小樽の映画館が最後に上映するのは、町を出る前の澄子が見損ねた映画だった。五十歳になった今でも、題名を聞くと夜行列車の灰皿を思い出す。あの晩、見るはずだったのだ。健吾と並んで、中央より少し後ろの席で。
切符売り場のガラスには、手書きの閉館告知が貼られていた。澄子が千円札を差し出すと、奥から出てきた男が釣り銭を数える手を止めた。
「……似た人かと思った」
健吾は五十二歳で、眼鏡をかけていた。彼が映写技師としてここへ戻ったことは、同級生から届いた知らせに書かれていた。だから驚く権利はなかったのに、澄子は口を開けたまま立っていた。
「一枚、お願いします」
ようやく言うと、彼は切符を一枚ちぎった。
「まだ自由席だよ」
客は十人ほどだった。澄子は昔の席を選ばず、通路脇に座った。膝の上に載せたコートから、溶けた雪の匂いがした。
映画は、思っていたより可笑しかった。悲恋の名作だと教わっていたのに、人々は食卓でくだらない喧嘩をし、主人公の女はしばしば相手の話を聞かなかった。澄子は途中で二度、声を出して笑った。若い自分なら、恋人たちの運命ばかり追って、こんな場面は見ていなかっただろう。
明かりがつくと、健吾が後ろに立っていた。
「どうだった」
「二十年待った甲斐があった、って言うところ?」
「無理に言わんでもいい」
彼も笑った。その笑い方だけは、不思議なほど年を取っていなかった。
最終日まで三日あった。澄子は駅前に宿を取り、翌朝もう一度映画館へ行った。喫茶室の椅子を引き取り手ごとに分ける作業を、健吾が一人でしていた。
「時間あるなら、札をつけてもらえる?」
彼は気軽に頼んだ。知らない二十年を埋める挨拶より、その頼み方がありがたかった。
澄子は札幌で美容室を営んでいる。夫は六年前に亡くなり、二十五歳の娘は旭川で働いていた。自分の暮らしを説明する時、夫を亡くしたことをどの順番で言うか、いまだに少し迷う。独身だと伝えるために死を使うようで、いつも居心地が悪かった。
健吾は彼女の話を聞き、娘はどんな仕事をしているのかと尋ねた。医療機器の営業、と答えると、車で回るのは冬が大変だね、と言った。澄子はそこで初めて肩の力を抜いた。
札幌の店には、澄子が留守の間を任せたスタッフから朝ごとに連絡が来た。この日の写真には、いつも彼女が担当する客の襟足が写っていた。いつもより短いが、よく似合っている。澄子は直す箇所を探す代わりに、いいね、と返した。
「店、心配?」
健吾が聞いた。
「心配だった。私がいなくてもいいと思われるのが、いちばん」
「それで戻りたい?」
「戻りたい。でも、私がいなくても二日や三日は回る店でよかった」
六年前、夫が亡くなった直後は、仕事をしている間だけ普通の声で話せた。今はその仕事から三日離れ、自分で切符を買って、見たい映画を見に来ている。健吾の顔を見ていたはずの旅に、彼とは別の理由もあったと澄子は気づいた。
「そっちは?」
「結婚はしてない。函館で一緒に暮らしてた人はいたけど。十年前に別れた」
「映画の仕事で?」
「俺が、なんでも映画のせいにしたから」
健吾は座面の破れた椅子を裏返した。古い硬貨が一枚、床へ落ちた。二人とも拾わず、ころころと回る音を聞いた。
昔、澄子が勤めを辞め、札幌の美容学校へ行くと決めた時、健吾は一緒に暮らす部屋を探していた。ところが卒業制作の上映が延び、アルバイトの給料が入らず、彼は約束を幾つも延期した。待つことに疲れた澄子は、出発を一日早め、最後の映画を見ずに町を出た。
どちらが悪かったかを決めるには、長すぎる時間が経っていた。澄子には夫と娘のいる食卓があったし、健吾にも彼女の知らない人のために買った歯ブラシがあった。
昼、二人は近くの蕎麦屋へ行った。健吾が天丼を頼むと、澄子は少し驚いた。昔は汁まで飲み干すほど蕎麦が好きだった。
「胃を半分取ったんだ。一度に食べられなくなって、好きなものも変わった」
