古い長屋を改装した事務所には、共用の傘立てがある。三十四歳の翻訳者、結衣は、その中の青い傘を借りて帰った。
借りてもよいと管理人に聞いたのは、引っ越してきた最初の日だった。持ち主のいない傘は白い紐がついている。青い傘には紐がなかったが、玄関に居合わせた管理人が、隣の人のだから伝えておく、と手渡した。
雨は横から降り、駅までの道で傘の骨が一度裏返った。結衣は電柱の陰で直した。右側だけ、伸びきらない骨があった。それでも肩から先を守ってくれたので、家に着くころには、借りられてよかったと思っていた。
翌日、柄にメモを巻いて返した。『助かりました。ありがとうございます』。
紙は翻訳原稿の裏だった。仕事の内容が透けないよう、何も印刷されていない端を切り、短い文章を三度書き直した。助かりましただけでは素っ気ない。ありがとうございましたでは、もう終わってしまった感じがする。仕事では一日に何千もの言葉を扱うのに、こういう二行には時間がかかった。
次の雨の日、青い傘に違う字があった。『どういたしまして。開くとき、右の骨に気をつけて』。
誰かは分かっていた。隣室で一人、椅子を修理している三十六歳の人だった。顔を合わせると、互いに会釈だけした。廊下にはときどき木の匂いが流れてきた。結衣は彼の名刺を玄関の掲示板で読んでいたが、まだ、その名前を声に出して呼んだことはなかった。
長屋には四つの仕事部屋があった。昼に来る写真家と、週に二度だけ開く陶芸教室、それに結衣と椅子の修理人。電話会議の声を出してよい時間と、工具を使う時間について、入居前に小さな約束を交わした。
結衣がここを借りたのは、家で一人仕事をすることに疲れたからだった。恋人と別れたあと、食卓がそのまま仕事机になり、仕事の終わりも食事の始まりも分からなくなっていた。誰かと毎日話したいわけではなかった。ただ、ほかにも働いている人がいる場所へ、朝、歩いて行きたかった。
隣から聞こえる鑿の音は、最初は気になった。オンラインの打ち合わせの日、結衣が廊下へ出ると、彼も作業台から顔を上げた。
「一時から、少し大きい音が出ます。大丈夫ですか」
先にそう聞かれて、結衣は手帳を開いた。会議は二時までだった。彼は、では接着の作業を先にすると言った。
「いつも変えてもらうのも、申し訳なくて」
「今日は変えられるので。無理な日は、無理って言います」
結衣はその言い方を覚えた。相手が自分の都合を持っていると分かると、頼むことが少し楽になる。
二度目に青い傘を借りたのは、昼に郵便局へ行くときだった。今度は彼に直接声をかけた。右の骨を押す位置を教わり、傘を持ち上げる。彼の指には細い切り傷があり、爪の端に白い接着剤が残っていた。
帰ってきてから、メモに『右側、覚えました』と書いた。翌朝、『こちらも、会議は火曜と覚えました』と返っていた。
いつも火曜ではない。結衣はそう訂正しようとして、笑った。わざわざ細かく書かず、必要な日に聞けばいい。訳文の正確さと、二人の挨拶は違うものだった。
ある午後、結衣の仕事用の椅子がきしんだ。中古で買ったもので、脚を動かすたびに音がした。隣へ相談に行くと、彼は椅子を裏返し、接合部を指した。
「直せます。ただ、今週は預かれない」
「急ぎじゃないです」
「急ぐなら、別のところも紹介できます」
結衣は来週でよいと答え、料金を聞いた。彼が見積書を出す間、部屋の隅の椅子を眺めた。背もたれに細かな花の模様が彫られ、座面は新しい布に張り替えられていた。
「捨てるには、惜しいですね」
「持ち主は捨ててもいいと思っていたそうです。娘さんが残したいって」
「そういうの、嬉しいでしょう」
彼は少し考えてから、嬉しいけれど、残すほうが正しいとは限らない、と言った。直す費用を説明すると、持ち主が申し訳なさそうに断ることがある。家具のために暮らしを無理してほしいわけではないのだという。
結衣は前の恋人と暮らしていたころの大きな机を思い出した。引っ越すとき、部屋に入らないので手放した。二人で選んだものを捨てることが、楽しかった日まで否定するようで、最後までためらった。
「物を残すの、難しいですね」
「手放すのも」
彼は短く答えた。結衣は自分の話を少しだけした。彼は詳しい別れの事情を聞かず、机の脚は外せる形だったかと尋ねた。外せなかった、と答えると、それなら大変でしたね、と言った。その具体的な労わりが、気の利いた慰めより嬉しかった。
椅子を預けた一週間、結衣は管理人から折り畳み椅子を借りた。腰が疲れたら立って、廊下を歩いた。隣の扉が開いていれば会釈した。直った椅子は、音がしないこと以外にはほとんど変わらず、結衣の体を支えた。
見積書どおりの代金を払ったあと、彼が領収書を渡した。紙の端に、座面のねじは半年ほどしたら確かめてください、と小さく書かれていた。結衣はその字を、傘の柄のメモと同じだと思った。
