立退きの相談、と書かれた封筒は、詩集の注文書と同じ日に届いた。紗季は先に詩集の箱を開け、角の折れた一冊を脇へよけた。お客に渡せない本は自分で読む。四十四歳の店主としては甘いと、何度も税理士に言われていた。
封筒の差出人は、建物の所有者である小野寺尚人だった。五十二歳。昨夜も紗季の台所で、焦げたトーストを半分食べた人だった。
通りの商店は、二人を昔なじみとしか知らない。尚人が店の二階で育ち、両親の死後、妹とともに建物を相続したことは皆が知っている。紗季と付き合い始めたのは五年前、彼が離婚し、父から継いだ設計事務所を畳んだあとだった。
家主と店子という関係に、商店街はすぐ余計な勘定を持ち込む。紗季は家賃を一度も遅らせなかったし、尚人は本を一冊買うにも定価を払った。二人ともそれで何かを防げると思っていた。
紗季は封筒を持って、二階の空き部屋へ上がった。尚人は古い机で図面を広げていた。
「これ、あなたが出したの」
「妹と相談して、管理会社に頼んだ」
「管理会社より先に言えなかった?」
尚人は椅子から立った。
「直接言うと、君だけに条件を変えてしまう気がした」
書面には、売却を前提に建物を明け渡してほしいこと、詳しい条件は相談したいことが書かれていた。紗季は紙を机に置いた。泣くより先に、何箱の本をどこへ動かすか考え始めていた。それが店を続けてきた十二年の、彼女の癖だった。
売却代金は尚人だけのものではなかった。妹は夫を亡くし、郊外の家の支払いを抱えていた。建物は古く、雨漏りの補修を何度しても、次の梅雨には別の場所から水が入った。残す案もあったのだと尚人は言った。何社にも見積もりを頼んだという。
「どうして私には言わなかったの」
「残せるうちは、心配させたくなかった」
紗季はその言葉を聞いたとき、いちばん腹が立った。二人の夕食が穏やかだった何十日ものあいだ、彼は一人でこの店の終わりを測っていた。
尚人は新しい建物の一角を借りられないか、買い手に打診していた。駅前の再開発で、飲食店と小さな店舗が入るという。彼が見せた図には、明るいガラス窓と本棚の模型があった。
「家賃は今の倍近い。でも差額なら、しばらく俺が」
「それは嫌」
紗季の声は自分が思ったより強かった。
「ここにいたいというお願いと、あなたといたいというお願いが、同じになってしまう」
「助けられることまで、断らなくてもいいだろう」
「私が断れる店にしたいの」
尚人は図をしまった。それから互いに何も言えなくなった。帰り際、彼はいつものように流しの皿を洗おうとして、やめた。
翌週、紗季は店の閉鎖を告知した。店のことだけを書き、次の予定は未定とした。客から保存運動をしようという声が届いた。商店会の会長は尚人を悪く言い、署名を集めれば気が変わるかもしれないと言った。
紗季は礼を言って断った。
「建物を持ってる人にも、暮らしがありますから」
それを言うには、まだ痛みがあった。彼をかばいたいのと、自分の店を誰かの敵意で守りたくないのと、両方だった。
その夜、尚人から電話が来た。紗季は出なかった。メッセージには、署名を止めてくれてありがとう、とあった。彼は彼女が引き受けた悲しみより、まず自分が責められなかったことに安心したのかもしれなかった。そう思う自分の狭さにも、紗季は疲れていた。
閉店まであと一か月というとき、常連の石渡が物件の広告を持ってきた。六十代の元小学校教師で、詩集だけを月に一冊買う人だった。
「ここ、私の友達が喫茶店をやってた。広さは半分だけど」
駅から歩いて十五分、運河沿いの平屋だった。トイレへ行くにはいったん土間へ出なければならず、看板も出しにくい。紗季は断るつもりで見に行った。
鍵を開けると、古い珈琲の匂いがした。大きな窓の向こうに、葦の穂が揺れていた。棚を置く壁を数え、収まる冊数を計算した。現在の三分の一だった。
