会議が終わったときには、ひどい雨だった。三十歳の杏は、受付の傘立てで立ち尽くした。
朝の予報では、夜から降るはずだった。杏は折り畳み傘を一度鞄へ入れ、資料の封筒が折れそうだったので取り出した。今になって、あの数センチを惜しまなければよかったと思った。
受付の人は、貸し出し用の傘はもう出ていると申し訳なさそうに言った。杏は礼を言い、外の様子を見た。駅までは十分ほど歩く。信号が二つあり、途中に雨を避けられる店は少なかった。
後ろから、取引先の設計士、三十三歳の水野が来た。彼は鞄を開け、折り畳み傘を差し出した。
「僕、駅まで走りますから」
「一緒に入ればいいじゃないですか」
自分で言ったあと、杏は資料の封筒で顔を隠したくなった。仕事以外で隣を歩くのは初めてだった。
水野は少し驚いたあと、では、と傘を開いた。二人で入るには小さかった。
杏は家具のメーカーで、施設向けの提案を担当していた。水野とは、公共施設の改装計画で半年ほど一緒に働いていた。彼の会社は設計、杏の会社は家具の提案をする。今日で大きな打ち合わせが一段落し、今後は担当者同士の細かいやり取りになる予定だった。
会議では杏がよく話した。準備した資料を順に示し、時間を見て次の項目へ進めた。水野は多くを話さなかったが、杏が曖昧にした部分へ、具体的な質問をした。
最初は少し苦手だった。答えに困ることを聞かれると、自分の用意が足りなかったように感じた。だが彼は、間違いを見つけたいのではなく、使う人が何に困るのかを確かめていた。
一度、杏が話を急ぎすぎたことがあった。小さな椅子の寸法について、水野は利用者の動き方を確認したかった。杏は予定が押していることを気にして、後ほど資料を送ります、と先へ進めた。
会議後、水野は残って、何を心配しているか図を描いて説明した。杏はその図を見て、資料を送るだけでは答えにならなかったと気づいた。
謝ると、水野は、時間を気にしてくださっていたので、と言った。責められなかったからこそ、次は聞きたいと思った。
それから杏は、彼がペンを持つ手を少し上げたら、一度言葉を止めるようになった。会議は前より滑らかに進み、彼の質問を聞くのを楽しみにしている自分にも気づいた。
先月、現場を見に行った帰りに、水野が自動販売機で温かいお茶を買った。杏が同じ列に並ぶと、どれが甘くないか尋ねた。
仕事の話ではない質問を、彼から初めてされた。杏は自分がよく飲むものを指した。彼はそれを買い、少し熱そうに持ち替えた。杏は、自分の勧めたものを誰かが手に持つだけで、こんなに気になるのかと驚いた。
帰社してから、会議録を送るメールへ、そのお茶はどうでしたかと書きかけた。業務の連絡へ足すには私的すぎる気がして消した。
水野の返事は、確認しましたという短い文章だった。杏は少し残念に思い、それを仕事の返事に期待するのは勝手だと自分へ言った。
今日、打ち合わせが終わったとき、これまでありがとうございましたと言った。水野も頭を下げた。もう毎週顔を合わせるわけではないのだと思うと、資料の封筒が急に軽く感じた。
雨が降っていなければ、杏はそのまま駅へ急いだかもしれない。仕事で会う理由がなくなっても、ほかの理由を自分から作ればよいという発想は、まだ彼女にはなかった。
小さな傘だった。二人とも濡れ、どちらも相手の肩ばかり気にした。
杏が内側へ寄ると、水野は傘を彼女のほうへ傾けた。そうすると彼の鞄が雨へ出るので、杏は傘の持ち手に触れた。
「真ん中で、大丈夫です」
水野はうなずき、持ち方を少し変えた。二人の肘が一度ぶつかり、両方が同時に謝った。
最初の信号で止まった。車の灯りが濡れた道路へ伸びていた。杏は、いつもこの時間に帰るのかと尋ねた。水野は、現場へ行く日によると答えた。
杏も毎日同じではない。朝早く出る日には、帰りに買いものへ寄るつもりが、閉店時間を過ぎることがある。そんな話をすると、水野は駅前の小さな店が遅くまで開いていると教えた。
「よく行くんですか」
「帰るのが遅い日には。何を作るつもりだったか忘れるので、同じものを買ってしまいます」
会議室で彼が言い淀むところを、杏はほとんど見たことがなかった。夕飯に迷う姿を想像すると、目の前の人が少し近くなった。
杏は、料理をする気で材料を買っても、帰ったら卵だけ焼く日があると話した。水野は、それは料理でしょう、と答えた。杏は笑った。誰に褒めてほしかったわけでもないが、その返事はうれしかった。
雨の強い場所を通ると、会話が途切れた。杏は封筒をコートの内側へ寄せ、水野は段差の前で歩幅を緩めた。
仕事では話すことを先に決めている杏も、こうして歩くと何を聞けばよいか分からない。出身地や休日の過ごし方を尋ねるのは、急に親しくなろうとしているように見えるだろうか。
水野のほうから、杏がこの仕事を始めた理由を聞いた。杏は少し迷い、最初から家具が好きだったわけではないと答えた。配属されたときは、知らない名前ばかりで困った。だが、実際に人が座るところを見ると、資料の数字に意味が出てきた。
