夜の余白YORU NO YOHAKU
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長めの短編 25 / ふたりの暮らし / 約11分

二人分には足りない鍋

遠慮を煮込むのを、やめた冬。

*

同棲を始めた冬、三十一歳の葵は、二人分の鍋の量が分からなかった。

一人で暮らしていたころの小鍋を、そのまま使っていた。白菜を先に煮てかさを減らし、肉を並べる。見た目はそれらしくなる。三十五歳の徹は、毎回、おいしいと言って完食した。葵はそれで十分だと思った。

食後の徹はよくお茶を飲んだ。夕飯が遅い日には、洗い物を引き受けてくれた。二人で並ぶと狭い台所で、彼が皿を拭き、葵が棚へ戻す。そんな当たり前の動作を、葵はひそかに気に入っていた。

だからある夜、徹がコンビニの袋を鞄の陰へ隠したとき、最初は何かの贈り物かと思った。

袋の口から、おにぎりが二つ見えた。

その日は葵の帰りが遅かった。徹は先に帰宅していたが、彼女が鍋を作ると言っていたので、食事をせず待っていた。葵は帰り道で買った肉を取り出し、冷蔵庫の残り野菜を足した。

二人で食べ終え、葵が風呂から出ると、徹は玄関で上着を脱いでいた。飲み物を買いに行ったという説明を、葵はそのまま聞いた。鞄に手を伸ばした彼の動きが妙に急だったので、袋を見た。

「足りなかったの?」

徹はすぐには答えなかった。袋を食卓へ置き、うなずいた。

「作ってもらって、言いづらくて」

葵は冷蔵庫を開けた。豆腐が半分、卵が三つ、冷凍庫にはご飯もあった。それが先に分かれば、何か足せた。そう言いかけて、自分は今、叱ろうとしているのだと気づいた。

彼はお腹が空いていた。悪いことをしたわけではない。だが黙って買ってきたという事実は、葵の作る夕飯が試験に落ちたように感じられた。

「毎回?」

声が思ったより固くなった。

「毎回じゃない。鍋のあと、何かあるといいなとは思ってた」

「言ってくれればよかったのに」

「うん」

徹はおにぎりの包みを開けず、手を膝に置いた。葵はその姿を見て、自分まで何かを隠していたことを思い出した。

葵は肉より豆腐を増やしたかった。鍋に入れるなら、焼き目のついた厚揚げも好きだった。けれど徹が肉をおいしそうに食べるので、限られた小鍋の場所をそちらへ割いた。

自分の好きなものは昼に食べればいい。そう思っていたのに、食事のたびに最後の豆腐を彼へ譲ると、少しだけ損をした気分になった。彼が頼んだわけではないので、その不満をどう扱えばいいか分からなかった。

「私も、足りなかったかも」

葵が言うと、徹は顔を上げた。

「量じゃなくて、豆腐。ほんとはもっと食べたかった」

二人とも黙ったあと、徹が短く笑った。葵も笑おうとしたが、すぐにはできなかった。好意で始めた遠慮が、相手に察してほしいという不満へ変わるまで、こんなに短いとは思わなかった。

「肉、好きだけど、豆腐を減らしてほしいとは思ってなかった」

「私も、おにぎりを食べてほしくないわけじゃない」

葵は椅子へ座った。立ったままで話すと、料理を作った側と待っていた側のままになる気がした。

二人とも相手を喜ばせたくて、別々に空腹を隠していた。満足していることにしたほうが、うまく暮らしているように見えると思っていた。

結局、その晩のおにぎりは徹が食べた。葵は温かいお茶を入れた。食べるところを見張るようになるのは嫌なので、隣で本を開いた。徹が包みを捨てるとき、次からは先に言うと口にした。葵も、言われたときに失敗した顔をしないようにしたいと答えた。

二人が同棲を始めたのは、通勤や家賃の都合だけではなかった。休みの日に会うだけだと、互いに元気なところばかり見せている気がした。疲れた日も一緒にいられる関係になりたいと話し、部屋を借りた。

実際に暮らすと、疲れを見せるより、片づいた部屋を見せるほうが簡単だった。葵は先に帰る日には夕飯を作り、徹はごみ出しを忘れないよう携帯電話に通知を入れた。二人とも、相手にがっかりされたくなかった。

週末、葵は台所の戸棚を開けた。鍋は二つあった。一つは今使っている小鍋で、もう一つは徹が一人暮らしで使っていた片手鍋。別々に煮れば好みを分けられる、と彼女が言うと、徹は食卓を見た。

「二つ並べたら、ほかに何も置けないね」

そこには新聞と郵便物と、まだ片づけていない工具箱が載っていた。二人分の鍋を考えていたはずが、二人で食べる場所そのものが狭くなっていた。

「今まで、それぞれのものを、そのまま寄せただけだったかも」

葵が言うと、徹は小さな鍋の持ち手を撫でた。彼の部屋から来た食器も、葵の部屋から来た収納箱も、いったん置いたままになっていた。

二人分の暮らしに合うものを、一つ選んでみよう。徹がそう提案し、翌週、鍋を見に行くことになった。

店には思ったより多くの鍋があった。色や形で選ぼうとした葵に、徹は洗い物をするときの重さも確かめたいと言った。彼は夕飯を作るのが得意ではなかったが、後片づけをする自分の手元なら想像できた。

葵は蓋のつまみを持ち、徹は空の鍋を片手で持ち上げた。片方だけが決めるより、時間がかかった。途中で葵は、何でもいいよと言いそうになったが、やめた。何でもよいなら、本当は最初から一人で買えばよかった。

