直せるかどうか、まず見せてください。電話の向こうの応対は、七年前と同じだった。颯太は青いスーツを紙袋に入れ、横浜の商店街へ向かった。三十八歳の誕生日を二週間過ぎていた。スーツを買った三十一歳の時より腹回りが少し太くなり、仕事で読む外国の小説には、以前ほど容易に感動しなくなっていた。
洋服直しの店は、パン屋と金物屋の間にあった。前は入口に鉢植えが並んでいたが、今は配達用の自転車が一台、壁に立てかけられている。
奥から出てきた亮介は、丸い眼鏡の上から颯太を見た。
「久しぶり。外国にいるんじゃなかった?」
「戻って四年になる」
言ってから、四年も来なかったことをわざわざ知らせたと気づいた。
亮介は四十六歳になっていた。誕生日を覚えているのは、前に颯太が一つしか年齢を当てられず、ずいぶん笑われたからだった。背中は前より丸く、指先の動きは相変わらず速かった。
「袖が破れたんだね」
「椅子の金具に引っかけて。来月、人前に出る仕事があって」
亮介は裏地をめくり、縫い目を確かめた。
「同じ布がないから、完全に見えなくはできない。それでもいい?」
颯太は頷いた。料金と納期を聞き、伝票に電話番号を書いた。亮介はその番号を、前から知っている番号のようには見なかった。
七年前、颯太は独立したばかりの翻訳者だった。出版社の会合に着ていく服を整えるため、この店へ来た。亮介が待ち針を刺すあいだ、読んでいる本や夕飯の話をした。仕上がった服を受け取った後も、直す必要のないシャツを持って来た。
一度だけ、夕方の店で二人きりになった。亮介は自分も男の人を好きになると言い、颯太は一緒に食事をしないかと誘った。誘った直後に、半年の海外研修が決まった。
帰ってきたら、と颯太は言った。亮介は、向こうで連絡して、と答えた。
初めの一か月は何度か写真を送った。忙しくなると返信が遅れ、相手の短い返事を読むたび、会いたくないのだと思った。研修は二年の仕事に変わった。帰国を知らせる文章は何度も書き、送らなかった。
その後、颯太は別の男と暮らした。彼と別れたのは半年前で、きっかけは冷蔵庫の中のものを勝手に捨てたことだった。もちろん、それだけではなかった。まだ食べられるかもしれない食品を、最後まで確かめたがる自分を、相手はいつも疲れた顔で見ていた。
亮介の店を思い出したのは、破れた袖を触った時だった。会う口実に傷を使っているようで、電話をかけるまで二日かかった。
受け取りの日、スーツはカウンターに掛けられていた。破れた場所には細い糸が渡され、近くで見ると波のような模様になっていた。
「ここにあった布を少し使った。余りも返しておくね」
颯太は目を近づけた。見えなくするのでなく、見えてもいい形になっている。その技術をうまく褒められず、すごいな、とだけ言った。
亮介が聞き返したので、もう一度言うと、彼は右耳を指した。
「機械の音があると聞き取りにくくて。去年からこっちは補聴器」
颯太は急に声を大きくして、亮介に笑われた。
「正面から、普通で大丈夫」
彼の顔を見る理由を一つ与えられ、颯太はかえって落ち着かなかった。
会合が終わった晩、颯太は礼のメッセージを送った。すぐ既読になったが返事は翌朝だった。服が間に合ってよかった、とあった。その下に、店の近くの食堂がまだあることが書かれていた。
火曜日、二人はその食堂で待ち合わせた。颯太が先に着き、亮介のために入口の見える席を取った。やって来た亮介は、厨房から離れた席に移っていいかと尋ねた。換気扇の音が大きかった。
「ごめん、気が回らなくて」
「こっちが勝手に言うから、気を回さなくてもいいよ」
亮介は鞄から小さな眼鏡ケースを出し、卓上へ置いた。颯太が知っていた彼には、こんなふうに自分の都合を人へ伝える軽さがなかった。少なくとも、颯太はそれを見たことがなかった。
料理を待つ間、颯太は七年前の連絡について謝った。
「帰ったら会おうって、言ったままだった」
「うん。俺も、連絡が来ないならもういいかと思った」
