花束は、水曜の夕方に届いた。送り主の名はなかった。三十三歳の遥は、淡い紫のトルコキキョウを見て、誰からか分かった。
半年前に別れた人だけが、好きな花を知っていた。彼は結婚していて、遥の誕生日にも名前のない花を送った。隠すことを、気遣いだと言った。
宅配の人は花を渡すと、伝票を確かめて帰った。遥は玄関の扉を閉め、花束を靴箱の上へ置いた。嬉しいと感じるより先に、誰かに見られなかっただろうかと考えた。その癖がまだ自分に残っていたことが、嫌だった。
花はきれいだった。水を吸った茎の匂いがした。包装紙をほどくと、細い葉が一枚、床へ落ちた。遥は拾ってから、なぜ受け取ってしまったのかと自分へ腹を立てた。
彼と知り合ったのは、仕事の勉強会だった。最初に食事へ誘われたとき、結婚していることは知っていた。会う理由を仕事に限っていれば大丈夫だと思い、次には、食事だけならと思った。自分の決めた線を、自分で少しずつ移した。
彼は遥の話をよく聞いた。仕事で任されたこと、うまく言い返せなかったこと、昔やめた習い事のこと。誰かに興味を持ってもらうことが、こんなに心強いと知らなかった。
だが、話を聞いてもらえる時間には、いつも終わりがあった。電話が鳴れば彼は画面を伏せ、帰る時刻が近づくと、遥の話は途中でも短くなった。
遥もその変化に先回りするようになった。重い話を始めず、質問を後へ回し、今日は楽しかったと言った。彼が帰ったあとで、言うつもりだった話を一人で思い出した。
花を好きだと話したのは、二回目に会った夜だった。店の窓辺にトルコキキョウが飾ってあり、子どものころ祖母の庭にあったと言った。彼は覚えていて、誕生日に花を送った。
遥は喜んだ。その喜びが本物だったことまで、今になって嘘にすることはできない。だからこそ、名前のない伝票を机へしまった自分を、長く許せなかった。
別れたのは、彼が約束を破った一日が理由ではなかった。約束そのものが、最初から遥へ渡されていなかったことに気づいたからだった。
休日に旅行をする話は、いつかになった。人前で会うときは、偶然近くで仕事があったことになった。遥が友人へ話そうとすると、まだ余計な心配をさせないほうがいいと言われた。
心配を掛けるのが自分だけであるように思い込み、遥は黙った。しかし、その沈黙の中に、存在を知らないまま傷つけられている人がいた。彼の家庭を想像しないことが、自分を守る方法になっていた。
ある日、遥は彼の話に出てきた家族の名前を聞いて、初めて、その人たちが毎日暮らしていることをはっきり感じた。自分に寂しい夜があるのと同じように、向こうにも待つ時間や、知らない時間がある。
もう会わないと伝えたとき、彼は今すぐ決めなくてもと言った。遥は、今まで決めないことで続いてきたのだと答えた。うまく言えたわけではない。泣き、同じ言葉を何度も繰り返した。
別れたあと、彼からの連絡を読む日もあった。返さなかった日も、返してしまった日もある。そのたびに、半年かけて自分の決めたことへ戻った。立派な一度の決意で、全部が終わったわけではなかった。
遥は花束を台所へ運んだ。水を入れる前に、伝票の花屋へ電話を掛けた。
「送り主の方へ、今後の配達を控えてほしいと伝えていただけますか」
口にすると、思っていたより事務的な声になった。店の人は送り主を言わず、確認に必要なことだけ尋ねた。事情も聞かなかった。
遥は思わず、この花が悪いわけじゃなくて、と言いかけた。店の人は静かに承知しましたと答えた。その返事のおかげで、全部を説明しなくても、受け取りたくないという希望は言えるのだと分かった。
電話を切ったあと、遥はしばらく椅子に座った。花屋に変な客だと思われただろうかと考えた。次には、彼が怒るかもしれないと思った。その二つを気にして、結局何も言わないところへ戻りそうになった。
自分がどう受け取るかを、自分で決めてよかった。彼の反応を見てから許されることではない。
遥は包み紙を畳み、茎を切った。花は捨てなかった。三つの瓶へ分けた。悪いことをしたのは花ではないし、きれいだと思う自分でもなかった。
大きい花束のままだと、彼が用意した形に見えた。小さな瓶に分けると、置く場所も、向きも、遥が選べた。
夜、彼から連絡があった。
『花まで拒まなくても』
遥は返事を書き、消した。分かってもらうための長い説明を、いつも自分がしていた。
花を贈る気持ちが悪いとは言っていない。受け取ると嬉しくなる自分がいることも知っている。それでも、嬉しさのために戻りたくない。そう書けば伝わるだろうかと考え、遥は画面を閉じた。
伝わる言葉がまだ見つからないから黙るのと、もう話し合わないと決めて返さないのは違う。自分の中では、その違いをはっきりさせたかった。
夕飯を温め、風呂へ入り、明日の服を出した。携帯電話は台所の棚へ置いた。いつも手の届くところにあると、食事の途中でも彼の返事を待つ自分に戻ってしまう。
