夜の余白YORU NO YOHAKU
← 作品一覧へ

長めの短編 107 / 秘密の恋 / 約8分

潮待ちの部屋

港の宿でだけ会う二人。ひとつの荷物が、守ってきた沈黙を変えてゆく。

*

七月の港には、干した網と軽油の匂いがした。真帆は坂の途中で息を整え、紙袋の底を抱え直した。四十二歳になってから、桃を買うときは必ず二つにした。自宅に持ち帰るのは一つ。もう一つは、この町で食べる。

旅館の裏口で、圭吾が新聞紙を広げていた。四十六歳の彼の手には、古い塗料が爪の縁に残っている。元は東京の舞台美術家で、今は父の旅館を一人で切り盛りしていた。

「きょう、船は」

「夕方までは出る。それより、階段の三段目、踏まないで」

板を外した階段をまたぎ、真帆は二階の突き当たりへ上がった。窓に向かって机を置いた六畳間。客には出していない部屋だった。窓の下に曳船が見え、冷蔵庫には前に彼女が置いていった麦茶があった。

二人がここで会うようになって一年半になる。真帆は隣県の文化財修復所に勤め、月に一度、この島の寺へ帳簿の修復に来た。圭吾の父が生きていたころは、客として泊まっていた。父の葬儀のあと、食べる人のいない煮魚を前にした彼と夕食をともにし、そのまま、帰りの船を一本見送った。

真帆には夫がいた。三年前から別居している。夫の母の介護をどちらが担うかという話から、昔の小さな諦めまでが一度にこぼれ、同じ食卓に戻れなくなった。離婚届は夫の机に置いたままだった。書類を急がないことで、まだ誰も捨てていないつもりになれた。

「荷物、届いてたよ」

圭吾が窓際の段ボールを顎で示した。真帆の冬のコートと、本が数冊。妹が実家の片づけで送ってくれたものだった。

送り先を自宅ではなくここにしたことを、真帆は言っていなかった。

「一時的に置かせて。妹のところ、狭いから」

「いいよ」

あまりに早い返事に、真帆は謝る言葉を失った。彼は箱の底に新聞紙を敷き、湿気の少ない棚へ移した。それは大切な客の荷物を預かる手つきでも、住む人の場所を作る手つきでもあった。

翌朝、欠航を知らせる放送が六時に流れた。台風はまだ遠いが、沖のうねりが高いという。真帆は修復所へ連絡し、圭吾は予約客へ電話した。受話器の向こうで誰かに叱られ、彼は同じ説明を三度繰り返した。

一階の台所では、朝食のために炊いた米が余っていた。二人で握ったおにぎりを、圭吾は近所の漁具店へ運んだ。真帆もついていくと、店主の女がビニール袋を差し出した。

「助かる。こちらは?」

「寺の仕事で来てる、真帆さん」

圭吾は彼女の顔を見ずに言った。

「先生か。島に若い人が来ると、明るくなるね」

真帆は笑い、袋の持ち手を結び直した。若くも先生でもないと訂正するには、相手の親しさがまぶしかった。

帰り道、灯台の向こうに白波が立っていた。

「仕事で来てるのは本当だね」

真帆が言うと、圭吾は立ち止まった。

「ほかに何て言えばよかった」

責める声ではなかった。だから余計に返事ができなかった。二人は傘を一本ずつ持ち、同じ方向へ歩いた。風が吹けば肩が触れる距離なのに、傘の縁が間にあった。

昼過ぎ、夫の直人から電話が来た。圭吾が一階で雨戸を閉める音がした。

「お母さんの家、売却の査定を頼んだ。あなたの本がまだある」

義母は春に施設へ移っていた。直人の声から、あの家で一人になった人の疲れが聞こえた。

「取りに行く。来週なら」

「それから、あの書類も書く。ずっと待たせた」

真帆は窓の鍵を押さえた。望んでいたはずの言葉が、思いがけない荷物のように重かった。

「私も待たせたよ」

「そうだな」

電話の向こうで、直人が湯を沸かしていた。昔、真帆が仕事から遅く帰ると、いつも聞いた音だった。二人は事務的な日取りを決め、最後に、台風には気をつけてと言い合った。

その夜、桃を切ろうとして、真帆は包丁を止めた。圭吾の分まで勝手に未来を用意していたのではないか。棚の上の箱が見えた。

「これ、明日送る」

「まだ船は出ないよ」

「出たら。自分の家へ」

圭吾は皿を拭く手を止めた。

「ここを住所にするなら、言ってほしかった」

「ごめん」

「荷物を置くのが嫌なんじゃない」

彼は窓を見た。黒いガラスに、二人の姿が遠く映っていた。

「君が帰る日のことまで、俺だけ考えてる気がした」

九月、真帆はいつもの鞄より小さなリュックで島へ来た。離婚は成立した。夫の家から引き取った本は十七冊あり、そのうち三冊を処分した。処分の袋を持つ手の軽さに、帰宅してから泣いた。

