別々の寝室になってから、四十六歳の真由はよく眠れた。夫のいびきが聞こえない。四十九歳の夫も、彼女が早番の日に鳴らす目覚ましに起こされない。
最初に提案したのは真由だった。息子が家を出て空いた部屋に、小さなベッドを置いてみたい。夫は家具の寸法を測り、窓を開けられる位置を探した。寝具を運ぶ土曜、二人は廊下で何度もすれ違い、引っ越しみたいだと笑った。
その夜、真由は驚くほど深く眠った。朝に目が覚めたとき、夫が隣にいないことより、肩が軽いことに気づいた。朝食を作りながら鼻歌まで出た。
けれど、友人に話すと夫婦の危機だと言われた。
「うちは別々にしたら、もう戻れない気がする」
友人自身の話なのに、真由は忠告を受けたように感じた。帰宅して、廊下に並ぶ二つの扉を見た。昨日まで気にならなかった距離が、急に長く見えた。
日曜の朝、真由はその言葉を夫に伝えた。彼はトーストをかじり、しばらく考えた。
「危機って、寝不足だったころのほうが、危機だった気がする」
それは確かだった。真由は笑った。夜中に起こされた腹立たしさを、翌朝の洗い残した皿にぶつけることも減った。
「でも、少し寂しい」
続けると、夫の手が止まった。
「夜、話しかけるきっかけが減った」
彼はパンを皿に置いた。
同じ部屋で寝ていたころ、二人は消灯してから話した。息子が送ってきた写真、スーパーで会った昔の隣人、庭の木の枝をいつ切るか。その大半は、改めて用事として呼び止めるほどのことではなかった。
別々の部屋になってからも、必要な会話はあった。宅配便が来る、電池が切れた、来週は夕飯が要らない。冷蔵庫に貼った予定表は以前より整っていた。それなのに、相手が今日何を見て笑ったかは分からなかった。
「ここで話せばいいんだろうけどね」
夫は食卓を軽く叩いた。真由が返事をする前に、洗濯機の終了音が鳴った。彼女が立ち上がると、彼も新聞を広げかけた。
二人は互いの動きに気づいて笑った。家には、会話を後回しにできる用事が多すぎた。
「朝ご飯、外で食べてみない?」
真由は提案した。毎日ではなく、日曜だけ。昼になる前なら、帰って家のこともできる。近所では知り合いに会うので、隣町まで歩くことにした。
夫は壁の時計を見た。今日は洗濯が終わったら行けるかと聞いた。真由は、最初から何でも今日始めなくていい、と言いかけてやめた。話が決まった直後に先延ばしにするのは、二人に共通する癖だった。
二人で洗濯物を干し、鍵だけを持って家を出た。駅前まで行って、財布を忘れたことに気づいた。夫が取りに戻る間、真由は閉じた花屋の店先で待った。もう十分以上、何も片づけずに立っている。そのことだけで、休日らしかった。
隣町の喫茶店には、モーニングの小さな札が出ていた。店主は窓際の席へ案内し、卵の焼き方を尋ねた。真由は半熟、夫は固めと答えた。
「固めが好きだった?」
「最近は。弁当に入ってたやつが、おいしくて」
その弁当を作っていたのは真由ではない。夫が出張先で買ったものだった。夫の好みが、自分の知らない場所で変わったという事実が、新鮮だった。
最初の朝は、会話よりコーヒーをすする音が多かった。真由は鞄に手を伸ばし、携帯電話を家に置いてきたことを思い出した。夫も新聞のない手元を持て余し、紙ナプキンの端を折っていた。
何か話さなければと焦るほど、思いつくのは電気代や排水口のことだった。真由が天気の話をすると、夫は晴れてよかったと言った。それで一度会話が終わった。
隣の席の老夫婦が、同じ皿のトーストを分けていた。真由はあんなふうになりたいと言いかけた。しかし、自分はパンを全部食べたいし、夫はジャムを塗らない。
「卵、一口ちょうだい」
夫が頼んだ。真由は皿を少し寄せた。半熟もいいね、と彼は言った。二人に必要なのは、どこかの夫婦と同じ姿になることではなく、そういう小さな希望を聞く時間なのかもしれなかった。
帰り道、夫は次もここにするかと尋ねた。真由は、もう一軒、商店街の端に看板を見つけたと答えた。今日はうまく話せなかった、という感想を口にしなくても、次を決めることはできた。
三回目の朝、夫が退職後の不安を話した。
まだ何年も先のことだった。けれど会社で役職を外れた先輩を見て、自分が毎朝どこへ行くのか想像できなくなったという。家にいるなら家事をしてもらえばいいと、真由はすぐに思った。その言葉を飲み込むと、夫の話が続いた。
「仕事が好きなのか、呼ばれる場所があるのが好きなのか、分からなくなってきた」
真由はサラダの葉を皿の隅へ寄せた。彼女には図書館の仕事があり、シフトが減ったら手伝いたい活動もあった。夫にも当然、仕事以外にしたいことがあると思っていた。
「家にいたら、邪魔かな」
「邪魔じゃない。でも、私の予定が全部あなたの予定になるのは困る」
言ってから、きつかったかと思った。夫は少し考え、そこは分けないとね、と答えた。