浅く広い鍋を選んだ。豆腐を崩さず取れて、肉も一度に広げられる。二人分には少し大きいかと思ったが、足りない分を後から隠れて足すよりよかった。

買い出しにも一緒に行った。徹は肉を選び、葵は大きな豆腐を二丁入れた。野菜を選ぶところで、徹がきのこは少なめがいいと言った。苦手だとは知らなかった。

「食べてたよね」

「出されたら食べられる。でも、たくさんはいらない」

葵は袋を一つ戻した。その代わり、自分の好きな長ねぎを選んだ。好みを伝えることは、相手の食べ物を禁止することではなかった。

帰宅すると、新しい鍋は思ったより場所を取った。新聞と郵便物を片づける必要があった。徹が工具箱を棚へ戻し、葵が封を開けていなかった手紙を整理した。

「これ、結構、本格的に二人暮らしだね」

徹が言った。

葵は笑った。何か大きな約束をしたわけではない。けれど二人で選んだ鍋を置くために、二人で場所を作った。それは、荷物を運び込んだ日より、暮らしが始まった感じがした。

最初の鍋は豆乳味にした。葵が具を切り、徹が量を量った。徹はレシピを全部見ようとして、葵に途中のページを閉じられた。材料を入れたあとではなく、先に読む必要がある。彼はその順番を知らなかった。

「いつも簡単そうにやるから」

徹が言った。葵は、簡単な日もあるけれど、慣れたからそう見えるだけ、と答えた。感謝の言葉を増やしてほしいのではなく、どこに手間がかかっているか知ってもらいたかった。

徹が切った白菜は大きさがばらばらだった。葵は直そうとして手を止めた。煮え方が違うと困る大きさだけ、もう半分にしてもらった。全部を自分のやり方に戻したら、一緒に作ったことにならない。

湯気が上がると、部屋の窓が白くなった。二人は取り皿を並べ、いつもよりゆっくり食べた。豆腐は十分にあり、肉も途中で取り合う必要がなかった。

その夜、徹は途中で、まだ少し食べたいと言った。葵は、もうお腹いっぱいと答えた。

言ってから、二人は顔を見合わせた。違う返事が、同じ食卓にあってよかった。どちらかが食べ終えたら、もう片方も終わらなければいけないわけではない。

最後の雑炊は徹が作り、葵は小さな茶碗で一口だけもらった。塩を足しすぎて、少し濃かった。葵がそう伝えると、徹はお湯を足し、もう一度味を見て、と匙を渡した。

それから何でもうまくいったわけではなかった。徹は帰りが遅い日に、連絡を忘れた。葵も疲れていると、冷蔵庫にあるものを説明するより自分で作ったほうが早いと思った。

ある水曜、葵は玄関で座り込みたくなるほど疲れて帰った。台所には買った食材が並んでいたが、料理を始める気にならなかった。徹が手を洗いながら、何をすればいいかと聞いた。

「今日は、作らないって決めるのを手伝って」

自分でも意外な頼みだった。徹は一瞬考え、冷蔵庫に入れるものだけしまった。二人で近所の店に電話し、持ち帰りを注文した。

食卓に弁当を置くと、空いた場所が広かった。鍋を買った意味がなくなるわけではない。毎日それを使う義務もなかった。

別の日には、徹が一人で鍋を用意した。葵の帰宅時間に合わせようと煮込みすぎ、白菜が柔らかくなっていた。葵は好みより少し柔らかいと言い、それから、帰ってすぐ食べられるのがうれしいと伝えた。

どちらか一つの感想だけを選ばなくてもよかった。徹は次は火を止めて待つと言い、葵は自分も遅れそうなら早めに連絡すると答えた。

日曜の昼、葵の母から電話があった。徹はよく食べるでしょう、と聞かれ、葵は最初に思っていたより、と答えた。母は笑い、父親と暮らし始めたころ、米を炊く量で何度も失敗したと話した。

「お母さんでも?」

「相手の胃袋なんて、見えないもの」

当たり前の言葉だった。葵が子どものころに見ていた母は、いつも分量を知っている人に見えた。何度も聞いて、余らせて、ようやく覚えた過程は知らなかった。

電話を切って徹に話すと、彼は次から自分でご飯の量をよそうと言った。葵が少なめに盛ってから気を回すより、そのほうが確かだった。二人は茶碗を並べ、どちらがどちらのものかを決め直した。大きいほうが必ず徹とは限らない日もある。それくらい自由でいい、と葵は思った。

週末、古い小鍋をどうするか二人で考えた。捨てずに残すことにした。徹が夜勤の日や、葵が留守の日には、一人分を作る鍋も要る。

二人で暮らすからといって、一人で食べる時間をなくす必要はない。そのことまで話せたとき、葵は最初の冬の緊張が少しほどけた気がした。

夕飯のあと、徹が小鍋で翌朝の味噌汁を作った。葵は新しい鍋を拭いて棚へしまった。大きさも中身も違う二つの鍋が、隣り合って収まった。

もう空腹を隠さなくていい。食べたいものを言い、食べられない日はそう伝える。それだけのことを覚えるために、二人はずいぶん遠回りをした。葵は棚の扉を閉め、台所の明かりを最後に消した。

了Thank you for reading.

もう少し、夜のつづきを。

三階の消えない灯り →
ABOUT THIS LIBRARY

恋の、その先の余白。

「夜の余白」は、成人同士の恋愛と日々の心の動きを描く、オリジナル短編の書庫です。再会、秘密、別れ、そして新しい一歩。眠る前のひとときに、ひとつの物語を。

全130篇を無料でお読みいただけます。約10分で楽しめる短編を中心に、さまざまな恋の物語を集めました。作品はAIを用いて制作しています。露骨な性描写は含みません。

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運営名:夜の余白
初版:2026年10月21日
更新:2026年10月23日
収録:恋愛短編130篇(うち読了目安10分以上100篇)