引っ越し通知を整理していた三十八歳の香苗は、出さずじまいの一枚を見つけた。
二年前、別れた恋人への葉書だった。新しい住所だけが印刷され、宛名は空欄。送れば未練に見え、送らなければ、もう会えない気がした。
そのとき住んでいた部屋も、もう引き払っている。葉書の地図は、どこにも案内しなかった。駅から矢印をたどった先の建物は、今は別の人の家だった。
香苗は机の上に葉書を残した。ほかの不要な紙はまとめて袋へ入れたのに、その一枚だけ、捨てる理由も残す理由も言葉にならなかった。
今は三度目の住所に住んでいる。最初は彼と別れた直後、会社の近くへ移った。次は母の入院に合わせて実家へ戻り、母が回復してから、今の部屋を借りた。
どの引っ越しにも具体的な理由があった。けれど荷物をほどくたびに、ここが本当の居場所になるまで待とうと考えていた。知らせるのは落ち着いてから。そう思って、誰にも教えないまま変わった住所がある。
来月、香苗は編集の仕事で独立する。小さな共同事務所の一角を借り、机と本棚を置いた。会社で使っていた名刺はもう配れない。仕事の案内を作るには、新しい顔写真が必要だった。
携帯電話で撮った写真を、友人の絵里へ送った。絵里は、顔より後ろの洗濯物に目が行く、と返信した。香苗が撮り直すと、今度は眉間に力が入っていた。
「ちゃんと撮ってもらえば。取材で使う写真でしょう」
絵里の電話越しの声を聞き、香苗は昔の恋人の写真館を思い出した。彼は四十歳になっているはずだった。店のホームページには今も、白い壁の前に置いた木の椅子が写っていた。
電話する理由が写真なら、会ってもおかしくない。そう考えたところで、香苗はパソコンを閉じた。仕事を、会いたい気持ちの隠れ場所にするのは嫌だった。
その夜、葉書を裏返した。印刷された地図の余白はまだ白かった。もう二度と使えないと思っていた紙にも、書ける場所が残っている。
翌朝、彼の写真館へ電話した。昔の番号は、まだ通じた。
電話に出たのは知らない女性だった。香苗は予約したい日時を告げ、名前を名乗った。女性は撮影の用途を丁寧に聞き、翌週の午後に空きがあると答えた。
彼へ取り次いでほしいとは言わなかった。予約が終わると、香苗は電話を切った。名前を伝えたあと、裏でどんな会話になるのか想像し、そんな想像までまだしている自分に苦笑した。
二人が別れたのは、劇的な出来事のせいではなかった。彼は店を継いだばかりで、香苗も仕事で責任ある立場になっていた。会う約束は何度も流れた。会えた夜にも、互いに疲れていることを相手への説明に使った。
最後に香苗は、私がいなくても困らないでしょうと言った。彼は、困らせたいのかと答えた。どちらも本当に聞きたかったことから、少しずつ外れた言葉だった。
そのあと引っ越した。新しい住所を印刷した葉書を作り、彼の分だけ宛名を書けなかった。送りつければ引き留めてほしいと言っているようで、送りそびれたまま二年がたった。
予約の日、香苗は仕事用の紺色の上着を着た。古い葉書は鞄の内側へ入れた。渡すと決めてはいない。それでも置いてくることはできなかった。
写真館の扉には、新しい営業時間の札が出ていた。以前は日曜も開いていたが、今は月に二度、休みがある。窓際には、家族写真の見本と、個人事業者向けの案内が並んでいた。
彼は仕事用の声で迎えた。
「久しぶり。予約、ありがとう」
香苗も、よろしくお願いします、と答えた。名乗らなくて済んだことに安心し、その安心を表に出すまいとして、鞄の持ち手を握り直した。
受付の女性は、彼の妹だった。昔は遠くに住んでいたので会ったことがない。昨年から週に何日か手伝っているという。妹は香苗の名前に特別な反応をせず、撮影後に確認する項目を説明した。
香苗は証明写真が要ると伝えた。仕事の紹介にも使うので、少し違う構図も欲しい。彼は用途を聞き取り、背景を二つ提案した。
「独立するんだね」
「来月から。まだ、名前だけ先に決まったところ」
「どんな名前?」
香苗が答えると、彼は一度口に出して繰り返した。以前なら、由来を長く説明する前に、照れて話を変えただろう。今日は自分で選んだ名前を、最後まで聞いてほしかった。
仕事の話をしている間、二年ぶりという距離が少し薄れた。彼は撮影用の椅子を動かし、香苗は上着の襟を直した。手伝おうとする彼の指が途中で止まり、こちら側が折れていると指さす。香苗は鏡を見て自分で整えた。
椅子に座ると、香苗は急に表情を作れなくなった。笑おうとすれば、笑いすぎている気がする。真顔になれば、機嫌の悪い顔になる。
彼はカメラを下ろした。
「今、何を考えてる?」
「できる人に見せたいと思ってる」
声にすると、おかしさが先に来た。香苗が笑うと、彼も笑った。
「見せたい仕事が分かる写真にはできると思う。全部できるかどうかまでは、写真に任せなくていいよ」
