雨戸の戸車を替えるため、宗一は朝から縁側に座っていた。五十六歳の背中は、古い綿シャツの下で思いのほか丸い。佳代は冷たい麦茶を置き、部品の並んだ新聞紙の端を石で押さえた。
「右のは、まだ使える」
「二つとも替えて。次まで待つと、また忘れるから」
「きょうは強気だな」
佳代は四十九歳だった。夫が亡くなって七年、夫の兄である宗一と、季節の修繕を口実に会い始めて二年になる。彼は車で一時間の町に暮らし、平日は自動車整備工場で働いていた。一度も結婚したことがない。
二人でいるとき、亡くなった夫の話を避けてはいなかった。宗一は弟の洗濯物の畳み方を笑い、佳代は夫が隠れて煙草を吸っていた場所を教えた。しかし宗一が泊まる夜には、仏間の襖を閉めた。それぞれのためなのか、誰かに見られている気がするためなのか、二人とも訊かなかった。
戸車を取りつける手を休め、宗一が佳代の指を取った。爪の脇に、朝切った茄子の色が残っていた。
「夕飯、何」
「まだ朝よ」
「帰る時間を決めたいから」
「決めなくていい日でしょう」
そのまま肩が触れたとき、門で車の音がした。
娘の美緒だった。二十九歳になり、東京で家賃保証会社に勤めている。来週帰ると聞いていたが、休みを替えられたという。
「伯父さん、いたんだ」
宗一はすぐに立ち、手の油をズボンで拭いた。
「雨戸が悪くてな」
美緒は開いた戸袋と、台所の二人分の茶碗を見た。佳代には、その順番がはっきり見えた。
昼は三人で素麺を食べた。美緒は勤め先の引っ越しの話をし、宗一は相槌を打った。彼は長居をすると言っていなかった人のように、何度も時計を見た。
「伯父さん、庭の柿、今年も採りに来る?」
「脚立があればな」
「私、あの脚立、怖かった。小さいころ乗せられて」
「乗りたがったのはお前だろ」
佳代は二人の会話を聞いていた。そこには自分と宗一が触れてはいけないような、長い家族の時間があった。けれど、その時間の外でしか誰かを好きになれないなら、自分にはどれほどの場所が残るのだろう。
食後、宗一は部品の袋を車へ積んだ。佳代が見送りに出ると、小声で言った。
「今日は帰る」
「うん」
車が角を曲がってから、佳代は玄関へ戻った。美緒が食卓の椅子に座っていた。
「伯父さんと、何かあるの」
佳代は手を拭く布巾を置いた。
「一緒にいたいと思ってる」
「そういう言い方、やめて。付き合ってるってこと?」
「そう」
美緒は食器棚を見た。父の使っていた湯呑みは、今も上の段にある。
「お父さんの家で?」
佳代は、ここは自分の家でもあると言いかけた。言えば娘の足元をさらに崩す気がして、口を閉じた。
「いつから」
二年、と答えると、美緒は笑った。声のない、口の形だけの笑いだった。
「あの法事のときも?」
「うん」
「私だけ、何も知らなかったんだ」
美緒はその夜、駅前のホテルへ行った。引き留めても首を振り、責める言葉はもう言わなかった。佳代は彼女の残した箸を洗い、いつもの場所へ戻した。片づいた台所が、何かをなかったことにする作業に見えた。
宗一に電話すると、長い沈黙のあと、彼は言った。
「俺から話す」
「何を?」
「弟に悪いことをしたわけじゃないって」
佳代は目を閉じた。
「美緒がいま困ってるのは、たぶん、弟さんのことだけじゃない」
彼は返事をしなかった。佳代自身にも、娘の傷を正確に言うことはできなかった。
九月、佳代は駅近くの賃貸住宅を見た。二階の角部屋、和室はなく、窓の下に小さなパン屋がある。美緒が生まれる前、夫と二人で住んだ部屋と同じ広さだった。
娘に追い出されたわけではない。夫の家を売るつもりもなかった。屋根の補修や庭の剪定を考えるたび、佳代は自分の暮らしを維持するために、誰かの善意を待っていた。それを、宗一と暮らす理由にしてしまいそうだった。
