大雪で列車が止まった夜、三十五歳の絵里は、駅の待合室で最後の充電を使って宿を探していた。
本当なら、その日のうちに東京へ戻るはずだった。食品会社で商品企画をしている絵里にとって、二泊の一人旅は、退職した先輩に押しつけられるようにもらった休暇だった。携帯の画面には、月曜の打ち合わせを確認するメールが並んでいる。電車が動かないと連絡したあとも、誰も返事を求めていない画面を、何度も開いた。
駅員が教えてくれた宿には、最後の一室が残っていた。玄関の石畳に積もった雪は、踏むたびに靴の下で鈍い音を立てた。女将は濡れたコートを預かりながら、「夕飯、相席でもいいですか」と尋ねた。断る理由はなかった。一人で部屋の画面を見続けるより、そのほうがよかった。
食堂のストーブのそばで、絵里は温かい汁物を両手で包んだ。向かいに来た三十七歳の男は、細い木の箱を大事そうに床へ置き、すぐに拾い上げた。
「湿気があると、困るんです」
謝るような説明に、絵里は隣の空いた椅子を引いた。男は礼を言い、箱を置いた。織物の見本だという。家業の工房から商談に出て、帰れなくなったらしい。
絵里は料理を撮ろうと携帯を向けたが、電池の警告が出て、そのまま伏せた。
「撮れませんでした?」
「食べたことにしてもいいかなと思って」
彼が笑ったので、絵里も、自分が奇妙なことを言ったと気づいて笑った。記録を残さなければ休日が消えるような気がしていた。それなのに、何を味わったかより、うまく撮れたかばかりを覚えている。
食事が一段落すると、彼は箱の蓋を開けた。薄い灰色の布の中に、緑の糸が一本ずつ混ざっていた。ストーブの灯りでは灰色なのに、指先で角度を変えると、雪の下の草のような色が現れた。
「遠くから見ると分からない」
「近くに来てくれた人に、分かればいいんです」
言い終わってから、男は妙な口説き文句になったと気づいたらしかった。絵里も気づいたが、聞き返さなかった。
翌朝、運転再開は昼だと張り紙が出た。二人は駅へ向かう途中、小さな商店で缶コーヒーを買った。彼は手袋を片方ずつ外して小銭を数えた。布を扱う指には、細かい傷があった。
商談はまとまったのかと絵里が聞くと、彼は首を振った。取引先は、見本より安いものを、春までに倍の量、欲しがっている。父親は引き受けると言い、彼は無理だと言った。その話を続けたあとで、彼は「旅行中にすみません」と口を閉じた。
「私も月曜の会議のことを考えていたから、お互いさまです」
二人はホームの番号を確かめた。行き先は反対だった。連絡先を聞いたのは絵里からだった。布の写真を見たいというのは本当だったが、それだけではないことも、自分では分かっていた。
「無事に着いたら、教えてください」
そう言われたとき、遅延の報告ではない連絡を待つ人ができたのだと、絵里は少し驚いた。
最初の一か月は、短い文章ばかりだった。彼からは染めた糸を干す軒下の写真。絵里からは、試作品の菓子を包んだ紙の写真。華やかな景色は一枚もなかった。夜遅くに届く返事へすぐ返したくなる自分を、絵里はときどき持て余した。
二月の終わり、彼が東京に来た。商談のあと、駅の近くで一時間だけお茶をした。実物の彼は、文章より口数が少なかった。絵里は沈黙が怖くなって、新商品の話を早口で続けた。
「今日、会うの、嫌じゃなかったですか」
別れ際に聞かれ、絵里は驚いて顔を上げた。
「どうして」
「仕事の邪魔をしているように見えて」
絵里は手帳を閉じた。会話が途切れるたびに、予定を確かめるふりをしていた。その癖が、彼には帰りたい合図に見えたのだ。
「緊張すると、忙しい人になるんです」
言ってから恥ずかしくなった。彼はしばらく考え、「僕は無口な人になります」と答えた。次の約束は、そのあとでようやくできた。
春、絵里は工房を訪ねた。観光のついでにという言い方をせず、彼に会いに行くと伝えた。駅に迎えに来た彼は、洗ったばかりらしい車の助手席から、工具箱を慌てて後ろへ移した。
工房では機械の音が、話の切れ目を決めた。年を取った父親が糸を見せ、絵里に商品の感想を求めた。絵里は仕事の調子で、都市部の売り場なら色数を絞る方法もあると答えた。父親は熱心にうなずいたが、隣の彼は何も言わなかった。
帰りの車で、絵里は気になっていたことを聞いた。
「余計なこと、言った?」
彼はすぐには答えなかった。橋の上で赤信号になってから、ようやく口を開いた。
「役に立ってもらうために、来てほしかったわけじゃないんです」
絵里は窓の外を見た。水面に残る雪の白さがまぶしかった。誰かに必要とされるには、役に立たなければいけない。その思い込みを、旅行にまで持ってきていた。
「私も、何もできないお客さんでいるのが、苦手で」
彼はうなずいた。父親と同じように働けない自分を責めているから、彼も分かると言った。車が動き出す前、絵里は「今日は、ただ布がきれいだった」と言った。彼は初めて、少し肩の力を抜いた。
