運転見合わせのホームで、四十二歳の大地は、昔の妻を見つけた。
理沙は二番線のベンチの端に座り、停車している電車を見ていた。大地は最初、似ている人だと思った。髪が短くなり、掛けていた眼鏡も違った。それでも、鞄から水を出すときに片方の肩を少し上げる癖は、覚えていた。
彼が名前を呼ぶと、理沙は顔を上げた。驚いたあと、少し笑った。隣を示されたので、大地は一人分の間を空けて座った。
「ここ、使ってるんだ」
「今日は、仕事でこっちに来たの」
電光掲示板の時刻は消え、再開の見込みはまだ分からないと放送があった。二人は同じ方向へ帰るらしい。六年前には同じ家へ帰った。今は、どこで降りるのかも知らなかった。
互いの近況を三つずつ話すと、会話が尽きた。大地は部署が変わり、引っ越しはせず、休日に少し走っている。理沙は別の会社で働き始め、家を移り、以前飼っていた観葉植物が大きくなったという。
離婚から六年。話題より、触れてはいけないことのほうが多かった。
大地は理沙の左手を見そうになり、線路へ目を移した。確かめてどうするつもりなのか、自分でも分からなかった。理沙も同じことを考えたのかもしれないが、互いに聞かなかった。
二人が最後に会ったのは、手続きのために平日に休みを取った日だった。そのあとで昼食を食べるか大地が尋ね、理沙はいいと答えた。気軽に聞いたつもりの質問が、彼女には最後まで用事の続きに聞こえたのだろう。
その日、別れる前に何を言ったか、大地ははっきり覚えていなかった。必要な書類の確認ばかり覚えている。今も、何か困っていないかと聞きそうになった。元気そうな相手へ、心配する立場で近づくのは違うと、思いとどまった。
「お父さん、お元気?」
理沙が聞いた。
大地は、父が去年亡くなったことを伝えた。言うつもりで構えていなかったので、声は驚くほど平らに出た。
理沙は目を伏せ、長い間、返事をしなかった。膝の上で鞄の持ち手を揃え、それから一度、線路を見た。
「知らせてくれてもよかったのに」
「迷惑だと思った」
大地はすぐに答えた。何度も自分の中で繰り返した理由だった。
理沙は彼を見た。
「私がどう思うかまで、一人で決めるの、変わらないね」
大地は言い返しかけた。別れた人へ連絡するのは気を遣う。今の生活があるだろう。父のために戻ってきてほしいと思われたくなかった。言い訳は幾つもあった。
しかし、理沙が言ったのは、呼ばなかったことだけではない。知らされなければ、自分で行くか行かないかを決めることもできなかった、ということだった。
停車中の車内で、乗客が一人立ち上がった。放送が入り、少しずつ運転を再開するという。ホームに並ぶ人が増え、ベンチの前を通り過ぎていった。
大地は父のことを、もう少し話すべきか迷った。理沙は何も尋ねず、返事を待っていた。
理沙と父は、特別親しかったわけではない。結婚していた七年間、年に何度か顔を合わせ、庭の手入れや、近所の店の話をした。
父は大地へ電話をすると、理沙さんは元気かと必ず聞いた。大地は元気だよと答えた。本当に元気かを本人へ確かめていない日もあった。
離婚を伝えたとき、父は、そうか、とだけ言った。大地は責められなかったことにほっとした。だが翌月、父の家へ行くと、理沙が好きだった菓子がいつもの場所に置いてあった。
「もう、買わなくていいんだよ」
言うと、父は自分も好きだからと答えた。大地はそれ以上聞かなかった。父にも、別れを惜しむ相手がいたのかもしれない。
父が入院したとき、大地は何度か理沙の連絡先を開いた。最後に交わしたのは、届いた郵便物の転送についての短いやり取りだった。そこへ父の病状を書き足すことが、不自然に感じられた。
自分が何の返事を欲しいのか分からなかったこともある。大変だねと言われたいのか、手伝おうかと言ってほしいのか。頼りたい気持ちがあると知られるのが嫌で、父の話まで閉じてしまった。
電車が入ってきた。乗れるはずの列車だった。
理沙が立ち上がりかけたとき、大地は言った。
「父さん、理沙の話、ときどきしてた」
理沙は動きを止めた。
「うちで育ててた木、まだあるのかって」
彼女の目が少し動いた。二人で住んでいた家のベランダにあった鉢植えだった。父が枝を分けてくれたものを、離婚のとき理沙が持っていった。
「あるよ。さっき言った、大きくなったやつ」
大地はうなずいた。最初の近況で聞いた話が、父へつながった。自分の生活から消えたものも、誰かのところで育っていた。
理沙はもう一度ベンチへ座った。大地は父の入院中の話をした。最後まで大げさにしたがらず、欲しい物を尋ねると新聞だけと言ったこと。持っていくと、読んだ記事より広告を長く見ていたこと。いつか帰ったら替えたい椅子を探していたらしい。
理沙は鞄から水を出し、飲みながら聞いた。彼女は昔、話が長くなるといつもそうした。大地はその仕草に懐かしさを感じたが、昔と同じ関係へ戻ったとは思わなかった。
