四十歳の誕生日に、怜子は一人でレストランを予約した。旧姓で。
電話口で名乗ったとき、自分の声が少し高くなった。店員は復唱し、苦手な食材と来店時間を尋ねた。特別な説明は求められなかった。その普通さが、怜子にはありがたかった。
離婚の届けを出して一週間。新しい保険証は届いていなかったが、自分の名前で呼ばれる用意はできていた。
役所から帰った日、玄関の表札を外すのに、細いねじが一本だけ回らなかった。怜子は台所の引き出しを探し、夫が置いていった工具を見つけた。離婚したからといって、使えるものまで使わない理由はない。そう思うまでに、台所の椅子で十分ほど座っていた。
別れは、突然の事件ではなかった。予定を相談することが減り、話し合いの途中で互いに別の部屋へ行くことが増えた。どちらかがひどい人だったという説明を、周囲は欲しがった。怜子は、説明を短くすると嘘になり、長くすると誰かを悪者にする気がして、「二人で決めた」とだけ言った。
誕生日の予約をした店は、駅の裏の小さなフランス料理店だった。以前、記念日に行こうと言って、結局行かなかった。予約の取れなかった夜のことは覚えているのに、そのあと二人で何を食べたかは思い出せなかった。
今度は自分のために行く。その言い方は少し勇ましすぎて、怜子は心の中だけに置いた。
当日、店の扉を押す前に、怜子はガラスに映る自分の髪を直した。一人客は珍しいのではないか。誰かを待っていると思われたら、どう答えればいいのか。そんなことを考えていたのに、店員は予約名を聞くと、窓に面した小さな席へ案内した。
隣の席の男性も、一人だった。料理を一皿ずつ、丁寧に食べていた。急いで携帯を確認するでもなく、誰かに見せるために写真を撮るでもない。怜子は少し安心して、最初の皿を味わった。
白い皿には、薄く切った野菜が重なっていた。家なら、もっと食べやすく切るだろう。そんな考えが浮かび、怜子は笑いそうになった。せっかくの外食まで家事の目で見なくてもいい。パンを割ると、湯気が指先へ触れた。
店員は一皿ごとに説明をした。聞き返しても面倒そうにしなかった。怜子は、食べ物の好みについて、自分がずいぶん長いこと「どちらでもいい」と答えていたのを思い出した。肉より魚が好きだった。酸味の強いものも、少量ならおいしい。そういう小さな答えが、まだ自分の中に残っていた。
デザートに小さなろうそくがつくと、隣の男性は店員と一緒に拍手をした。
「おめでとうございます」
怜子は礼を言った。見知らぬ人に祝われるのは、気恥ずかしかったが、寂しい人に見えたからではないらしかった。男性は自分の皿を指して、今日は転職が決まった祝いだと話した。四十三歳で、ずっと勤めた会社を離れるという。
「お互い、区切りですね」
「私、終わったほうなんですけど」
言ってから、余計なことを打ち明けたと思った。けれど彼は、事情を聞き出そうとはしなかった。
「始まったほうも、大体、何か終わってますよ」
そう言って、彼は前の会社の名刺を財布から抜いた。まだ何枚か入っていたらしい。肩書きを見てから、裏返して、皿の隣へ置いた。
「新しい名刺が来るまで、何者でもない気がして」
「名前は変わらないのに」
怜子が言うと、彼はうなずいた。
「そこを、忘れやすいんでしょうね」
二人で少し笑った。怜子は、旧姓に戻ったばかりだと話した。彼は「では、その名前で、おめでとうございます」と言った。怜子は名前を教え、彼も自分の名字を名乗った。その短い交換だけで、必要なことが足りていた。
会計のあと、彼は連絡先を聞かなかった。怜子も、今すぐ次の恋を探していたわけではなかった。外は冷えていた。彼はコートを着ながら、「また何か、お祝いがあったら」と店の看板を指した。
怜子は、また、と答えた。約束とは呼べない言葉だった。だから、軽く受け取れた。
翌週、怜子は資格講座の申込書を出した。図書館で働くための勉強を、何年も先延ばしにしていた。すぐ仕事が変わるわけでも、収入が増えると決まっているわけでもなかった。それでも、仕事から帰って夕飯を済ませたあとの時間を、誰かの帰宅を待つためだけに使わずに済む。
講座の最初の日、周囲には年下の受講生が多かった。怜子は、手書きのノートを開く自分が場違いに思えた。説明を聞き逃し、休憩時間に隣の女性へ尋ねると、相手も同じ箇所で止まっていた。二人で講師に聞きに行った。知らないことを知らないと言っても、思ったほど恥ずかしくはなかった。
勉強は、自由になった喜びだけでは続かなかった。残業した日は本を開いたまま眠り、休日には家の片づけが残った。元夫から郵便物の転送について連絡が来ると、そのたびに、終わったと思った手続きがまた始まった。
一度、課題の提出を忘れた。怜子は講座をやめる理由を、かなり具体的に考えた。今の仕事でも困っていない。四十歳からでは遅い。費用も時間も無駄にしたくない。
