三十六歳の亜希が引っ越して一週間、洗面台のコップに歯ブラシが三本あった。
一本は自分の、一本は航の。残る一本が、見慣れない赤だった。亜希は何度も見たが、聞けなかった。同棲を始めてから初めて、家の中でよそ行きの笑顔を使った。
赤い歯ブラシは、新品というほどではない。毛先が少し広がり、柄に水滴がついていた。自分が気づかなかっただけで、引っ越す前からここにあったのだろうか。
鏡の中で、亜希は思ったより険しい顔をしていた。三十八歳の航が台所から呼ぶ声に、すぐ行くと明るく返した。その明るさが、自分の声でないように聞こえた。
同棲を決めたのは、どちらかの更新が近かったからではない。二人で暮らしたいと半年ほど話し、それぞれの通勤を考えて、新しい部屋を借りた。航の部屋へ入ったのでも、亜希が迎え入れたのでもなかった。
それなら対等に始められると、亜希は思っていた。家具を選ぶときも、電気代をどう分けるか話すときも、二人でメモを作った。
引っ越し当日は雨だった。箱の底が湿り、航の本棚の背板が一枚外れた。亜希が謝ると、航は二人とも雨を止められないと言って笑った。うまくいかないことが起きても、こうして笑えるなら大丈夫だと思った。
だが暮らし始めると、決めていないことのほうが多かった。タオルを掛ける向き、食べ終えた皿を水につけるかどうか、明日の天気をいつ確認するか。航は朝に窓を開け、亜希は着替えるまで開けてほしくなかった。
一つずつ言えば済むことに見えた。その一つずつを全部言ったら、自分は面倒な人になるのではないかと、亜希は怖かった。
以前付き合っていた人から、細かいことを気にしすぎると言われたことがある。相手は軽く言ったのかもしれない。亜希はその言葉を、自分と暮らす人全員の感想のように覚えていた。
航はよく動く人だった。亜希が仕事から遅く帰ると、洗濯物が取り込まれ、夕飯の野菜が切ってあった。ありがとうと言うと、先に帰ったから、と答えた。
その気軽さに助けられる一方、亜希は自分も何かしなければと焦った。洗った食器を戸棚へ戻し、床に落ちた糸くずを拾い、航が気づく前に自分の髪の毛を片づけた。
暮らしを整えることと、よい同居人に見せることが、少しずつ同じになっていた。
赤い歯ブラシを見つけたのは、水曜の夜だった。亜希は自分の歯ブラシを取ろうとして、三本が触れ合う音を聞いた。一本多い、と気づいた瞬間、頭の中で幾つもの説明が始まった。
以前の恋人が置いていったもの。家族が泊まったときのもの。新しいものへ替える前の予備。どの説明も、航へ聞けばすぐに分かることだった。
その夜、亜希は、誰か泊まったの、と聞く練習を心の中でした。実際に口から出たのは、冷蔵庫の卵が少ないね、という言葉だった。
航は買って帰ろうかと答え、予定表へ書いた。亜希はうなずいた。頼めば普通に返事が来ることを目の前で見ながら、いちばん気になることは言えなかった。
木曜は航の帰りが遅かった。亜希は一人で夕飯を食べ、洗面所へ行った。赤い歯ブラシを手に取れば、何か分かるかもしれないと思った。
だが、それをする前に、持ち主に聞けばいいのだという考えが浮かんだ。手に取って調べたことを隠すほうが、自分の中で大きな出来事になりそうだった。亜希はコップを見たまま、自分の歯ブラシだけ取った。
航が帰ってくると、亜希は起きていた。眠れなかったのかと聞かれ、明日の仕事が気になってと答えた。仕事も気になっていたので、全くの嘘ではなかった。そのことを自分への言い訳にしていると分かった。
金曜、二人で買いものへ行った。航は日用品の棚で洗剤を比べ、亜希に匂いの好みを聞いた。亜希が無香料を選ぶと、航は今まで使ったことがないと言ったが、そのまま籠へ入れた。
好みを一つ言っても、何も壊れなかった。それなのに、歯ブラシのことは、洗剤を選ぶよりずっと難しかった。
土曜の朝、航は洗面所の扉の前で立ち止まった。亜希がコップを見たあと、彼の顔を見ないようにしたのが分かったらしい。
「その赤いの、気になる?」
亜希はうなずいた。とうとう気づかれてしまった、という気持ちと、もう自分で話を始めなくてよいという安堵が同時に来た。
「排水口、掃除するやつ」
航が持ち上げた柄には、油性ペンで『掃除』と書いてあった。背中側で見えなかった。亜希は文字を見て、ようやく息を吐いた。
「同じコップに入れてたの?」
「引っ越しの片づけで、置く場所がなくて。そのままだった」
航は笑いかけた。亜希も笑おうとしたが、うまくできなかった。一週間、ではなく、水曜からの数日が、笑って済ませるには長すぎた。
「ごめん。嫌だったよね」
航が言った。亜希は首を振った。嫌だったのは、掃除用のものが近くにあることだけではなかった。
「聞いたら、面倒な人だと思われるかと思った」
航は赤い歯ブラシを持ったまま、少し黙った。亜希は彼が呆れていると思いかけたが、次の言葉を待った。