管理する女は、前の店が使っていた椅子は処分していいと言った。
「ただ、雨の日はここが暗いのよ」
紗季は窓辺に立った。暗い場所で読める本があると思った。大きな店なら置けなかった長い詩や、一冊売れるまで一年かかる小さな出版社の本。それらを選ぶ時間なら、まだ手元に残っていた。
帰りの電車で、収支表を作った。雇っていた土曜の店員には継続を頼めない。営業時間も短くしなければならない。好きなことを続けるために、人に仕事を失わせるのがつらかった。
紗季は店員の優奈に話した。三十二歳の彼女は、少し黙ってから言った。
「実は学校に戻るか、迷ってました。編集を勉強したくて」
紗季は自分の都合のよさを感じて、簡単に喜べなかった。優奈の失う給与が減るわけではない。閉店までの手当をできるだけ上乗せし、互いに相談しながら曜日を変えた。
夜、尚人が店へ来た。彼女が運河沿いを借りると知り、設備の図面を描こうかと申し出た。
「仕事として頼んでもいい?」
紗季が訊くと、尚人は顔を上げた。
「もちろん」
「見積もり、出して。ほかの人にも頼むから」
彼は笑いかけたが、途中で止めた。二人の間にはまだ、そういうことを気軽に言える時間が戻っていなかった。
結局、棚の造作は近所の大工に頼んだ。尚人の図面は綺麗だったが、予算に合わなかった。紗季は彼に断りの電話をした。彼はわかったと答え、それ以上何も勧めなかった。その返事で、紗季は初めて少し息をつけた。
最後の営業日、店の奥にあった時計が止まった。電池を替えれば動くのに、紗季はそのままにした。客は閉店時間を過ぎても本を選び、優奈は紙袋の底を一つずつ補強していた。
尚人は八時に来た。商店会の人がまだ残っていて、彼を見ると急に声を低くした。尚人は入口で頭を下げたが、挨拶は返らなかった。
紗季はレジを離れ、彼の前へ行った。
「この本、預かってた」
修理に出していた彼の父の建築画集だった。角の裂けた布表紙を、製本所が丁寧に直していた。尚人は本を開き、しばらく頁をめくらなかった。
二人が付き合っているとは、その場で言わなかった。誰かを納得させるために初めて明かすことはしたくなかった。ただ、尚人を客として入口に立たせたままにもしたくなかった。
「お茶、飲んでいって」
客が帰ってから、二人は棚の前で紙コップの茶を飲んだ。棚に本がなくなると、壁の傷がよく見えた。
「俺たちのことも、終わるのかな」
尚人が言った。
「今は、一緒にいると店のことを考える。あなたと会いたいのか、元の暮らしに戻りたいのか、わからなくなる」
「時間を置けば」
「その約束で待たせたくない」
彼は茶を飲み、空のコップを握った。紙が小さく鳴った。
「好きでなくなったわけじゃないんだな」
「うん。だから難しい」
紗季は彼の横に座った。最後になるかもしれない口づけを、急がずに交わした。彼の手はいつもと同じ温度だった。そのことが悲しく、救いでもあった。
半年後、運河の店には、古い店から持ってきた時計が掛かっていた。電池を替え、五分遅れる癖を毎朝直す。優奈は学校帰りに月に一度、店の小さな通信を作ってくれた。
開店祝いに尚人が送ったのは、花ではなく一冊の注文票だった。取り寄せに二か月かかる外国の画集。紗季は前金を受け取り、普通の客と同じ帳面へ名前を書いた。
届いた画集を渡す日、彼は少し痩せていた。妹が新しい家へ移ったこと、自分も港のほうへ越したことを話した。紗季は店の窓を開け、風を入れた。
「いい場所だね」
「そうなの」
その返事は、彼を慰めるためではなかった。尚人もそれがわかったようにうなずいた。二人は店先で別れた。紗季は戻って棚を整え、彼は本を胸に抱えて橋へ向かった。かつて一緒に選ぼうとした先を、今は別々に選んでいた。