小劇場の客席で、七海はイヤリングを落とした。三十一歳にもなって、二つ揃いのものを何度なくすのだろう。
終演の拍手をしながら髪を耳へ掛けたとき、右だけ何も触れなかった。左には、小さな銀色の輪がある。七海は膝の上を見て、鞄の中を覗き、最後に床へ顔を近づけた。
客が一人ずつ出ていった。椅子をたたむ音が奥から聞こえ、七海は受付の人へ事情を話した。次の仕込みがあるので、しばらくしたら客席を出てほしいと言われた。迷惑を掛けていることが分かるほど、うまく探せなくなった。
イヤリングは高価なものではなかった。けれど、転職して初めての給料で買ったものだった。三十歳のとき、仕事を変えるのは遅いと言われ、遅いかどうかより今のままが嫌だった七海は、パン屋の販売から製造へ移った。早朝の仕事になり、休日も変わった。
銀色の輪をつけて出かける時間が、自分は仕事だけで暮らしているわけではないという印だった。
この劇場へ来たのは初めてだった。友人が好きな役者の出る公演を教えてくれ、七海の休みに合う回が一つだけあった。友人とは予定が合わなかったので、一人で来た。
受付で席の場所を聞き、前から三列目の端へ座った。隣の席の男は、パンフレットを読む前に上着を丁寧に畳んだ。七海が鞄を置く場所に迷っていると、自分の足元を少し空けた。
「ここ、椅子の下に入りますよ」
礼を言うと、彼は短くうなずいた。話し続けようとしないことが、七海には気楽だった。
芝居は、古い商店を片づける姉弟の話だった。登場人物は、同じ箱から出てきた物について、違う記憶を話した。七海は笑ったあとで、ふと自分の家のことを考えた。家族と同じ場面にいても、自分だけ忘れていることはある。
隣の男は、七海が笑わなかった場面で笑った。逆に、彼が黙っている場面で七海は吹き出した。客席が暗いと、そういう違いを気にせず同じ時間を過ごせる。
幕が下りたときには、七海はまた一人で観に来てもよいと思っていた。なくし物に気づくまでは、楽しい午後だった。
終演後、椅子の下を携帯電話で照らしていると、隣の席だった男が戻ってきた。
「片方、なくしました?」
彼の手には、受付でもらった落とし物の袋があった。中身は、誰かの手袋だった。
「それは、私のではないです」
七海が言うと、男は袋を見た。
「すみません。小さい袋だったので、確かめないで」
二人とも笑った。彼はすぐに受付へ返し、また戻ってきた。七海は、もう大丈夫ですと言いそうになった。大丈夫ではないのに、人に手を止めさせるといつもそう言った。
「銀色の、小さい輪です」
代わりに説明すると、彼はうなずいて、隣の椅子を少し動かした。
舞台の上では照明の確認が始まっていた。七海は顔を上げないようにしながら、さっき役者が立っていた板の継ぎ目を見た。客席から見ていた物語のあとにも、こうして働いている人がいる。
男は椅子の脚に触る前に、係の人へ声を掛けた。七海は自分が焦って、勝手に動かしかけていたことに気づいた。手伝ってもらうことは、探す手が増えるだけではなかった。
「よく、なくすんですか」
彼が聞いた。
「よく、って言いたくないくらいには」
七海が答えると、彼は、僕は傘です、と言った。大切にしていないからではなく、持っていることを途中で忘れるのだという。
七海は、同じです、と答えた。自分でも、物を大事にしない人だと思われたくなかった。
結局、イヤリングは七海のコートの襟に引っ掛かっていた。男が床を探す七海の肩へ、何か光っていますと言ったのだ。
七海は襟を外し、輪を掌に落とした。留め具が開いたまま、布の縫い目に引っ掛かっていた。二人で探した二十分が、急に恥ずかしくなった。
「ずっと、自分についてたんですね」
彼女が言うと、男は、見つかってよかった、と答えた。余計に時間を使ったとも、自分が見つけたとも言わなかった。
受付の人へ礼を言い、二人で外へ出た。劇場は地下にあり、階段を上がると、夕方の空が思ったより明るかった。七海はイヤリングを付け直しかけ、やめた。落とした直後なのに、また同じことをするところだった。
「お礼にコーヒーでも」
七海が言うと、男は困った顔をした。
「今から夜勤なんです」
彼は三十四歳で、近所の印刷所に勤めていた。芝居は好きだが、休みが合うことは少ないらしい。この回は開始が早かったので、仕事までに観られると思って来たという。
七海は時計を見て、引き留めたことを謝った。彼はまだ間に合うと言ったが、歩き始める速さは来たときより少し早かった。
二人は駅の方向へ並んで歩いた。七海は自分もパン屋で朝が早いと話した。昼過ぎに仕事が終わる日があるが、友人はまだ働いているので、一人で出かけることが多い。
「普通の時間って、誰の時間なんでしょうね」
七海が言うと、彼は少し笑った。
「この回に来られた人には、今日の午後が普通なのかもしれないですね」