「気になることがあるのは、面倒じゃないよ」
「毎日、何かあったら?」
「毎日、違うことがあるだろうね。俺も初めてだから」
亜希は、自分だけが新しい生活へ入ったように感じていたことに気づいた。航にも、分からない家が始まったのだった。
航は歯ブラシを別の入れ物へ移した。
「俺も、説明すればよかった」
亜希は、その言葉で全部を終わらせるのはもったいないと思った。笑い話に戻れば、次に気になることがあったとき、また同じように黙りそうだった。
「ほかにも、ちょっとある」
言うと、航は赤い歯ブラシを棚へ置いて、洗面台の前を空けた。
亜希は自分の化粧水を置く場所が狭いことを話した。今の棚は航の整髪料や、使っていない旅行用の容器で埋まっている。亜希は自分の分を遠慮して、小さな籠へ詰めていた。
航は隣の棚を開け、容器を出した。まだ使うものと、中身を捨ててよいものを分けると、半分空いた。
「こんなに要らなかった」
彼は驚いたように言った。亜希は笑った。航が自分の場所を取りたがっていたわけではなく、ただ、あるものを置いていたのだ。
その晩、二人は洗面台の収納を一緒に決めた。毎日使うものを手前に、掃除用のものは別の籠へ。亜希が新しい収納箱を買おうと言うと、航は、まず家にあるもので試そうと答えた。
意見が違っても、それは亜希の言葉が面倒だった証拠ではない。二人で高さを測り直し、空の箱を置いてみた。
航からも、気になることが一つ出た。亜希が夕飯を作るとき、いつも彼の分を多く盛るという。残すと悪い気がして食べていたが、平日はそこまで食べられない日もあるらしい。
「男の人は、たくさん食べると思ってた」
亜希が言うと、航は、お腹の減り方はその日による、と笑った。
亜希は自分も、親切のつもりで彼の量を決めていたのだと気づいた。食べる前に聞けばよいだけのことだった。
二人は台所へ移り、夕飯を作った。航が野菜を切る間、亜希は米を量った。今日はどのくらい、と尋ねると、普通でいい、と返ってきた。普通が何杯なのか、二人で茶碗を出して確かめた。
そういう会話は少し可笑しかった。長く付き合った相手なのに、知らないことが幾つもある。知らなかったことが、すぐ不信の理由になるわけではなかった。
食後、亜希は窓を開ける話もした。朝の着替えが終わるまでは寒いと言うと、航は、じゃあ声を掛ける、と答えた。彼のほうは、夜に台所の窓を閉め忘れやすいので確認してほしいと頼んだ。
お願いが一人から出るばかりでなくなると、亜希は初めて同じ部屋に立っている気がした。
翌朝、航の友人から、近くへ来たので寄ってよいかと連絡が来た。航は亜希へ尋ねる前に、たぶん大丈夫、と返しかけた。画面を見ていた亜希は、今日はまだ片づいていないから困る、と言った。
航は少し残念そうな顔をした。昨日たくさん話したばかりなのに、もう嫌がられたかもしれないと亜希は思った。だが彼は、残念なことと、彼女へ腹を立てることを同じにしなかった。友人には外で会おうと返信した。
「聞いてくれて、ありがとう」
亜希が言うと、航は、まだ聞く前だったけど、と笑った。
断ったあと、亜希は気持ちが落ち着くまで少し時間がかかった。言えるようになったらすぐ楽になるわけではない。これまで黙ることで避けてきた相手の表情を、ちゃんと見る必要があった。
昼に、航は友人と会う前に何か食べるか尋ねた。亜希は自分の分も作りたいと答えた。朝の小さな不一致が、その日の全部を悪くするわけではなかった。
日曜の午後、二人は近所を歩いた。買い足すもののリストには、収納箱ではなく、排水口用の小さなブラシが載っていた。
「赤いの、まだ使えるのに」
亜希が言うと、航は毛先が開いているから替えどきだと答えた。亜希は、今回の出来事のために捨てるのではないと分かって、少し安心した。
店では、持ち手の長いものを選んだ。歯ブラシに見えない形だった。二人で見て笑ったが、何でも紛らわしくないものに替えれば解決するわけではないことも、もう分かっていた。
家へ戻り、亜希は自分の箱を一つ開けた。まだしまえずにいた小さな鏡と、古い写真立てを出した。航は置く場所を聞いた。亜希は玄関がよいと言ったあと、棚が狭くなるかと尋ねた。
航は自分の鍵の皿を少し動かした。どちらかが全部譲るのではなく、二つのものが載る位置を探した。
寝る前、亜希は新しいブラシを見て少し笑った。二人で暮らす部屋には、分からないものがある。分からないまま、怖がらなくてもよいことを、その週末にようやく覚えた。
航は新しいブラシの置き場所を指して、ここでいいかと聞いた。亜希は頷いた。答えの決まっている質問でも、自分へ向けられると、この家にいる実感があった。
鏡の中の自分は、初日のようによそ行きの顔をしていなかった。亜希はコップから自分の歯ブラシを取り、明日の朝、窓を開ける前に声を掛けてねと、隣にいる航へもう一度頼んだ。