二人で撮った写真は、一枚もなかった。四十四歳の茜は、旅行の最終日にそれを指摘した。
三つ年上の恋人は、写真が苦手だった。風景は撮るが、自分は入らない。茜も、強く頼まなかった。付き合って一年半、二人で二泊するのは初めてだった。食事の皿、港の灯台、宿の窓から見える海。携帯には、どれもよく撮れた写真が並んでいた。けれど後から見た人には、誰と行った旅なのか分からない。
「一枚くらい、二人で撮らない?」
朝の食事を終えたテラスで、茜は携帯を持ち上げた。彼はコーヒーを飲み終えてから、景色だけで十分だろう、と言った。
茜はその言い方に腹を立てた。十分かどうかを、どうして一人で決めるのだろう。そう言い返したかったが、最後の一日を険悪にしたくなかった。
旅行の計画は、ほとんど茜が立てた。彼は仕事が忙しく、任せると言った。茜も調べるのが好きだったから引き受けた。宿を選び、行きたい店を予約し、雨の場合の予定も考えた。それなのに、二人で来た証拠を残すことだけが、彼の都合で省かれる。
証拠、という言葉が頭に浮かんだ瞬間、茜は自分にも少し嫌気が差した。彼は結婚していないし、二人の関係を隠してもいなかった。友人にも紹介してくれた。何を証明したかったのか、すぐには答えられなかった。
一日目、港で遊覧船を待つあいだ、彼は茜の写真を撮った。海風で髪が顔に掛かり、茜が手で押さえたところだった。画面を見せられ、茜は真っ先に口元の線を確かめた。
「これは消して」
「いい顔だと思うけど」
「笑いすぎてる」
彼は何も言わずに消した。二枚目では茜は口を閉じ、少し顔を傾けた。若いころから写真を撮るたびにしていた表情だった。彼は今度も画面を見せ、茜がうなずくと保存した。
二日目の昼、食堂の人が二人を撮ろうかと言ってくれた。彼はすぐに結構ですと断った。茜はそのときも笑って合わせた。後で言えばよかったのに、焼き魚がおいしかった話に戻った。
彼といる時間は楽しかった。買ったばかりの切符を失くしかけると、責めずに一緒に鞄を探してくれる。観光地の説明板を読む速度も、だいたい同じだった。だから、一つの不満を口にすることが、楽しかったこと全部を否定するように思えた。
最終日の朝、写真を見返したのは、その楽しさを家へ持って帰りたかったからだった。ところが、画面の中には、自分が用意した記念写真の顔ばかりがある。彼は一枚もいない。これでは、二人の旅ではなく、一人ずつ別の場所を訪ねたようだった。
宿を出ると、彼が先に坂道を下りた。茜は後ろ姿を撮ろうとして、携帯を下ろした。嫌だと言われたことを、黙ってしてしまえば同じことになる。
「写真のことで、まだ怒ってる?」
彼が立ち止まった。茜は鞄の紐を肩へ掛け直した。
「怒ってるというより、寂しい」
言葉を変えると、自分でも何が嫌だったのか、少し分かった。
遊歩道の入口に、海を向いたベンチがあった。二人はそこへ座った。帰りの列車まで時間はあったが、彼は腕時計を見た。茜がそれに気づくと、彼は袖を下ろした。
「急がなくて大丈夫。いつもの癖」
「私、誰にも見せないから」
茜が言うと、彼は首を横に振った。
「見せていいんだよ。写った自分が、嫌なだけで」
茜は携帯を膝に置いた。年齢の出る顔を気にしているのは、自分だけだと思っていた。
彼は以前、会社の広報に載せる写真を撮られたことがあると話した。印刷された自分を見て、父親に似てきたと思った。悪いことではないのに、急に、思い描いていた自分と違う人が写っているようで、落ち着かなかった。
「太ったとか、そういうことだけでもなくて。こんな顔で人と話してるのかと思うと」
「私も、笑ってる写真、消してって言ったね」
彼はうなずいた。嫌な顔を記録されたくない気持ちは分かるから、自分も頼めると思っていたという。茜は返す言葉を探した。自分の写真は自分で選び、彼には選ぶ余地を与えずに、二人の記念だからと頼もうとしていた。
「でも、一緒にいたことも残したい」
「覚えてるよ」
「覚えてるだけで大丈夫な日と、何か見たい日があるの」
茜は父親の写真の話をした。亡くなる少し前、一緒に買い物へ出かけた日があった。普段の外出だったから写真を撮らなかった。後に思い返すと、どんな服を着ていたのか、どこで笑ったのかが曖昧で、もっと残せばよかったと思った。
彼は、そんなふうに考えていたとは知らなかった、と言った。茜も全部言葉にしたのは初めてだった。大切な人がいつかいなくなるから撮る、と言えば重すぎる。けれど、今日が今日だけで終わるのが惜しいという気持ちは、悲しみだけではない。
「俺が嫌だって言ったら、何も残せなくなるようにはしたくない」
彼は海を見て言った。すぐに写真を撮ろうとは言わなかった。茜も、それを待つだけの顔をしないように、隣の景色を見た。
遊歩道の柵に、二人の影が並んでいた。朝より高くなった光が、足元から細長い形を伸ばしていた。茜は携帯を取り出した。