その言い方に、昔、原稿の遅れを一人で抱えていた自分を思い出した。彼にもできないと言えなかった。愚痴を言っても、結局自分で何とかすると答え、あとから何も助けてくれないと腹を立てた。
「今は、頼む練習してる」
香苗はレンズを見る代わりに、カメラの横にいる彼へ言った。
「じゃあ、少し肩を下ろしてもらっていいですか」
彼は仕事の声に戻した。香苗は息を吐き、椅子の背に体重を預けた。シャッターの音が短く響いた。
撮影は予定どおり終わった。画面を見せられると、香苗は自分の顔をしばらく眺めた。もっと疲れていると思っていた。目の下には年齢なりの影があったが、その顔で仕事を始めたいと思えた。
「前より、よく笑うね」
彼が言った。
「笑ってない写真だけど」
二人で笑った。香苗は、笑っていないときにも表情があるのだと、そのとき初めて気づいた。
候補の写真を選び、支払いを終えた。妹は奥へ下がり、彼が入口まで見送った。店先には花の鉢が増えていた。香苗が覚えているものとは違う種類だった。
「日曜、休むようになったんだね」
「一日も休まないと、店の外で何が変わったか分からなくなるから」
彼は、そうなるまで少しかかった、と付け足した。香苗は、自分が別れたから彼が変わったと考えそうになり、やめた。彼の二年間には、自分の知らない仕事も家族もある。
「お母さんは?」
尋ねられ、香苗は今は元気だと答えた。入院していたことを彼は知らなかった。説明をし始めると、話は思ったより長くなった。
彼は次の予約まで十分あると言った。香苗も、駅へ急いでいるわけではなかった。二人は待合室の端に座り、母のこと、妹が戻ってきたこと、街の新しい店について話した。
過去の答え合わせをするつもりで来たわけではない。けれど、知らなかった時間を聞いていると、相手が自分を忘れて暮らしていたことを、以前ほど怖く思わなかった。
「前の住所、知らないままだったね」
彼が言った。香苗は鞄を開いた。
古い葉書を出すと、彼は地図を見て、ここはもう違うところだろうと尋ねた。香苗はうなずき、裏の余白に今の住所を手書きで記した。その下に、共同事務所の名前と、開業する日を書いた。
「仕事の案内。来てほしいのは、私のほう」
口にすると、少し緊張した。仕事の案内だけなら、同じものをほかの人へも送る。会いたいのは誰かという部分を、今回は隠したくなかった。
彼は葉書を受け取った。
「店の開業祝いでもいい?」
香苗はうなずいた。過去の続きを、その場で決めなくて済んだことがよかった。
事務所の準備は、予定どおりには進まなかった。本棚は届いたが、組み立てに必要な床の広さが足りない。名刺に載せる電話番号の確認で何度も連絡をした。写真のデータを受け取った日は、机の上にまだ工具があった。
香苗は彼に礼を送った。返信は、写真を使った案内ができたら見せてほしい、というものだった。会いに来る日を急かされなかったのが、ありがたかった。
共同事務所の隣の机を使う女性が、写真を見てよい顔だと言った。香苗が撮った人のことを少し話すと、女性は、戻るつもりなの、と尋ねた。
香苗は考えた。元に戻るという言い方なら、違う気がする。あのころの二人が忙しかったことも、うまく話せなかったことも、消えるわけではない。
「今のことを、もう少し知りたいんだと思う」
そう答えると、自分の中でも言葉が落ち着いた。
案内状を書き終えた夜、香苗は最後の一枚にも宛名を書いた。しばらく連絡を取っていなかった、最初の職場の先輩宛てだった。独立したと知らせるには早いのではないか、何か成果が出てからのほうがよいのではないかと迷っていた相手だ。
けれど、始めることを知らせるのに、成功の証明は必要なかった。切手を貼り、翌朝、駅前のポストへ入れた。誰かの返事を待つ前に、自分からできることがある。その手応えは、古い葉書を渡した日と少し似ていた。
開業の日は、派手な会を開かなかった。仕事の途中に立ち寄れる人へ、お茶と小さな菓子を用意した。絵里が花を持ってきて、香苗の母は昼過ぎに電話をくれた。
彼が来たのは夕方だった。店を閉めてから電車に乗ったという。小さな包みを両手で差し出し、机に置けるものなら邪魔にならないと思って、と言った。
包みの中には写真立てがあった。中には、あの日、撮影前に笑っていた香苗がいた。きちんと座り直す前で、肩も髪も少し崩れている。
「こういうのも撮ってたの?」
「残していいか、聞こうと思ってた。嫌なら写真は抜いて」
香苗は首を振り、窓側の棚へ置いた。仕事の案内に使う顔と、笑っている顔。その両方が、同じ場所にあってよかった。
お茶を入れながら、香苗は来てくれてうれしいと伝えた。彼は、今度は自分から誘ってもいいかと聞いた。香苗は予定表を出した。空いている日を探す動作が、以前よりずっと静かだった。
机の引き出しには、新しい案内状が入っている。もう誰かに見つけてもらうために宛名を空けておかなくていい。帰り際、彼が写真立てを振り返ったとき、香苗は自分から、また来て、と言った。