夜の余白YORU NO YOHAKU
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長めの短編 109 / 秘密の恋 / 約8分

雨戸の内側

亡夫の兄が直す雨戸。その音を、娘の帰省が初めて別の響きに変えた。

*

雨戸の戸車を替えるため、宗一は朝から縁側に座っていた。五十六歳の背中は、古い綿シャツの下で思いのほか丸い。佳代は冷たい麦茶を置き、部品の並んだ新聞紙の端を石で押さえた。

「右のは、まだ使える」

「二つとも替えて。次まで待つと、また忘れるから」

「きょうは強気だな」

佳代は四十九歳だった。夫が亡くなって七年、夫の兄である宗一と、季節の修繕を口実に会い始めて二年になる。彼は車で一時間の町に暮らし、平日は自動車整備工場で働いていた。一度も結婚したことがない。

二人でいるとき、亡くなった夫の話を避けてはいなかった。宗一は弟の洗濯物の畳み方を笑い、佳代は夫が隠れて煙草を吸っていた場所を教えた。しかし宗一が泊まる夜には、仏間の襖を閉めた。それぞれのためなのか、誰かに見られている気がするためなのか、二人とも訊かなかった。

戸車を取りつける手を休め、宗一が佳代の指を取った。爪の脇に、朝切った茄子の色が残っていた。

「夕飯、何」

「まだ朝よ」

「帰る時間を決めたいから」

「決めなくていい日でしょう」

そのまま肩が触れたとき、門で車の音がした。

娘の美緒だった。二十九歳になり、東京で家賃保証会社に勤めている。来週帰ると聞いていたが、休みを替えられたという。

「伯父さん、いたんだ」

宗一はすぐに立ち、手の油をズボンで拭いた。

「雨戸が悪くてな」

美緒は開いた戸袋と、台所の二人分の茶碗を見た。佳代には、その順番がはっきり見えた。

昼は三人で素麺を食べた。美緒は勤め先の引っ越しの話をし、宗一は相槌を打った。彼は長居をすると言っていなかった人のように、何度も時計を見た。

「伯父さん、庭の柿、今年も採りに来る?」

「脚立があればな」

「私、あの脚立、怖かった。小さいころ乗せられて」

「乗りたがったのはお前だろ」

佳代は二人の会話を聞いていた。そこには自分と宗一が触れてはいけないような、長い家族の時間があった。けれど、その時間の外でしか誰かを好きになれないなら、自分にはどれほどの場所が残るのだろう。

食後、宗一は部品の袋を車へ積んだ。佳代が見送りに出ると、小声で言った。

「今日は帰る」

「うん」

車が角を曲がってから、佳代は玄関へ戻った。美緒が食卓の椅子に座っていた。

「伯父さんと、何かあるの」

佳代は手を拭く布巾を置いた。

「一緒にいたいと思ってる」

「そういう言い方、やめて。付き合ってるってこと?」

「そう」

美緒は食器棚を見た。父の使っていた湯呑みは、今も上の段にある。

「お父さんの家で?」

佳代は、ここは自分の家でもあると言いかけた。言えば娘の足元をさらに崩す気がして、口を閉じた。

「いつから」

二年、と答えると、美緒は笑った。声のない、口の形だけの笑いだった。

「あの法事のときも?」

「うん」

「私だけ、何も知らなかったんだ」

美緒はその夜、駅前のホテルへ行った。引き留めても首を振り、責める言葉はもう言わなかった。佳代は彼女の残した箸を洗い、いつもの場所へ戻した。片づいた台所が、何かをなかったことにする作業に見えた。

宗一に電話すると、長い沈黙のあと、彼は言った。

「俺から話す」

「何を?」

「弟に悪いことをしたわけじゃないって」

佳代は目を閉じた。

「美緒がいま困ってるのは、たぶん、弟さんのことだけじゃない」

彼は返事をしなかった。佳代自身にも、娘の傷を正確に言うことはできなかった。

九月、佳代は駅近くの賃貸住宅を見た。二階の角部屋、和室はなく、窓の下に小さなパン屋がある。美緒が生まれる前、夫と二人で住んだ部屋と同じ広さだった。

娘に追い出されたわけではない。夫の家を売るつもりもなかった。屋根の補修や庭の剪定を考えるたび、佳代は自分の暮らしを維持するために、誰かの善意を待っていた。それを、宗一と暮らす理由にしてしまいそうだった。