二人は家計の話もした。退職金で何か始めようという結論にはならなかった。まずは今の休日に、夫が一人で行ってみたい場所を書いてみることになった。仕事のない将来を、妻と過ごす時間だけで埋めなくてもいい。
その日の午後、夫は古いカメラを出した。真由が覗くと、電池が液漏れしていると言った。修理できるか調べる声は、朝より少し明るかった。
五回目、真由は陶芸を習いたいと話した。子どもの学費が終わったらと言い続け、その子どもはすでに自分で家賃を払っていた。
「いつの教室?」
「隔週の日曜。十時から」
言ってから、朝食に出かける時間と重なることに気づいた。せっかく決めた習慣なのに、と真由が黙ると、夫は七時に開く店を探せばいいと言った。
「眠るために部屋を分けたのに、早起きするの?」
彼も笑った。毎週会う約束を作ったことで、会わない週について話すことまで楽になっていた。
二か月目に、一度だけ喧嘩をした。
夫が仕事の連絡を気にして、食事の途中で携帯電話を見た。緊急かもしれないと真由は思い、待った。だが画面を閉じたあとも、夫の返事は曖昧だった。もう一度通知が鳴ると、真由は先に帰ると言った。
帰りの道を、二人は黙って歩いた。真由は、自分が楽しみにしていた分だけ怒っているのだと分かっていた。夫も、休日に仕事を持ち込んだことを責められたと思っていた。
家に着く前、真由は橋の上で立ち止まった。
「急ぎなら、そう言ってほしかった。私だけ話を聞いてもらえるつもりで座ってたから」
夫は欄干に触れた。部下からの相談で、すぐ返事が必要というほどではなかったという。返さなければ頼られなくなる気がした、と小さく付け足した。
三回目の朝に聞いた不安を、真由は思い出した。分かったからといって、怒りが消えるわけではない。それでも彼が何を怖がっていたかは分かった。
「私は、待てるか聞いてもらえればよかった」
夫はうなずいた。次から電話を鞄にしまう。ただし仕事で気になることがある日は、先に話す。二人の決まりは、それだけ増えた。
翌週の朝食は、家の食卓だった。強い雨が降っていたので、外へ行くのをやめたのだ。洗濯物をたたむ前に、二人は座った。夫が出したパンは少し焦げていて、真由の卵は固くなりすぎた。それでも、席を立つまで二人とも用事を始めなかった。
家では話せないと思っていたのは、場所のせいばかりではなかった。
陶芸教室で初めて焼いた器は、思っていたより重かった。真由は持ち帰った袋を玄関に置き、夕飯まで見せずにいた。夫が尋ねたので、ようやく新聞紙をほどいた。
「何を入れるの?」
「一応、スープ。でも、飲み口が厚くなって」
夫は、手作りらしくていいねとは言わなかった。実際に持ち上げ、底を見て、熱いものなら厚くてもいいかもしれないと言った。真由には、その具体的な感想がうれしかった。
次の日曜、喫茶店から帰ったあとで二人分のスープを作った。一つは新しい器に、一つは昔から使っている器に入れた。夫は真由の器を選び、途中で少し重いと笑った。次は軽いものを作る、と真由も笑った。
一方、夫は直したカメラを持って、一人で川沿いを歩くようになった。上手な写真ばかりではなかった。鳥が飛び去ったあとの枝や、何を撮るつもりだったのか分からない水面。それらを見せながら話す夫の顔を、真由は以前より長く見るようになった。
夜は変わらず、別々の部屋へ帰った。廊下でおやすみを言い、次の日曜の店をどちらかが提案した。扉を閉めたあとで伝えたいことを思い出せば、今は軽くノックした。
夏に息子が一泊で帰ってきた。自分の部屋に真由のベッドがあるのを見ても、彼は驚かなかった。ただ、今夜はどこに寝ればいいか尋ねた。
夫が居間に布団を敷き、真由は古いシーツを出した。息子は、ここだと朝までテレビが見られる、と喜んだ。帰る場所を変えてしまったことを少し気にしていた真由は、拍子抜けした。
翌朝、息子も朝食へ誘った。今日は友人と会うからと断られ、二人だけで家を出た。
「昔は、あの子の予定に全部合わせてたね」
真由が言うと、夫はそれも楽しかったと答えた。真由もうなずいた。昔を窮屈だったことだけにして、新しい暮らしを正当化する必要はなかった。
昼に戻ると、居間の布団は畳まれていた。息子の置き手紙には、また泊めて、とあった。二人の朝が増えても、家族の居場所はなくならなかった。
半年後、友人にその話をすると、うらやましいと言われた。
「うちも何か始めてみようかな」
真由は、自分たちと同じことを勧めなかった。友人には朝寝坊を楽しみにしている夫がいる。二人が無理なく話せるのは夜かもしれない。
危機も仲良しも、自分たちの外でつけられる名前なのだと思った。自分たちには、眠れる夜と、話したい朝があればよかった。
日曜、夫が予約していた窓際の席に座った。真由がカップを両手で持つと、彼は今週見つけた小さな鳥の話を始めた。真由は途中で名前を尋ね、分からないという答えに笑った。二人には、その席がちょうどよかった。