夜の余白YORU NO YOHAKU
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長めの短編 108 / 秘密の恋 / 約8分

青を焼く窯

名を伏せて作った器を、彼は表に出したいと言った。窯の火が二人を試す。

*

窯の温度計が千二百度を指したころ、亮介は父の電話に出た。三十八歳の誕生日を祝う声はいつもと同じで、最後にはいつもと同じ質問があった。

「今年こそ、連れてくる人はいないのか」

窯場の奥で、透が薪を積み直していた。四十三歳の彼は、火の前では少し首を傾ける癖がある。亮介はその横顔を見ながら、いないよ、と答えた。

電話を切ると、薪の崩れる音がした。

「温度、もう少し上げる?」

透はそれだけ訊いた。亮介はうなずき、厚い手袋をはめた。

山あいの工房まで、市立図書館から車で四十分かかる。亮介は郷土資料の担当で、廃業した窯元の帳面を引き取りに来たのが透との出会いだった。土の配合が記された紙の裏に、無数の青い線が走っていた。先代の試験記録と思ったが、透が中学生のときに描いた海だった。

「海、行ったことがなくて」

そう言った彼と、半年後に冬の海を見に行った。二人の影が砂浜で重なったとき、亮介が手を伸ばした。今では工房の食器棚に亮介の湯呑みがあり、図書館の駐車場で待ち合わせる日は、彼が先に帰るふりをする。

町で二人の関係を知る人はいない。透は十八年前に離婚し、一人暮らしに慣れていた。亮介も一人で生活している。隠すべき約束を破っているわけではない。それでも、父の顔と職場の休憩室を思い浮かべると、言葉は喉で止まった。

火入れは夜を越える。午前三時、透が握り飯を二つ持ってきた。亮介は新聞紙に包んだそれを受け取り、煤のついた彼の手首に唇を寄せた。

「疲れた?」

「まだ平気」

亮介は答えた。何について訊かれたのか、少しだけわからなかった。

新作展の企画書には、亮介が考えた題名が載っていた。「届かなかった海」。彼が図書館で調べた、山の集落から海へ出稼ぎに行った人々の手紙をもとに、透が器を作った。外側は山の土色、内側だけが深い青だった。

透の作品が県立美術館の小展示室に並ぶのは初めてだった。担当学芸員の須田は三十四歳で、打ち合わせには毎回、釉薬の見本を一つずつ丁寧に包み直して帰った。

「調査協力の方の名前も、図録に入れたいんです」

亮介は席の下で指を組んだ。

「仕事の範囲で調べただけですから、図書館名で」

「私的に集めた資料もあると、先生から聞いています」

透は黙っていた。亮介は彼の視線を感じ、急に椅子の高さが合わなくなったような気がした。

帰りの車で、透は窓の外を向いた。

「名前が出るだけで、俺たちのことまでわからないよ」

「父は図録を買う。僕が関わったと知れば、工房に来るかもしれない」

「来れば、茶くらい出す」

「そういう簡単な話じゃない」

言ってから、簡単に扱ったのは自分のほうだと思った。透が車を路肩へ寄せた。遠くで草刈り機の音がしていた。

「じゃあ何て言えばいい。俺はあなたに、ここで作った時間を消してほしくないんだ」

「消してない」

「人に見せる場所からは、消してる」

亮介は反論できなかった。透の皿を買ってくれる人には、青の理由を説明してほしいと望んだ。その青を一緒に探した自分の名前だけは、伏せておきたかった。

車は亮介のマンションまで行った。別れ際の口づけはなかった。

翌日から、展示の連絡は須田を通じて来るようになった。透は礼儀正しく必要な返事をしたが、工房へ来てほしいとは言わなかった。亮介も行かなかった。大人だから時間を置けるのだと、自分に言い聞かせながら、土曜の夜に炊きすぎた米を冷凍した。

十月、亮介は父の家の雨樋を直しに行った。母が亡くなって八年、父は退職後の暮らしを近所の手伝いで埋めていた。工具箱には、亮介が小学生のころ貼った恐竜のシールが残っていた。