「来ないほうがいいのかと思ってた」
「そういうことにしちゃうよね」
亮介は責めるでも慰めるでもなく言った。その自然さに、颯太はかすかに傷ついた。自分は七年を特別な時間として持って来たのに、相手はそれをもう畳んでしまっているのかもしれなかった。
食後に商店街を歩き、店の角で別れた。誘いがうまくいったのか、颯太にはわからなかった。亮介からは、来週も会おうという言葉はなかった。
帰宅すると、以前の恋人が残していった大きな鍋が目についた。もう取りに来ないと言われていた。颯太は初めて、その鍋で一人分のスープを作った。大きすぎるからと使わずにいた時間にも、鍋はただそこにあった。
次に誘ったのは亮介だった。公園で開かれる古本市へ行かないかという。颯太は本棚の整理をしたばかりだったが、行くと返事をした。
土曜の公園には子どもと犬が多く、二人は露店の間をゆっくり回った。亮介は外国の作業着の写真集を一冊買った。颯太が訳した本も一軒の棚にあったが、自分からは言わなかった。
「これ、名前が同じだ」
亮介が背表紙を引き抜いた。
「俺のだよ」
本を開いた亮介は、値札を確かめるとそのまま買おうとした。颯太は、送るからいい、と止めた。
「今、読みたくなったんだけど」
そう言われ、手を引っ込めた。与えられるものを先回りして用意するのが、親切とは限らないのだった。
昼は屋台で買ったサンドイッチをベンチで食べた。亮介が、七年前は少し困っていた、と話した。
「店を継いだばっかりで、自分よりずっと遠くに行く人を好きになっても、どうしていいかわからなかった」
颯太は、好き、という言葉を聞いて顔を上げた。
「昔の話ね」
亮介はそれを見越したように言った。
「今は?」
「今、考えてる」
颯太は頷き、紙袋の底のパン屑を集めた。簡単に安心させてもらえないことが、彼と本当に会っている証拠のように思えた。
その夜、亮介から買った本の写真が届いた。主人公が皿を洗う場面に付箋が貼られていて、この言い回しが好きだ、とあった。颯太が二日悩み、編集者にも修正を提案された箇所だった。彼は長い説明を打ちかけ、消した。ありがとう、とだけ返した後で、そこは原文だともっと可笑しい、ともう一通送った。
亮介は、じゃあ今度教えて、と答えた。自分の仕事を会話の入口にできることが、颯太には新しかった。以前の恋人には、締切前だからという説明でたいていの話を終えていた。忙しさは事実でも、それで相手を待つ役に固定したことまで無罪になるわけではなかった。
翌朝、颯太はスーツをブラシにかけた。手当てをした部分には埃が少し絡んでいて、急がずに毛先で払った。次に破れることを恐れて着ないのでは、直してもらった意味がなかった。
それから二か月、二人は三度会った。一度は亮介の仕事が延びて約束が流れ、一度は颯太が原稿の締切を間違え、食事だけになった。空白の週に、颯太は返事を催促しそうになった。代わりに、日曜日に会いたい、と要件だけを書いた。亮介からは、その日は母の買い物に付き合う、木曜なら、と返ってきた。
会えない日があることと、会いたくないことを、毎回正確に区別できるわけではなかった。それでも次の予定を聞く手つきは、少しずつ覚えられた。
十一月の木曜、亮介の店が閉まるのを待って、二人は海のほうへ歩いた。風が強く、会話は何度も途切れた。颯太が亮介の左側に回ると、彼は気づいて小さく笑った。
桟橋の端で、亮介が颯太の袖口をつまんだ。直した部分の糸が街灯に光っていた。
「今日は、手をつないでもいい?」
颯太は頷いて、自分から手を開いた。
帰り道、明日の朝が早い亮介を駅へ送った。改札の手前で短くキスをした後、二人とも少し目を逸らした。七年前の続きなら、もっと上手に振る舞えただろう。今の二人は、次にどこで食事をするかさえ決められず、駅の案内板の下でしばらく迷った。
最後に亮介が、あの食堂でいいか、と言った。厨房から離れた、互いの顔がよく見える席を、颯太は思い浮かべた。