その夜、駅の待合室で二人は互いの手に触れた。帰る列車が来るまでという期限があったから、絵里は逃げずにいられた。手を離すとき、彼が次は自分が行くと言った。
けれど、その約束は二度延期になった。父親が腰を痛め、機械も一台止まった。絵里の新商品の発売が重なり、週末に会える日が一日もない月が過ぎた。
夏の終わり、電話で初めて言い争った。
「無理なら、無理って早く言ってほしかった」
絵里は予約した店を取り消したばかりだった。彼は謝り、それから「君だって先月は」と言った。互いの事情を知っているはずなのに、事情を数え始めると、会いたい気持ちまで請求書のようになった。
電話を切ったあと、絵里は空いてしまった土曜日に洗濯をした。相手を責める言葉は浮かぶのに、何が寂しかったのかは、すぐには言えなかった。夜になってから、彼へ短い文章を送った。
『会えないことより、一人で予定を空けたまま待っているのがつらかった』
返事は翌朝来た。彼も、待たせていると分かっているから連絡が怖くなっていたと書いた。二人は、会えない週でも日曜の夕方に二十分だけ話すことにした。忙しいときには、その二十分を取り消してもよい。ただし、黙って消えないことにした。
それは華やかな約束ではなかった。絵里が洗濯物を畳み、彼が工房の戸締まりをする音が、通話の向こうから聞こえた。話題のない日もあった。彼が糸の色を迷い、絵里が夕飯を決められないだけの日もあった。
秋には、絵里が出張帰りに途中下車した。会えたのは駅前の喫茶店で四十分だった。彼は少し痩せていたが、父親と注文の量を相談できるようになったと言った。絵里も、任せた仕事を何度も取り返す癖を、少しずつやめていると話した。
「変わるのって、遅いですね」
絵里が言うと、彼はカップを回した。
「布も、急ぐと歪むから」
また仕事のたとえだと二人で笑った。別れ際の寂しさは、最初のころより濃かった。それでも、次に会うまでの時間が全部空白になるわけではないと、絵里は分かり始めていた。
十一月、工房から小さな展示の案内が届いた。絵里は仕事の予定と重なって行けなかった。代わりに花を送ろうとしたが、何がふさわしいか決められず、彼に聞いた。彼は花も嬉しいけれど、終わったあとに話を聞いてほしいと言った。
展示の日の夜、電話の向こうは騒がしかった。父親と近所の職人たちが片づけながら酒を飲んでいるらしい。彼は外へ出て、思ったほど売れなかった、と言った。
絵里は励まそうとして、次は宣伝を早めれば、と口にしかけた。けれど彼が話し続けたので、言葉を飲み込んだ。
「一本のストールを、三十分見ていた人がいたんです。今日は買えないけど、忘れたくないから写真を撮ってもいいかって」
「撮ってもらった?」
「ええ。父は最初、売れないなら仕方ないって顔をしてた。でもその人が帰ってから、あれのために織ってるんだなって」
彼の声には疲れがあった。売り上げの心配も消えてはいない。それでも、その日の話を、成功か失敗かだけで分けたくないのが分かった。
絵里は自分もその布を覚えていると言った。初めて見たときの、灰色の奥に緑が現れた感じを、仕事中に思い出すことがある。今まで一度も伝えていなかった。
「もっと早く言えばよかった」
「今、聞けてよかったです」
電話が終わるころ、彼は年末の予定を尋ねた。絵里はすぐに空けると答えず、手帳を開いた。彼も工房の注文表を確かめた。会いたい気持ちを証明するために全部の予定を壊すのではなく、互いの生活の中に、確かな場所を作りたかった。
日程が決まると、絵里は宿の名前を声に出した。二人とも同じ場所を考えていた。雪が降っても降らなくても行こうと彼が言い、絵里は、今度は携帯の充電器を忘れない、と答えた。
一年後、同じ宿を二人で予約した。今度は列車が止まることを期待せず、それぞれに休みを取った。彼が日程を提示し、絵里が宿へ電話した。どちらか一人だけが、会うための準備を背負うことはなかった。
宿へ向かう道には、雪が降っていなかった。軒先から乾いた風鈴の音がした。あのとき道幅を狭くしていた雪がないと、町は少し違って見えた。
「拍子抜け?」
彼が聞いた。絵里は彼の手から荷物を一つ受け取った。
「止まらなくても、会いに来たのがいい」
部屋に荷物を置くと、彼は細い箱を開いた。初めての夜に見せてもらった布と同じ糸で織った、小さなストールが入っていた。贈り物には重くないかと迷ったらしく、端に値札がついたままだった。
絵里は笑って、値札を彼に渡した。肩に掛けて鏡の前に立つと、灰色の奥に緑が見えた。彼が少し離れたところから見ているので、「近くに来ないと分からないんでしょう」と声をかけた。
彼は近づき、布の端を直した。その手が肩から離れる前に、絵里は上から重ねた。窓の外では、止まる理由のない列車が時刻どおりに通り過ぎた。
夕食の席には、最初から椅子が二つあった。木の箱ではなく、彼女の鞄が、彼の隣に置かれた。