圭吾には、船が着く時刻だけを知らせた。迎えは頼まなかった。

旅館の玄関には「臨時休業」の札が掛かっていた。裏庭で、彼が古い椅子の脚を削っていた。真帆を見ると立ち上がったが、抱き寄せはしなかった。

「お疲れさま」

「今日は、泊まっていい?」

「客室なら。二階の部屋は、いま少し」

突き当たりの六畳間には、机が二台並んでいた。一台にミシン、もう一台に修理しかけのランプ。壁には島の子どもたちが描いた劇の衣装の絵が貼ってある。

「冬の公民館公演を手伝うことになった」

「仕事、戻るんだ」

「少しだけ。父が死んでから、宿を守ってればいいと思ってたけど、守るだけだと、全部が父の時間になる」

真帆は机の間を通り、窓を開けた。自分たちのために止まっていた部屋が、彼の生活の中へ戻っていた。さびしいのに、ほっとした。

「荷物の箱、まだある?」

「送らなくていいって言っただろ」

「今日は持って帰るつもりだった」

階下で湯が沸いた。圭吾が席を外したあいだ、真帆は衣装の絵を眺めた。布の余りで何着作れるか、細かな数字が書き込まれている。誰も知らないところで彼はいつも計算し、工夫し、暮らしていた。会えない日の圭吾の時間を、真帆は初めて具体的に見た気がした。

夕食は近くの食堂へ行った。漁具店の女が端の席にいて、大きく手を振った。

「先生、また仕事?」

真帆が口を開く前に、圭吾が答えた。

「今日は、会いに来てくれた」

女は一瞬だけ二人を見比べ、それから自分の皿の魚を勧めた。それで会話は次の話題へ移った。真帆が長いあいだ恐れていた場面は、天気の話と煮つけの間に収まった。

けれど、ただ名づければ全部が変わるわけではなかった。食堂から帰る道で、圭吾は言った。

「俺、ここを離れられない。来年もたぶん」

「私は仕事を辞めない」

潮の音が坂の下から上がってきた。

「じゃあ、次を決めるのは難しいね」

「うん。でも、難しいまま決めていいと思う」

真帆は彼の手を取った。初めて、この坂の街灯の下で。

冬の公演の日、真帆は最終便で島に着いた。上司に休みを願い出るのに二週間かかった。代わりを頼む同僚に、自分の都合を説明する練習を台所で何度もした。

公民館では、子どもたちが銀色の魚になっていた。圭吾は舞台袖で、外れかけた鰭を安全ピンで留めていた。真帆の席は最後列だったが、彼が一度こちらを見たのがわかった。

終演後の片づけを手伝うと、島の人たちは礼を言いながら彼女にも仕事を渡した。長机を拭き、紙コップを重ねる。客として歓迎されるより、濡れた布巾を渡されることがうれしかった。

宿へ戻る途中、圭吾が小さな封筒を出した。二階の部屋の合鍵かと思ったが、中は船の回数券だった。

「期限、半年。使い切れなくてもいい」

真帆は笑って、それから少し泣いた。

「私も、渡すものがある」

リュックから薄い手帳を出した。修復所の予定が黒、島へ来られそうな日が青で記してあった。決まらない月には、空欄を残した。

圭吾はページをめくり、三月の空欄に指を置いた。

「この週なら、俺がそっちへ行ける」

二人は宿の玄関で手帳を挟んで立った。鍵も指輪もない約束だった。けれど、どちらかだけが待つ約束ではなかった。

夜、六畳間の机を一台だけ壁へ寄せた。真帆のコートは箱から出され、圭吾の作業着と同じ釘に掛かった。窓から冷たい潮の匂いが入ってくる。彼がそっと頬に触れ、真帆は自分から口づけた。

明日は帰る。その事実を二人とも知っていた。帰る先を持ったまま、また来ることを選べる。その新しさに、真帆は静かに目を閉じた。

了Thank you for reading.

もう少し、夜のつづきを。

青を焼く窯 →
ABOUT THIS LIBRARY

恋の、その先の余白。

「夜の余白」は、成人同士の恋愛と日々の心の動きを描く、オリジナル短編の書庫です。再会、秘密、別れ、そして新しい一歩。眠る前のひとときに、ひとつの物語を。

全130篇を無料でお読みいただけます。約10分で楽しめる短編を中心に、さまざまな恋の物語を集めました。作品はAIを用いて制作しています。露骨な性描写は含みません。

しおりと読書の設定

しおり・読んだ位置・文字サイズ・テーマは、このブラウザに保存されます。別の端末とは共有されません。ブラウザのデータを消去すると設定も消えます。

読了時間は1分あたり約400字を目安にしています。

運営名:夜の余白
初版:2026年10月21日
更新:2026年10月23日
収録:恋愛短編130篇(うち読了目安10分以上100篇)