多かった。彼女は映画より寄席が好きで、出かける日は道順を細かく調べる。智也は反対に、着いてから考えることが多かった。
父親のことばかり聞かれなくてよかった、と帰り際に言われた。智也は、自分も仕事が忙しい人としてだけ会いたくなかったと答えた。大変な事情を知ったあとでも、それだけを相手の全部にしなくていい。
会った翌週、智也は職場で、後輩から早く帰るために何を変えたか聞かれた。智也は作業の一覧を見せ、上司へ相談した順番を説明した。以前なら、自分だけが楽をしていると思われるのを恐れたかもしれない。
後輩も帰りたい日があると話した。智也は理由を詳しく聞かなかった。家族の用事がなければ、早く帰る必要がないわけではない。自分にも、いまは会いたい人がいる。ただ休みたい夜があってもいい。
その晩、彼女へ、今日は九時までに帰りますと送った。彼女は、私も今日は早く閉めますと返した。どちらが長く働いたかを確かめるやり取りではなかった。
智也は腕時計を外して机へ置いた。直ってから一度も遅れていない。自分の時間のほうが、ようやくその針に追いつこうとしていた。
二度目に会ったときは、食堂が臨時休業だった。近くのパン屋で二人分を買い、駅の待合所で食べた。彼女は袋の内側に落ちた小さなパンくずを集め、智也の膝へ飛ばないよう折り畳んだ。そういう手つきを見る時間が、智也には楽しかった。
三度目に店を訪ねた日、彼女は先にコートを着ていた。智也はまだ八時五十分なのを見て、自分が早く来すぎたかと尋ねた。
「今日は、ここまでにしたんです」
彼女は作業台の灯りを消した。壁の時計が静かに鳴り、店の中が少し暗くなった。
「駅まで、一緒に帰りませんか」
智也はうなずいた。彼女が鍵を掛ける間、鞄を持とうかと聞いた。大丈夫と答えられ、そのまま待った。手伝えることを勝手に決めなくても、一緒にいられる。
階段を下り、商店街へ出た。帰り道、三階の灯りは消えていた。智也は暗い窓を見て、初めて、よかったと思った。
「明日は休みですか」
彼女が聞いた。智也は午後からだと答えた。彼女は午前だけ店を開けるという。少し違う予定を話しながら、二人は次に会える時間を探した。
駅の灯りは今夜もついていた。彼女はその明かりを見て、帰りに買うものを一つ思い出した。智也も明日の朝食がないと気づいた。二人は駅の手前で少し寄り道をした。夜を最後まで働いて埋めなくても、その先に、一緒に歩ける時間が残っていた。