列車が出ていった。ホームが急に静かになり、遠くの改札から足音が聞こえた。
父が亡くなった直後、大地はするべきことだけを順に片づけた。書類を集め、家の中の物を確認し、親戚へ連絡した。人から大変だろうと言われると、忙しいから考える暇がないと答えた。
父の家に一人で行ったとき、洗い桶に伏せた湯飲みを見て、初めて手が止まった。もう使う人がいないのに、乾いた器は、次のお茶を待っているように見えた。
その話を理沙へすると、彼女は、青い縁の、と言った。大地は驚いた。自分には特別でない物を、理沙も覚えていた。
「お父さん、私が洗おうとすると、それは自分の仕事だって言った」
理沙は少し笑った。
「気を遣われてると思ってたけど、本当にやりたかったんだろうね」
大地も笑った。父について、自分が知らなかった場面があった。死んだ人のことを話すのは、同じ思い出を確認するだけではないのだと知った。
理沙は、病院に行けばよかったと繰り返さなかった。何も知らなかった時間を今から取り戻せないことを、分かっているようだった。その静かさが、大地にはかえって重かった。
「知らせなかったのは、ごめん」
大地は謝った。離婚全体についてではなく、父のことを伝えなかった、その一点について。
理沙はうなずいた。
「葬儀は無理でも、線香くらい、あげたかった」
大地は、今からでも、と言いかけ、途中で止めた。来たいと言われていないうちに日を決めれば、また相手の気持ちを飛び越える。
「来てもらえるなら、父さんも喜ぶと思う。でも、無理にとは思ってない」
理沙は少し考え、来週の日曜なら時間があると答えた。
二人は携帯電話の予定を見比べた。午前と午後のどちらがよいか、駅からどう行くか。必要な話は以前と同じようにできた。それでも、今回は理沙の返事を聞いてから、一つずつ決めた。
父の家で昼食まで用意すべきかと、大地は考えた。すぐに、そこまで今日決めなくていいと気づいた。線香をあげに来るという約束を、過去の家族の一日に広げる必要はなかった。
「駅で待つよ」
彼が言うと、理沙は道を覚えているから大丈夫と答えた。大地は、そうだったね、と笑った。迎えに行くことも、相手が必要だと思うときでよかった。
次の列車が来るまで、もう少し時間があった。二人は父の庭について話した。大地が手入れをしているが、どれが植えたものか雑草か分からないことがあると言うと、理沙は昔も同じことを言っていたと笑った。
離婚の理由を、今さら一つへまとめる話にはならなかった。二人には二人の傷ついた記憶があり、父の死でそれを帳消しにはできない。大地はそれを分かったうえで、今、理沙が隣に座っていることをありがたいと思った。
「今日は、どこへ帰るの」
大地は尋ねた。理沙は駅の名前を答えた。前より少し遠くなっていた。
「乗り換え、二回?」
「うん。でも、家の近くが静かだから」
彼女は自分で選んだ暮らしについて話した。大地は、その暮らしを知らないままでいてもよかったのだと思った。知る機会があったときに聞けばいい。聞いたことから、相手の幸せや不幸を自分の尺度で決めなくてもよかった。
今度の電車には二人とも乗った。車内は混んでいて、並んで立てる場所はなかった。理沙は少し先の扉へ移り、大地は別の吊革を持った。時々、揺れの合間に顔が見えた。
乗換駅で理沙が降りた。大地は短く手を上げた。彼女も同じように返した。別れ方を大きな言葉にしなくても、来週の約束は残っていた。
その夜、大地は父の家へ置いてある菓子皿を思い出した。空のままだったので、来週までに何か買おうと思った。理沙の好きだったものを、今も好きか確かめるか迷い、結局、小さな箱を一つだけ用意することにした。
前日に父の家へ行き、窓を開けた。掃除をしながら、大地は古い写真立てを動かした。家族が皆で写った写真の端に、理沙がいた。以前なら、見たら気まずいだろうと、隠したかもしれない。
大地は埃だけを拭き、同じ場所へ戻した。写真に写っていることと、今の役割は同じではない。父の家にあった時間を、自分が気まずいという理由だけで片づけたくなかった。
花の水を替え、椅子を二脚出した。準備が終わると、来てもらうだけでよいのだと、ようやく落ち着いた。
日曜、理沙は約束した時間に来た。玄関で靴を揃え、父の写真の前に座った。大地は少し離れた場所で待った。何を話したか、何を思ったかを聞こうとは思わなかった。
理沙が戻ってきたあと、二人で庭の鉢を見た。持ち帰った木の写真を見せてもらうと、大地は父がきっと枝の伸び方に口を出しただろうと言った。理沙も、そうだねと笑った。
二人が約束したのは、元に戻るためではなかった。ただ、懐かしい人を悼む場所に、もう一度、並んで立つためだった。大地はお茶を用意し、菓子を食べるかと尋ねた。理沙は一つだけ、と答えた。彼はその数だけ、皿へ載せた。