「影なら、どう?」
彼が下を見る。茜の影が片手を上げると、彼の影も、少し遅れて手を振った。
茜は画面を確かめた。二人の頭の形も、持っている鞄も分かる。顔はないのに、さっきまでの風景写真より、ずっと二人に近かった。
「これなら?」
「肩幅、ごまかせるね」
彼が言ったので、茜は笑った。その笑い声を聞いて、彼も、もう少し寄っていいかと尋ねた。影の肩が重なり、二枚目を撮った。
一枚で問題が全部解決したわけではなかった。茜は本当は顔も撮りたかったし、彼は撮られるときの身構えをなくせなかった。それでも、嫌だと言う人と、したいと言う人のどちらかが黙れば終わり、ということではないのだと分かった。
駅の食堂で昼食をとり、列車ではそれぞれ窓を眺めた。茜は写真を整理し、彼に影の二枚を送った。彼からは、茜が気づかなかった防波堤の猫の写真が来た。旅の同じ時間に、少し違うものを見ていた。
「次は、予約も一つお願いしていい?」
茜が言うと、彼は驚いた。計画を立てるのが楽しいのだと思っていたという。
「楽しいけど、全部自分が決めると、気に入ってもらえたかばかり考える」
彼は、分かった、と答えた。先に言ってくれればよかったのにとは言わなかった。そのことが嬉しくて、茜は次に行きたい町を一つ伝えた。
帰宅後、影の写真を小さく印刷した。彼は仕事机に飾った。茜は冷蔵庫に貼った。実物になった写真は画面より暗かったが、二つの影は、朝食を作るたびに目に入った。
二か月後、彼の部屋へ行くと、写真の隣に新しい眼鏡が置いてあった。茜は髪型も少し変わったことに気づいた。彼は、会社の写真を撮り直す予定がある、と言った。
「嫌なのに?」
「嫌だけど、必要だし。今度は、少しちゃんと見てみる」
茜は励ますつもりで、若く見えるよと言いかけた。それが彼の望んでいる言葉とは限らない。代わりに、眼鏡が似合う、と伝えた。彼はうなずき、前のものより軽いのだと説明した。
新しく撮った写真を、彼は一週間後に見せてくれた。笑顔は硬く、額の線もはっきり写っていた。茜は、これが今、自分の好きな人の顔なのだと思った。
「どこが気になる?」
彼が聞いたので、茜は服の襟が少し曲がっていると答えた。彼はそこか、と笑った。彼が気にしていたのは目の下の影だった。二人とも、同じ写真の違う場所を見ていた。
茜も、旅の最初に消した写真のことを話した。もう戻せないと思っていたが、彼の携帯の削除済みフォルダにも残っていなかった。二人で残念がり、それから、新しい写真ならまた撮れると言った。失くした一枚を取り返すために、今の顔を同じ形にする必要はなかった。
秋のある日、茜が台所で梨を切っていると、彼が写真を撮ってもよいかと聞いた。茜は、髪を直してから、と言いかけた。少し迷い、そのままで一枚だけ、と答えた。画面の自分は真剣な顔で梨を見ていて、恋人に見せるための顔ではなかった。
すぐ好きになれたわけではない。けれど消さないで、と茜は言った。しばらくして見れば、今日の梨の固さも、窓から入ってきた風も思い出すかもしれない。
写真を飾ったことを、彼が会社の同僚に聞かれたという話もあった。誰の影かと尋ねられ、恋人と旅行したときのものだと答えたらしい。茜は嬉しくなりながらも、どんな顔で答えたのかを知りたいと思った。
「普通に。少し照れたけど」
彼は言った。
「私も会社で、旅行の写真を見せた。あなたの顔はないけど、一緒に行ったって話した」
「それは嬉しい」
関係を隠していたわけではない。それでも、相手がいない場所で自分のことを話していると知るのは、特別な嬉しさだった。茜が欲しかったのは、見せるための証明だけではなく、彼の生活の中に自分がいるという実感でもあった。
冷蔵庫の扉を閉めると、写真の角が少し浮いた。茜は磁石をずらし、指で平らにした。紙の端に残った小さな折れ目まで、二人の生活に馴染み始めていた。
半年後、茜の誕生日の食事で、店員が写真を撮りましょうかと聞いた。彼が選んで予約した店だった。窓際の席には暖かい灯りが当たり、二人の皿に同じ色のソースが残っていた。
茜が断ろうとすると、彼が隣に来た。
「一枚だけ、お願いします」
茜は顔を上げた。彼は少し緊張していた。勇気を出したことを大げさに褒めると、次から断れなくなりそうで、茜はただ席を少し空けた。
肩が触れた。店員が携帯を構える。茜はいつもの角度に顔を傾けかけて、そのまま前を向いた。彼も笑おうとして、うまく口元が動かなかった。
写真の二人は、少し緊張した顔をしていた。若くもなく、撮られ慣れてもいなかった。茜の片手は膝の上で丸まり、彼の眼鏡には灯りが小さく映っていた。
彼はそれを見て、撮り直しを頼まなかった。
「悪くないね」
茜はうなずいた。二人がそこにいたことを、二人とも、もう隠れずに喜べた。帰り道、写真を誰に見せるか相談し、まずは二人で持っていようと決めた。茜は冷蔵庫の影の写真の隣に貼る場所を、頭の中で少しだけ空けた。