採用の通知は、レストランの裏口で読んだ。安積は四十六歳で、これほど手が震えることが自分にまだあるとは思わなかった。北海道の植物園で、種子の保存を担当する仕事。任期は五年、その後は審査による。大阪の大学で一年ごとの契約を結び直してきた彼女には、五年はあまりに長く、同時にひどく短かった。
裏口のドアが開き、光一が空の瓶を運んできた。
「受かった?」
彼女が頷くと、光一は瓶の籠を地面へ置いた。四十九歳の彼は、大声を出す代わりに手を二度叩いた。厨房から若いスタッフが顔を出し、何の拍手ですか、と聞いた。
「いいことがあった」
光一はそう答えた。何かは安積に言わせようとした。その気遣いを、彼女はよく知っていた。彼が喜んでいることも、本当だった。
安積は通知の画面を閉じた。自分の喜びを小さくすれば彼の寂しさが減る、という計算をしそうになり、その癖の古さに気づいた。
二人が付き合い始めたのは三年前だった。二十九歳の頃に同じアルバイト先で働き、一度だけ泊まりがけで海へ行った。安積の進学と光一の修業で離れ、互いに結婚し、別れた。再会した時、彼女はすでに離婚して七年、彼は離婚して五年が経っていた。
二十九歳の頃に始まらなかった暮らしが、今なら始められる気がした。それでも家は別々で、安積は週末に彼の部屋へ泊まり、月曜の朝に大学へ向かった。使い捨ての歯ブラシは二か月目にやめ、白いマグカップは一年目に買った。
北海道へ移るかどうかの返事は、月末までだった。安積は応募する前に光一へ話していた。彼は、受かったら考えればいい、と言った。安積も同じことを思った。受からなければ失わずに済むものを、二人とも見ないでいた。
日曜の閉店後、光一の店で夕飯を食べた。彼は余った魚を焼き、安積は常連客が贈ってくれた花の水を替えた。十一月の厨房はまだ暖かく、客席は冷え始めていた。
「一緒には行けない」
光一は皿を置きながら言った。
「わかってる」
「わかってる、で済ませないほうがいいと思って」
店は開いて十二年目だった。借入金はまだ残り、厨房を任せられるスタッフは独立を考えていた。光一自身、立ち仕事をあと何年続けられるか計算している。それでもこの店を畳み、彼女の暮らしについていくつもりはなかった。
「こっちに残って、と言われるほうが、嫌いになれて楽かもしれない」
安積が言うと、光一は箸を止めた。
「思わないわけじゃないよ」
その返事で、彼女はようやく彼の寂しさの形を見た。理解のある恋人という役を立派に務めるだけでは、彼も持ちこたえられないのだった。
魚の骨を小皿へ移しながら、安積は自分が北海道でやりたい仕事を話した。春にしか採れない種子があること、低温で眠るものの中にも寿命の違いがあること。光一は専門用語の幾つかを聞き返し、最後に、声が違うね、と言った。
「仕事の話をしてる時」
嬉しいのか寂しいのか、彼自身にもわからない声だった。
その晩、安積は彼の部屋に泊まった。ベッドの端で光一の指に触れ、抱き合って眠りたいと伝えた。彼は頷き、彼女の髪に口づけた。言い切れなかった言葉はそのまま、二人の間に置かれていた。
出発を決めてから、準備は感情を待たずに進んだ。引っ越し業者の見積もり、車の輸送、研究室の引き継ぎ。新しい部屋には灯油暖房があり、北海道で育った同僚から、冬の光熱費を甘く見ないようにと言われた。
安積は紙に月の支出を書いた。家賃、保険、学会費、帰省の交通費。月に一度会う案は、消して二か月に一度にした。光一の店が休めるのは月曜で、彼女の休みは土日だった。飛行機が欠航すれば、次の機会は数週間先になる。
「遠距離でも大丈夫」と言う人は多かった。安積はその言葉に頷きながら、白いマグカップをどこへ持っていくか決められずにいた。
ある晩、光一が合鍵を返してほしいと言った。安積は目を上げた。
「いや、部屋を引き払うなら。管理会社に返すやつ」
彼の説明に、彼女はあまりに大きく息を吐いた。光一は苦笑したが、安積は笑えなかった。どこかで、彼は自分を見捨てるはずだと思っている。その疑いを彼へ押しつけたくなくて、安積はすぐには鍵を渡さなかった。