不動産屋を出たあと、宗一に会った。国道沿いの喫茶店には、整備工場から彼がいつも持ち帰る油の匂いがなかった。
「部屋を借りる」
「こっちへ来る話じゃなかったのか」
一度だけ、彼の家の空き部屋を見たことがあった。二人で住むと明言したわけではない。それでも互いに、いずれは、と言葉を濁していた。
「まず一人で住む。あなたが戸車を替えに来なくてもいいところで」
宗一はコーヒーを混ぜた。砂糖を入れていないのに。
「俺は修理のためだけに行ってたんじゃない」
「わかってる。私も、頼める人が欲しかったわけじゃない。でも家にいると、その区別をしなくて済んだ」
宗一はしばらく黙り、窓の外の車を目で追った。
「俺はあの家に行くと、弟がいたころに戻れるんだ。お前に会いたいのと、両方あった」
佳代はカップを持ち上げた。自分の好きな人が、自分とは別の理由でもあの場所を必要としていた。そのことを、今まで考えずに済ませていた。
引っ越しの日、宗一は来なかった。佳代が頼まなかったからだった。代わりに仕事先の弁当店の同僚が車を出してくれ、二人でカーテンを吊った。夕方、窓を開けると、下の店からバターの匂いがした。
美緒へ住所を送った。返事は一週間なかった。
宗一は週に一度電話をくれた。以前なら泊まりに来てと言えた金曜に、佳代は一人で銭湯へ行った。関係を隠す必要がなくなったからといって、会うことが簡単になったわけではなかった。新しい部屋で、二人はまだ客のようだった。
十月の終わり、美緒から連絡が来た。父の冬物を一緒に整理したいという。佳代は日曜日なら空いていると答えた。宗一の名前は出さなかった。
家の押し入れには、夫の釣り用の上着が残っていた。美緒はポケットを探り、硬くなった飴を一つ出した。
「何年前のだろ」
「食べちゃだめよ」
「わかってる」
二人は初めて少し笑った。服は寄付するものと処分するものに分けた。美緒は紺のマフラーだけ持ち帰ると言った。佳代は、好きにしなさいと答えた。
午後、娘が訊いた。
「伯父さんと、結婚するの」
「今は考えてない。そうしたくなったら、先に話す」
「先に話せば、私が平気だってことじゃないよ」
「うん」
佳代は夫のシャツを畳んだ。娘にわかってほしい気持ちと、わからないままでいてもここに座っていてほしい気持ちが、同じ重さであった。
「私が嫌だって言ったら、別れる?」
佳代の手が止まった。答えを選ぶために、長く息を吐いた。
「別れるって約束はできない。でも、あなたと伯父さんを急に同じ食卓につかせたりはしない」
美緒はうつむいた。
「お父さんの話を、しなくなるのが怖い」
「しなくならない。あなたが聞きたくなったら、する」
その日は仲直りという形にはならなかった。駅まで送った車の中でも、美緒はほとんど黙っていた。ただ降りるとき、新しい部屋の台所の広さを訊いた。今度、鍋を送るという。
十一月、佳代は宗一を夕食へ招いた。彼は玄関で靴を揃え、見慣れない狭さに困ったように笑った。
「何か直すところは」
「ない。今日は食べて」
食卓には肉豆腐と春菊のおひたしを並べた。夫の好物でも、宗一がいつも頼むものでもない。佳代がその日食べたかったものだった。
食後、宗一は皿を洗い、佳代は隣で拭いた。二人で立つには狭すぎて、肘が何度もぶつかった。
「狭いな」
「慣れるかもしれない」
「慣れなかったら?」
「交代でやればいい」
宗一は水を止め、濡れていないほうの手で佳代の肩を抱いた。佳代は彼の胸に額を預けた。閉める襖はない。窓の外から、パン屋のシャッターを下ろす音が聞こえた。
春になれば庭の家をどうするか決めなければならない。美緒とも、宗一とも、まだ何度も困るだろう。今夜はその前に、冷めないうちに茶を飲める。佳代は彼の手をほどかず、やかんへ静かに火をつけた。