台所でお茶をいれたとき、誕生日のレストランのカードが目に入った。財布から出して、冷蔵庫に磁石で留めていたものだった。店の名前を見て、あの男性の言葉を思い出した。始まったほうも、何か終わっている。前の会社の名刺を抜いた指が、少しためらっていたことも。
誰かがうまく始める姿だけを見て、自分の始め方を責めていたのかもしれなかった。怜子は講師へ連絡し、遅れた課題を出せるか聞いた。減点はあるが受け付けるという返事が来た。完璧にできなかったことと、続けられないことは、同じではなかった。
春、妹が遊びに来た。冷蔵庫の店のカードを見て、誰と行ったのかと聞いた。
「一人で」
「誕生日に?」
妹の声に悪気はなかった。怜子は、それでも少し身構えた。
「おいしかったよ」
そう答えると、妹はメニューを見たいと言った。怜子は携帯を開き、写真がほとんどないことに気づいた。ろうそくのついたデザートだけ、一枚撮っていた。料理の説明は、写真よりよく覚えていた。
「今度、私も行きたい」
妹が言った。怜子はうなずいた。一人で行った場所が、誰とも行ってはいけない場所になるわけではない。その当たり前のことが、以前より分かるようになっていた。
資格試験の前の週、元夫から、最後の荷物を引き取りたいと連絡があった。怜子はその日を断り、試験の翌週を指定した。以前なら相手の都合に合わせて、あとで不機嫌になっただろう。彼は了解とだけ返した。自分の予定を先に言っても、大きな争いにはならなかった。
試験当日の朝、怜子は早く目が覚めた。新しい保険証と身分証明書を確かめ、旧姓の書かれた受験票を鞄へ入れた。名前を戻した日の勇ましさは、もうなかった。何度も署名しているうちに、それは特別な宣言ではなく、今の自分の名前になった。
試験は、分からない問題もあった。帰りの電車で答えを調べかけて、携帯を閉じた。合否が出るまで、人生全部を待合室に置く必要はない。駅前で野菜を買い、夕飯を作った。魚を焼き、好きな酸味のある和え物を添えた。
合格の通知が届いたのは、雨の木曜日だった。怜子は封筒を開け、もう一度読んでから、講座で知り合った女性へ連絡した。相手も合格していた。二人で短い祝福を交わし、怜子はレストランへ電話をかけた。
予約の日までに、怜子は元夫の荷物を渡し終えた。玄関で箱を数えると、彼は忘れ物があれば連絡してほしいと言った。怜子は、分かった、と答えた。二人とも、昔の家に戻って話の続きを始めようとはしなかった。
ドアが閉まったあと、部屋が急に広くなった気がした。空いた場所に何を置くかを考え、何も置かないままでもいいと気づいた。買い物で埋めなくても、誰かを呼ばなくても、空間は怜子のものだった。
その夜、妹に合格を知らせると、今度のお祝いは一緒にどうかと聞かれた。怜子は嬉しかったが、先に一人で予約をしたことも伝えた。
「じゃあ、その次。合格のお祝いは何回あってもいいでしょう」
妹の返事を読んで、怜子は笑った。誰かと過ごす喜びと、一人で味わう喜びのどちらかを選び続ける必要はなかった。
予約確認の画面で、人数一名という文字を見た。半年前には、そこが足りない人数のように見えていた。今は、その晩の自分が座る椅子の数を、ただ正確に伝えていた。
半年後、怜子は資格試験に受かった祝いに、同じ店を予約した。隣の席が空いていても、十分にうれしい夜だった。
店員は名前を確認してから、以前の来店を覚えていると言った。怜子は少し驚いた。自分にとって大きかった夜が、店にとってはたくさんある夜の一つで、それでも、小さく覚えてもらえている。
最初の皿は、季節が変わったぶん、違っていた。怜子は説明を聞き、前に食べたものとの違いを尋ねた。店員は楽しそうに答えた。もう、一人でいることを弁解する文章を用意してはいなかった。
それでも扉が開くたびに、一度だけ目を上げる自分はいた。あの人に会えたら、受かったことを話したい。会えなければ、今日の食事がおいしかったことを、自分で覚えて帰ればよい。その二つは、矛盾しなかった。
デザートの前に扉が開いた。見覚えのある男が、店員に言った。
「今日は、初めて部下ができた祝いで」
怜子は自分から、拍手をした。男性は驚き、それから顔をほころばせた。
「そちらは、何のお祝いですか」
怜子は合格のことを話した。彼は、同じ言葉で祝い返した。前の会社の名刺はもう入っていないと、財布を軽く叩いた。けれど新しい仕事では分からないことばかりで、部下に教わる日もあるという。
「私も、資格は取ったけど、これからです」
怜子が言うと、彼は「では、続きのお祝いも必要ですね」と答えた。
食事が終わってから、今度は二人で店の外に立った。彼は連絡先を交換してもよいかと尋ねた。怜子は、少し考えてから携帯を出した。次の恋を始めると決めたわけではない。ただ、この人の次の話を聞きたいと思った。
登録する名前を聞かれ、怜子は旧姓を答えた。口にした名前は、半年かけて、自分の生活の重さを取り戻していた。