翌日、自分の部屋で鍵を二つ並べた。一つは彼から預かった鍵、もう一つは自分の鍵。どちらも小さな銀色だった。好きだから一緒にいることと、離れたら罰を受けるはずだと怯えることが、いつからこんなに近くなっていたのだろう。
安積は自分の鍵を返してもらい、彼の鍵はどうするか聞いた。
「持っててくれたら嬉しい。でも、約束の代わりにはしないで」
光一は少し考えてそう言った。
二人は予定表を開いた。最初の訪問は五月、次は光一の店の夏休み。その先はまだ記入しなかった。一年分の航空券を買って安心するお金は、どちらにもなかった。
北海道へ着いて最初の一週間、安積は疲れて早く眠った。光一から電話が来る時間には寝ており、翌朝の返事を彼が読むのは昼過ぎだった。別れたばかりの人のように、生活の輪郭が噛み合わなかった。
新しい職場には、彼女より十五歳若い先任者がいた。倉庫の鍵の場所から端末の使い方まで教わり、同じことを二度聞く日もあった。長く続く契約を得れば落ち着くと思っていたのに、専門家としての自信は、細かな手違いで簡単に薄くなった。
金曜の午後、種子の保存容器を一つ間違えて出した。数値には影響しなかったが、安積は報告書を書いた。光一へ電話をかけたくなり、時計を見ると彼の店は開店したばかりだった。代わりに先任者を休憩へ誘い、失敗の話をした。相手は慰めるより先に、棚の札が読みづらいので変えましょうと言った。
恋人にしか渡せないと思っていた弱音にも、別の行き先はあった。安積はその晩、光一には失敗も解決の方法も一緒に話した。彼は、そっちにも頼れる人がいるんだね、と言った。その声に、少し安堵が混じっていた。
最初に喧嘩をしたのは、四月の終わりだった。彼の店で冷蔵庫が故障し、五月の訪問に合わせた休みを減らしたいと言われた。安積は航空券を買っていた。会えなくても仕方がない、と口にした後、通話を短く切った。
次の日、光一から、仕方がないと言われると責められるほうがましだ、とメッセージが来た。安積は返事をしないまま仕事へ行った。発芽試験の数値を入力している時、会いたかった、としか言うことがなかったのだと気づいた。
その言葉を送った。光一の返事は晩になった。
「俺も。来てくれるなら、仕事のあとになるけど会いたい」
安積は予定通り大阪へ行った。空港から直接、店の近くの宿へ入った。彼の部屋へ先に行けば、洗濯や片づけをして待ちたくなる自分を知っていたからだった。
閉店後、光一が小さな紙袋を持って宿へ来た。二人分のサンドイッチが入っていた。安積はベッドの脇の椅子を引き、彼は窓際に座った。窓を開けると、大阪の湿った暖気が入った。
会えばすぐ元の距離になると思っていたのに、初めの十分は互いに遠慮していた。光一は彼女の新しい職場の人の名前を忘れ、安積は彼の痛めた肩がまだ治っていないことを知らなかった。
食べ終わってから、彼女は彼の左肩に触れた。
「痛いの、ここ?」
「もう少し下」
触れる場所を教わることから、二人はその夜を始めた。
翌朝は光一が先に帰った。安積は彼を見送り、予約していた喫茶店へ一人で朝食に行った。昔なら、一人にされた時間を数えていただろう。今も少しは寂しい。それでもその寂しさの中で、久しぶりの商店街のパンを美味しく食べた。
六月、光一から最初の手紙が届いた。郵便局へ行く用事があったから、と前置きして、新しいスタッフの失敗と、店の表の鉢植えのことが書いてあった。最後の一行には、そっちの窓はどっち向き、とあった。
安積は北窓の写真を撮った。庭の木々はようやく葉を広げ、夜の八時近くまで薄明るかった。返事には写真を印刷して同封した。二つの住所を覚えるまでに、二人はまだ何度もすれ違うだろう。五年後のことは、彼女一人の努力でも彼一人の我慢でも決められない。
それでも今夜は、自分が選んだ町の机で、彼に手紙を書いている。安積は封をする前、窓の外の明るさをもう一度見た。明日咲きそうな花の名を一つ、余白へ書き足した。