「今日の部屋も、できたら見たいですね」
水野が言った。
杏はうなずいた。二人が会うのは、たいてい完成する前の場所だった。机も椅子も、まだ図面と見本の中にある。仕事の終わりに人がどう使うかを見る時間を、自分でも作りたいと思った。
「水野さんは、最初から設計を?」
彼は、学生のころは絵のほうが好きだったと答えた。今でも休日に、小さなスケッチブックを持って歩くことがあるらしい。
杏は驚いた。図面を描く人だから、休日も絵を描くとは限らない。知っている仕事から、知らない生活を勝手に決めていた。
「どんなところへ行くんですか」
聞くと、水野は少し迷い、駅の向こうの古い商店街、と答えた。杏の家からも行ける場所だったが、彼女は通ったことがなかった。
二つ目の信号を渡るころ、杏は自分の声が会議より遅くなっていることに気づいた。時間内に結論へ運ぶ必要がなければ、聞く前に少し迷ってもよかった。
水野は、さっきの会議で質問を一つし忘れたと言った。杏が仕事の顔へ戻りかけると、彼は笑って、今じゃなくて大丈夫です、と付け加えた。
二人で傘に入っている時間まで、仕事の続きにしなくてもいい。その言葉を彼が先に出してくれたことが、杏にはありがたかった。
駅の屋根が見えた。雨を避けられる場所へ着くとほっとしたが、歩く時間が終わるのは少し寂しかった。杏は傘の外へ出て、袖についた雫を払った。
水野が反対側の入口へ向かった。
「そっちなんですか」
「はい」
「じゃあ、もっと近い駅、会社の裏に」
水野は苦笑した。
「知ってました」
雨の音が急に大きく聞こえた。杏は、彼が道を知らないと思っていたわけではないのに、今まで一緒に歩いたことを、ただ同じ方向だからだと思おうとしていた。
「送ってくれたんですか」
尋ねると、水野は少し考えた。
「もう少し、話したかったので」
彼は傘を畳みかけ、反対側へ行くにはまだ雨の中を歩くことを思い出して止めた。その小さな間違いで、杏も少し笑えた。彼も、自分と同じように緊張しているのかもしれなかった。
杏は改札へ入らず、鞄を持ち替えた。
「明日、傘を返します」
「急がなくても」
「急ぎたいです。明日、会う用事にしたいので」
水野は傘を持つ手を下ろし、濡れた前髪をもう片方の手で上げた。
「仕事抜きで?」
杏がうなずくと、彼は少し遅れて笑った。
杏は言った直後、自分の言葉が相手を断りにくくしていないか気になった。明日が難しければ別の日でもと足すと、水野は大丈夫だと答えた。夕方なら、会社の近くを離れた店へ行けるという。
水野は傘を畳んで杏へ渡した。反対側の入口までは地下通路で行けるので、もう濡れないという。杏は駅から家までの道を思い出し、今度は遠慮せずに受け取った。
濡れた傘をしまう袋がなく、水野が鞄から使っていない袋を出した。彼は最初から何でも用意している人に見えたが、その袋には昼に買ったパンの店の印があった。
「朝、寄ったんです」
彼が少し照れたように言った。杏は、自分もその店の前を通るのに、入ったことがないと答えた。開いている時間が短いので、早く出た日だけ買えるらしい。
明日の約束とは別に、杏は今度、仕事へ行く前に少し早く家を出ようと思った。知っている道に、まだ寄ったことのない場所があるのは、うれしかった。
二人は携帯電話を出し、仕事のメールとは別の連絡先を交換した。杏が登録する名前を確かめると、水野は自分の名前を一字ずつ説明した。何度も書類で見た字なのに、本人の声で聞くと新しく感じた。
待ち合わせは、杏が使う駅の外にした。傘を返すために彼を会社へ呼ぶのではなく、二人とも仕事を終えてから会う。杏はその区切りを、はっきりさせておきたかった。
帰りの電車で、杏は濡れた封筒を膝に置いた。中の資料は無事だった。水野から、帰れましたかと短い連絡が来た。杏は、今電車です、と返し、そのあとで、傘、ありがとうございますと書いた。
お礼だけなら仕事のメールでも言えた。その先へ一言足したくて、明日の店は甘いものもあるところがいいですと送った。画面を見つめていると、甘いものは僕も好きです、と返ってきた。
知っていることが、一つ増えた。まだ少ないから、次に何を聞くかが楽しみだった。
家で傘を広げて乾かした。自分のものではない傘が玄関にあるだけで、明日の予定がそこへ置かれたように見えた。杏は資料を鞄から出し、明日持っていくものを机へ並べた。
傘を返せば、会う理由が一つなくなる。だが、それだけを理由にしないで会いたいと、もう言えた。
翌日は晴れた。杏は傘を持って家を出た。見送りに来たような青空を、別に、恨めしくは思わなかった。受付を通る前に、水野から、夕方を楽しみにしています、と届いた。杏は歩道の端へ寄り、私もです、と返した。濡れなくても、隣を歩く約束ができていた。