不動産屋を出たあと、宗一に会った。国道沿いの喫茶店には、整備工場から彼がいつも持ち帰る油の匂いがなかった。

「部屋を借りる」

「こっちへ来る話じゃなかったのか」

一度だけ、彼の家の空き部屋を見たことがあった。二人で住むと明言したわけではない。それでも互いに、いずれは、と言葉を濁していた。

「まず一人で住む。あなたが戸車を替えに来なくてもいいところで」

宗一はコーヒーを混ぜた。砂糖を入れていないのに。

「俺は修理のためだけに行ってたんじゃない」

「わかってる。私も、頼める人が欲しかったわけじゃない。でも家にいると、その区別をしなくて済んだ」

宗一はしばらく黙り、窓の外の車を目で追った。

「俺はあの家に行くと、弟がいたころに戻れるんだ。お前に会いたいのと、両方あった」

佳代はカップを持ち上げた。自分の好きな人が、自分とは別の理由でもあの場所を必要としていた。そのことを、今まで考えずに済ませていた。

引っ越しの日、宗一は来なかった。佳代が頼まなかったからだった。代わりに仕事先の弁当店の同僚が車を出してくれ、二人でカーテンを吊った。夕方、窓を開けると、下の店からバターの匂いがした。

美緒へ住所を送った。返事は一週間なかった。

宗一は週に一度電話をくれた。以前なら泊まりに来てと言えた金曜に、佳代は一人で銭湯へ行った。関係を隠す必要がなくなったからといって、会うことが簡単になったわけではなかった。新しい部屋で、二人はまだ客のようだった。

十月の終わり、美緒から連絡が来た。父の冬物を一緒に整理したいという。佳代は日曜日なら空いていると答えた。宗一の名前は出さなかった。

家の押し入れには、夫の釣り用の上着が残っていた。美緒はポケットを探り、硬くなった飴を一つ出した。

「何年前のだろ」

「食べちゃだめよ」

「わかってる」

二人は初めて少し笑った。服は寄付するものと処分するものに分けた。美緒は紺のマフラーだけ持ち帰ると言った。佳代は、好きにしなさいと答えた。

午後、娘が訊いた。

「伯父さんと、結婚するの」

「今は考えてない。そうしたくなったら、先に話す」

「先に話せば、私が平気だってことじゃないよ」

「うん」

佳代は夫のシャツを畳んだ。娘にわかってほしい気持ちと、わからないままでいてもここに座っていてほしい気持ちが、同じ重さであった。

「私が嫌だって言ったら、別れる?」

佳代の手が止まった。答えを選ぶために、長く息を吐いた。

「別れるって約束はできない。でも、あなたと伯父さんを急に同じ食卓につかせたりはしない」

美緒はうつむいた。

「お父さんの話を、しなくなるのが怖い」

「しなくならない。あなたが聞きたくなったら、する」

その日は仲直りという形にはならなかった。駅まで送った車の中でも、美緒はほとんど黙っていた。ただ降りるとき、新しい部屋の台所の広さを訊いた。今度、鍋を送るという。

十一月、佳代は宗一を夕食へ招いた。彼は玄関で靴を揃え、見慣れない狭さに困ったように笑った。

「何か直すところは」

「ない。今日は食べて」

食卓には肉豆腐と春菊のおひたしを並べた。夫の好物でも、宗一がいつも頼むものでもない。佳代がその日食べたかったものだった。

食後、宗一は皿を洗い、佳代は隣で拭いた。二人で立つには狭すぎて、肘が何度もぶつかった。

「狭いな」

「慣れるかもしれない」

「慣れなかったら?」

「交代でやればいい」

宗一は水を止め、濡れていないほうの手で佳代の肩を抱いた。佳代は彼の胸に額を預けた。閉める襖はない。窓の外から、パン屋のシャッターを下ろす音が聞こえた。

春になれば庭の家をどうするか決めなければならない。美緒とも、宗一とも、まだ何度も困るだろう。今夜はその前に、冷めないうちに茶を飲める。佳代は彼の手をほどかず、やかんへ静かに火をつけた。

了Thank you for reading.

もう少し、夜のつづきを。

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ABOUT THIS LIBRARY

恋の、その先の余白。

「夜の余白」は、成人同士の恋愛と日々の心の動きを描く、オリジナル短編の書庫です。再会、秘密、別れ、そして新しい一歩。眠る前のひとときに、ひとつの物語を。

全130篇を無料でお読みいただけます。約10分で楽しめる短編を中心に、さまざまな恋の物語を集めました。作品はAIを用いて制作しています。露骨な性描写は含みません。

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運営名:夜の余白
初版:2026年10月21日
更新:2026年10月23日
収録:恋愛短編130篇(うち読了目安10分以上100篇)