昼は父の作ったうどんを食べた。亮介は箸を持ったまま、向かいの椅子の座面を見た。

「僕、付き合ってる人がいる」

父は顔を上げた。

「そうか。何をしてる人だ」

「陶芸家。男の人」

換気扇の音が大きくなったわけでも、時計が止まったわけでもなかった。父は箸を置き、つゆを一口飲んだ。

「それは、お前の勘違いじゃなくてか」

亮介は胸の中で用意していた説明が、全部ほどけるのを感じた。

「勘違いじゃない。二年付き合ってる」

「二年も」

父はそこを繰り返した。怒りより、置いていかれた人の顔をしていた。

その日はそれ以上話せなかった。亮介が雨樋の残りを直すあいだ、父は庭の柿を拾っていた。帰るとき、いつもの漬物は渡されなかった。車に乗ってから、亮介はハンドルに額をつけた。

工房へは向かわず、須田に連絡をした。個人名の掲載を頼み、自分の調査ノートを貸した。須田は締切を一日延ばせると言ってくれた。

それから透へ、短い手紙を書いた。父に話したことを成果のようには書かなかった。返事がなかったことも、二人のためにしたのだから理解してほしいとは書かなかった。

名前を載せたい。僕もあの青を探したから。

それだけ書いたあと、工房で使う軍手が洗濯機の裏に落ちていたことを付け足した。捨てずに置いてある、と。

三日後、透から電話が来た。

「新しい窯、見る?」

亮介はすぐに返事ができず、冷蔵庫の扉を閉めた。

「いつなら」

「いまからでも。火は明日の朝まで入ってる」

工房で、透は火を見ていた。亮介は横に座り、温度表へ数字を書き込んだ。謝りたいことも、言ってほしいこともあった。でも先に、窯の空気の吸い方を変える必要があった。二人は煙の色を見て、同時に立った。

夜明け前、透が話した。

「俺、展示が怖かった。作品だけじゃ足りない気がして、あなたの名前まで欲しくなった」

「僕は名前だけでも、全部見られる気がした」

二人は火の前に並んだ。どちらの怖さも、もう片方を黙らせる理由にはしたくなかった。亮介は軍手を返し、透はそれを受け取って、彼の冷えた頬に素手で触れた。

展示初日、父は来なかった。亮介は入口を見るたびに少し姿勢を正し、その自分に疲れて、途中から器を見ることにした。

いちばん小さな鉢の内側に、細い白い筋があった。窯の中で釉薬が流れ、思いがけず残った線だという。亮介には、冬の浜で沖へ続いていた泡の跡に見えた。

須田が図録を差し出した。奥付に自分の名前があった。隣に勤務先も、役職もついていない。自分が調べ、透が焼いた。その出来事の大きさにちょうど合う活字だった。

会場を出ると、透の元妻がいた。近くでパン屋を営んでいると聞いていたが、会うのは初めてだった。

「透から、何度かお名前は」

彼女は穏やかに言い、紙袋を渡した。

「食事を忘れると機嫌が悪くなるから、お二人で」

亮介は笑いながら礼を言った。透にも、彼の知らない失敗と別れの時間があり、それを知る人がここへ足を運んでいた。すべての過去を追い出さなくても、新しい場所は作れるのだと思った。

会期の終わり近く、父から葉書が来た。展示を見たとは書いていなかった。図録の表紙と同じ青の、風景印が押してあった。

「雨樋はもう大丈夫だ。あの小さい鉢は、売り物なのか」

亮介は電話をかけた。父は器の寸法を訊き、値段を聞いて少し黙った。最後に、今度はその人も、と言いかけ、言葉を止めた。

「急がなくていいよ」

亮介は言った。父のためだけではなく、自分のためにも。

その夜、工房の食卓にパンを並べた。透が皿を二枚、いつもの距離に置く。亮介は自分の椅子を少し動かした。膝が触れるところへ。

「次、海へ行こうか」

「冬?」

「今度は夏でもいい」

透が笑った。窓の外では窯の煙が暗い山へ溶けていた。二人の名前が誰かの口でどう結ばれるか、まだわからない。けれど次の青を探す道には、別々の車で行かなくてもよかった。

了Thank you for reading.

もう少し、夜のつづきを。

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ABOUT THIS LIBRARY

恋の、その先の余白。

「夜の余白」は、成人同士の恋愛と日々の心の動きを描く、オリジナル短編の書庫です。再会、秘密、別れ、そして新しい一歩。眠る前のひとときに、ひとつの物語を。

全130篇を無料でお読みいただけます。約10分で楽しめる短編を中心に、さまざまな恋の物語を集めました。作品はAIを用いて制作しています。露骨な性描写は含みません。

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運営名:夜の余白
初版:2026年10月21日
更新:2026年10月23日
収録:恋愛短編130篇(うち読了目安10分以上100篇)