三度目のメモは、結衣が預かっていた郵便の知らせだった。傘に巻くほどの内容ではなかったが、彼が外出していて、机の上に勝手に入るわけにもいかなかった。
翌朝、『受け取りました。昨日は雨に当たりませんでしたか』と返事があった。
結衣は、いつの間にか、自分のために書かれた短い文章を待つようになっていた。翻訳の仕事では、文章の向こうにいる人は遠かった。会ったことのない著者、まだ知らない読者。誰か一人の顔を思い浮かべて言葉を選ぶことは、これほど静かな忙しさを伴うのかと思った。
四回目に、『お礼にコーヒーを』と書き、やめた。仕事場を、逃げられない待ち合わせ場所にしたくなかった。
前の職場で、断ったあとも何度も誘ってくる同僚がいた。相手は悪気がないつもりだった。結衣も曖昧に断った。だが、給湯室へ行く時間をずらし、自分の仕事場を少しずつ狭くしていた。今度は自分が、それを誰かにさせるかもしれない。
写真家の女性が廊下でコーヒーを淹れていたので、結衣はその話を名前を伏せてした。女性は、誘うことと、断られたあとに困らせることは違うと思う、と言った。
「でも、それを相手が信じられるかどうかは、こっちで決められないよね」
結衣はうなずいた。簡単な答えが欲しかったわけではない。ただ自分の心配を、誰かに一度聞いてほしかった。
午後の仕事では、登場人物が遠回しに頼みごとをする台詞に引っかかった。直訳すると押しつけがましく、柔らかくすると本気で頼んでいないように見える。相手との距離で同じ言葉が変わる。結衣は何案も書いて、いったん原稿を閉じた。
玄関で、青い傘が開かれていた。右の骨は折れ、布から細い金属が突き出ていた。彼がしゃがんで、手を切らないように布を巻いている。
「直らないんですか」
「部品があればと思ったんですが。これは、もう」
結衣は、椅子を直す人にも直せないものがあるのだと、当たり前のことに驚いた。彼は残念そうだったが、無理に骨を押し戻そうとはしなかった。
その夕方、彼が事務所の扉をたたいた。手には、新しい傘があった。深い緑色で、柄には何も巻かれていなかった。
「青いの、直らなくて」
彼はそう言い、結衣はうなずいた。もう知っていたことを、わざわざ知らせに来てくれた。そのことが嬉しくて、椅子から立つときに膝を机へぶつけた。
「大丈夫ですか」
「はい。ちょっと、急いだだけ」
彼女は書きかけのメモを机の端に伏せた。彼はそれに目を向けず、新しい傘を傘立てに差した。今度は貸出用の白い紐がついていた。
「みんなで使えるようにしたんですね」
「そのほうが、聞かなくても持っていけるから」
結衣は寂しさを覚えた。二人だけの小さな郵便受けがなくなった気がした。けれど、そのために不便な傘を残しておいてほしいわけでもなかった。
彼は扉のところで、帰ろうとして一度止まった。
「今日は晴れてるけど、少し歩きませんか。都合がよかったら」
断ってもいい言い方が、結衣にはうれしかった。だからといって、彼が断られるのを怖がっていないわけではない。扉を支える指が、少し強く木を押していた。
結衣は画面の時計を見た。納品まで、あと二段落の確認が残っている。
「十五分、待ってもらえますか。終わったら、行きたいです」
彼は隣で片づけていると答えた。結衣は扉が閉まってから、原稿を読み直した。急いだぶん、最後の行を二度確かめ、送信した。
メモを丸めず、引き出しにしまった。借りた傘のお礼は、もう何度も伝えていた。今度はお礼という理由をつけなくても、自分から誘ってみたかった。
玄関で靴を履くとき、彼は明日の午前、少し大きな音を出すと告げた。結衣は午後から来る予定だと答えた。そのあとで二人とも笑った。外へ出ても、仕事場の隣人であることは変わらない。
「明日、気まずくならないかなと思ってました」
結衣が言うと、彼は扉の鍵を確かめながら、僕も、と答えた。
「今日、話せなくても、椅子のことはいつでも聞いてください」
「私も、翻訳が必要なら。仕事の依頼は、ちゃんと見積もりますけど」
彼は笑って、お願いします、と言った。好意を持ったからといって、仕事まで曖昧にしなくていい。気まずさを完全になくす約束はできなくても、守りたい線を言葉にすることはできた。
結衣は鞄の持ち手を握り直した。まだ恋人でもない相手と、明日の働き方を相談している。その普通さに、今夜の緊張を置く場所があった。
駅と反対の道を歩くと、小さな川があった。結衣がここへ来て二か月、いつも同じ近道を通っていたので知らなかった。彼は、木材を運ぶ車が混む時間だけ、この道へ出るのだと言った。
二人は欄干から水を見た。話が途切れても、廊下の会釈のように、すぐ別れなくてよかった。
「この先の店で、コーヒーを飲みませんか」
帰りに誘う言葉は、自分の声で言った。彼が、ぜひ、と答えた。結衣は初めて彼の名前を呼び、彼も、メモには一度も書かなかった結衣の名前を、ゆっくり口にした。