言いながら、彼は小さな丼の半分ほどを別皿へ移してもらった。澄子は大げさに心配する言葉を飲み込んだ。彼が食事を続けられる話題を選び、店の壁の古い献立について聞いた。
最終日の午後、町の新聞社が取材に来た。健吾が映写機の説明をしている間、澄子は喫茶室で紙コップを並べた。元従業員が二人、古い常連が何人もやって来て、いつの間にか同窓会に似た騒ぎになった。
「奥さんですか」
若い記者に聞かれ、澄子が否定するより早く、健吾が言った。
「昔からの友達です。片づけを手伝ってもらってる」
間違っていない。それなのに澄子は、紙コップを一つ潰した。恋人だった、と言ってほしかったのか。今の自分へ誰かの妻という札をつけられたくなかったのか。どちらにも頷けず、潰れたコップをゴミ袋の奥へ押し込んだ。
夕方の上映が始まると、喫茶室は静かになった。澄子は階段を上がり、開いていた映写室の入口へ立った。機械の低い音と、健吾の背中。小窓の向こうに、光の筋が客席を横切っている。
「入っていい?」
健吾は頷き、椅子を一つ寄せた。
彼女は隣に腰を下ろした。昔ここでキスをしたことを、二人とも思い出しているようだった。健吾は手を伸ばさず、澄子も何も言わなかった。
「さっき、友達って言っただろ」
彼が小窓を見たまま言った。
「うん」
「何て言えばいいか、わからなかった」
「私も、わからなかった」
答えてしまうと、腹立たしさは薄れた。けれど消えたわけではなかった。澄子は、こんな小さな不満を何年も積み重ねた暮らしを知っている。夫との結婚も、いつでも互いをよく理解する幸福な映画ではなかった。喧嘩したまま入院させた日のことは、今も話せずにいた。
画面の中で、主人公の女が旅の支度をしていた。澄子は若い頃なら見落としただろう、戸棚に戻される二人分の食器を見つめた。
「閉まったら、どうするの」
「苫小牧の修理屋に来ないかって話がある。音響機器を扱うところ。まだ返事してない」
「行きたい?」
「少し。でも、また一からだ」
澄子は何も励まさなかった。彼が怖がっているものの重さを、知らないまま軽くできる年齢ではなかった。
最後の客を見送った後、健吾は入口の看板を外した。澄子は通りの向こうから写真を撮った。看板がなくなると、建物はすぐに別のものになった。これまで映画館の横壁だと思っていた面が、一軒の古いビルの壁として現れた。
「飲みに行く?」
彼に誘われ、澄子は少し考えてから頷いた。小さな居酒屋で熱燗を一本頼み、二人で半分ずつ飲んだ。健吾は食べるのが遅く、澄子は急がなかった。
もう一度会うのだろうか。会うとすれば、どちらが列車に乗るのだろう。澄子は店の定休日と、娘が帰ってくる年末と、雪道の運転を考えた。恋の入口でそんなことを考える自分が少し可笑しかったが、嫌ではなかった。
宿の前まで送ってもらうと、健吾が手を差し出した。握手のつもりで触れた手は、そのまま少し長く結ばれた。
「今日、帰さなければよかったって思うかな」
彼は冗談とも本気ともつかない声で言った。
「それは、明日のあなたに聞いて」
澄子は手を離した。どちらかが一歩動けば、抱き合えた。けれど彼女は、この三日間を昔の続きにしてしまうことをためらった。夫を忘れられないからでも、もう恋をしないと決めたからでもない。今日の健吾と今日の自分には、まだ会い始めたばかりの距離があった。
翌朝、駅の売店で便箋を買った。札幌へ着いてから、店の住所と電話番号を書き、「修理屋の話、決まったら教えて」と添えた。日付の下に、映画は可笑しかった、ともう一度書いた。
返事が来たのは三週間後だった。苫小牧の部屋の窓から海が見えること、仕事はまだ手順を覚えるので精一杯だということ。最後に一行だけ、次は何を見ようか、とあった。
澄子はその葉書を、予約帳の次の月のページに挟んだ。日曜日の欄には、すでに常連客の名前が詰まっていた。空いていた水曜日のところへ、鉛筆で小さな丸を一つ置いた。