駅の入口は二つに分かれていた。男は仕事先へ歩くので、ここで別れることになった。
「じゃあ、また会えたら」
七海は曖昧な約束をした。彼も、また、と答えた。連絡先を聞いてよいのか迷った。お礼のために二十分手伝ってくれた人へ、これ以上何かを求めるのは違う気がした。
けれど本当は、礼だけではなかった。さっきの芝居をどこで笑ったのか、もっと聞いてみたかった。仕事へ向かう彼を見送りながら、七海はそのことに遅れて気づいた。
駅の中でイヤリングを外し、鞄の小さなポケットへしまった。見つかったことだけでも、よかったと思うことにした。
帰宅すると、劇場のパンフレットを読み返した。出演者の紹介より、次回公演の案内を長く見た。あの男がまた来るとは限らない。それでも、次の作品も観たいと思った。
休みの日を確認して、七海は一枚予約した。誰かに会うためだけのチケットにしたくなくて、作品の説明を何度も読んだ。面白そうだと思えたので、画面を閉じた。
翌週、パン屋で一緒に働く人へ、なくし物をした話をした。相手は、七海がいつも出勤前に髪留めを探していることを知っていたので、またかと笑った。
七海も笑い、そのあとで手伝ってくれた人の話をした。名前も知らないと話すと、せめて聞けばよかったのにと言われた。
「お礼を言ったら、もう終わりみたいになっちゃって」
「まだ話したかったなら、そう言えばよかったんじゃない」
簡単そうに言われて、七海は少しむっとした。言えなかったから、今こうして話している。それでも、相手が親切だったことを理由に、自分の希望を小さく畳んだのは自分だった。
その夜、七海はイヤリングの留め具を確かめた。壊れているわけではなく、付け方が浅かったらしい。小さな鏡を見ながら、今度はきちんと留めた。なくすから何も付けないのではなく、気に入っているものを使うための手間を覚えたかった。
そのまま近所の映画館へ出かけた。男が来るはずのない場所でも、銀色の輪を選んだ。
一か月後、同じ劇場で彼を見つけた。受付のそばで、携帯電話の予約画面を出すのに手間取っていた。七海はすぐに声を掛けられず、一度、客席へ入る階段のほうへ歩きかけた。
忘れられていたらどうしようと思った。しかし、忘れていれば名乗ればよい。イヤリングの話をして、もう一度挨拶をするだけだった。
七海が戻って声を掛けると、彼は顔を上げ、耳元を見て安心したように笑った。
「今日は両方、ありますね」
「今のところは」
七海が答えると、彼も笑った。
席は離れていた。二人は同じ列でなくても、終わったら出口のところで話すことにした。七海はその約束ができたせいで、開演前の客席をいつもより広く感じた。
今回の芝居は、引っ越す人と残る人が、町の地図を描く話だった。七海は主人公が間違った道を案内する場面で笑い、終わるころには少し泣いた。あの男はどう観たのだろうと考えながらも、自分の感想を先に覚えておこうとした。
出口で彼を待つ間、七海は次に何を聞くか考えた。夜勤かどうか、コーヒーを飲む時間があるか。それより先に、言うべきことが一つあった。
彼が階段を上がってくると、七海は言った。
「私、七海です。なくしても、探せるように」
男は一瞬驚き、それからチケットを取り出した。裏に名前と連絡先を書いて渡した。七海も自分の携帯電話を出して、名前を登録した。
「今日は仕事、七時からなので、一時間くらいなら」
彼が先に言った。
七海は、今日はお礼のコーヒーじゃなくてもいいですかと聞いた。男が首をかしげたので、もう礼は先月言ったから、と付け加えた。彼は笑って、では、芝居の話をしましょうと答えた。
劇場から二本先の通りに、まだ空いている喫茶店があった。二人で入ると、窓際に小さな席が一つ残っていた。七海はイヤリングへ触れず、メニューを開いた。
彼は砂糖を一つ入れ、七海はミルクだけを入れた。最初の公演の話へ戻ると、彼が笑ったのは、役者が言い間違えたように見せた台詞だったという。七海は、その場面を大真面目に聞いていた。説明されてから思い出すと、確かにほかの役者が笑いをこらえていた。
「違う芝居を観たみたいですね」
七海が言うと、彼は、二回観た感じがして得ですね、と答えた。
話しているうちに、仕事へ行く時刻になった。七海は自分から時計を見て、そろそろですねと伝えた。引き留めたいことと、遅れてほしくないことは一緒にあった。
店の前で、今度は仕事のない日に、と彼が言った。七海は来月の勤務表が出たら連絡すると答えた。すぐに日を決められなくても、今は曖昧なまま消えない方法を持っていた。彼が角を曲がるのを見送ってから、七海は登録した名前をもう一度確かめた。
今度は、落とさないものが一つ増えた。連絡先だけではなく、会いたいと思った相手へ、自分から名乗った記憶だった。七海は駅へ歩きながら、次に観たい芝居を思い浮かべた。感想を話したい人がいると、まだ観ていない舞台まで、少し楽しみになった。