寝る前にもう一度だけ見た。新しい連絡はなかった。ほっとしたあとで、少し寂しくなった。寂しいから決めたことが間違っていたのではないと、遥は自分へ言った。
翌朝、瓶の一つを台所へ移した。もう一つは玄関に置いた。最後の一つは、自分の机の端へ置いた。来客に見られても、隠す理由はなかった。
土曜、友人が借りていた本を返しに来た。玄関の花を見て、きれいだねと言った。遥はうなずいた。誰からもらったか聞かれる前に話すべきか、黙っていてもよいか迷った。
台所でお茶を入れているとき、遥は自分から、別れた人から届いた、と言った。友人はカップを置き、どうしたいのと尋ねた。
それまで遥は、話せば叱られるか、慰められるかのどちらかだと思っていた。どうしたいかを聞かれたので、もう受け取りたくないと答えた。
「それなら、そうしたらいいと思う」
友人は言った。遥を許すとも、彼がひどいとも言わなかった。
遥は少しだけ、付き合っていたころの話をした。詳しいことを全部話す気にはならなかった。自分のしたことを、聞く人の同情で軽くしたいわけではない。それでも、一人で抱えないことと、責任をなくすことは同じではなかった。
友人は帰りに、本をもう一冊借りていった。遥の生活には、その人がいなくても続いている貸し借りや約束がある。その普通のことが、今は頼もしかった。
花は少しずつ開いた。最初に傷んだ茎を抜くと、残った花の間隔が変わった。水を替えるたび、遥は名前のない送り主ではなく、葉が水につかないかを見るようになった。
一週間ほどたった朝、机の瓶の花が一輪落ちた。遥は拾って、紙へ包んだ。捨てることにも、残すことにも、大きな意味をつけなくてよかった。
彼からは、そのあと二度連絡が来た。遥は返事をしなかった。仕事中に通知を見て動揺したので、表示の設定を変えた。自分を試すように何度も画面を開くのをやめたいと思った。
夜、以前なら電話を待っていた時間に、散歩へ出た。家の近くに新しい惣菜屋ができていた。店主に量を聞かれ、一人分と答えた。言い慣れたはずの言葉が、少し明るく聞こえた。
自分の暮らしが、一人分として足りないわけではなかった。誰かと分けたい日があっても、それは、隠された半分でよいという意味ではない。
帰宅すると、花のない瓶が三つ並んでいた。遥は一つだけ窓辺へ残し、残りを棚へしまった。空いている場所を、急いで次の何かで埋める必要もなかった。
二週目の金曜、以前通っていた語学講座の案内が届いた。彼と会う日を空けるため、遥は金曜のクラスをやめていた。あのころは、忙しくなったとだけ説明した。
今期の時間割を見ると、同じ先生のクラスが残っていた。遥は申し込みの画面を開き、学びたいから戻るのか、空いた夜を埋めたいだけなのかと迷った。どちらか一つでなければいけない理由はなかった。
初日の教室で、先生は久しぶりですねと言った。どうして休んでいたかを尋ねず、今期の教材を渡した。遥は自分だけ遅れている気がしていたが、前からいた人も、新しい人も、それぞれ違うページで間違えた。
隣の人と短い会話を練習した。週末の予定を聞かれ、特にないと答えたら、何もしない休日もいいですねと返ってきた。遥は少し笑い、家の植物の水を替えると付け足した。
帰り道、来週の課題を鞄へ入れ直した。彼から連絡があっても、この時間は自分のために残すつもりだった。誰かが許してくれる予定ではなく、自分で申し込み、月謝を払い、ここへ来ると決めた夜だった。
家に着くと、瓶の水が少し減っていた。遥は新しい水を入れ、講座でもらった薄い紙を机へ広げた。明日、覚える単語が幾つかある。その小さな続きが、今夜の自分を部屋へ落ち着かせた。
三週間後、自分で花を買った。いつものスーパーの出口に、小さな花屋が出ていた。遥は通り過ぎ、一度戻った。
トルコキキョウもあった。嫌いになったわけではない。しかし、その日は明るい黄色が目に入った。初めて選ぶ花だった。日持ちの説明を聞き、家の花瓶に入る長さへ切ってもらった。
店員が「どなたへ」と聞いた。
「私に」
答えると、店員は包みを少し小さくして、持ち帰りやすくした。遥はその手元を見ていた。贈り物でなくても、丁寧に包んでもらえることがうれしかった。
名札をつけますかと尋ねられ、遥は笑って首を振った。今度の名前のなさは、誰も傷つけなかった。
帰りのバスで、遥は花の袋を膝に載せた。隣へ座る人の邪魔にならないよう寄せたが、見えないように伏せることはしなかった。
家へ帰り、窓辺の瓶に花を挿した。机にも玄関にも分けず、一か所にまとめた。見るたびに、自分で買って帰った夕方を思い出すだろう。
遥は窓を少し開けた。花が揺れたので、瓶を内側へ寄せた。誰かが用意した気遣いを受け入れるためではなく、自分がきれいだと思うものを、自分の手で長く見ていたかった。