実家の玄関の鍵は、思いのほか軽かった。東京の集合住宅で使うカードとは違い、歯の一本がわずかに曲がっている。四十一歳になった由紀乃は、バッグの底で十三年も眠らせていたそれを、尾道へ向かう列車の中で掌に載せた。
母を駅へ迎えに来させないための鍵だった。帰ると言いながら帰らなかった正月の数を、今さら数えても仕方がない。母は昨年、妹の住む岡山へ移り、空き家になった家を売ることにした。
駅前で雨が降りはじめた。折り畳み傘を出す間に、軽トラックが歩道の端へ止まった。
「坂の上まで行くんだろ」
窓の向こうの修平は、髪の生え際に白いものが増えていた。由紀乃が知っている二十八歳の男より、頬は痩せ、目尻は深い。
「不動産屋さんから聞いたの」
「うち、あの家の雨樋を直してる」
乗れ、とも、久しぶり、とも言わない。それで却って乗ることができた。助手席の足元には、削りかけの木片が袋にまとめてあった。大工だった父の工務店を継いだという話は、母から聞いていた。
坂の手前の信号で、彼が言った。
「四十三になった。今年は膝にくる」
「私はまだ四十一だから平気」
昔なら、二歳差を持ち出すと彼は笑って腹を立てた。今は本当に膝が痛いらしく、青になるまで右足をさすっていた。
家の中には、捨てる予定のものだけが残っていた。金縁の皿、父の釣り雑誌、母が何度も裾を直したカーテン。修平は雨樋の確認をすると言って、長靴のまま裏へ回った。
由紀乃は台所の窓を開けた。向かいの屋根が青く塗り替えられ、海は記憶より狭く見えた。十三年前、この窓の前で修平に東京へ来ないかと聞いた。勤めていた出版社から正社員になれるという話が来たばかりだった。
彼は、父親が手術を受ける、と答えた。由紀乃は、それは返事ではないと思った。何日か待ち、もう一度聞くのをやめた。彼も、仕事が落ち着くまで待ってほしいとは言わなかった。
別れを決めた日の会話より、その翌朝のごみ出しを覚えている。二人で使った小さなやかんを、燃えないごみの籠へ置いた。まだ使える、と彼が言った。それでも由紀乃は置いてきた。
「ここ、床が少し沈んでる」
勝手口から戻った修平が、窓辺を指した。
「見積もりに入れる?」
「買う人が決まってからでいいと思う。急に抜けるような傷みじゃない」
仕事の話をする彼の声を、由紀乃は初めて聞く気がした。昔は夜中に図面を広げていても、どこか父の手伝いをしている青年に見えていた。彼はこの家が古くなるあいだ、ほかの家も見てきたのだ。
昼は近所のお好み焼き屋へ行った。鉄板の前の席には先客がいて、二人は壁際に座った。店主は由紀乃に気づくと、母の近況を尋ね、修平にはいつものを焼いた。
「結婚してたんだってね」
由紀乃は箸袋を折りながら言った。
「してた。五年前に別れた。子どもはおらん」
「私は、籍は入れなかったけど、去年まで一緒に暮らした人がいた」
修平は水を一口飲んだ。自分の知らない男について聞く代わりに、彼女の皿へ小さなへらを置いた。
「熱いから」
その注意まで昔と同じだと思ってから、誰にでも言う言葉だ、と由紀乃は自分に言い直した。
翌朝、二階の押し入れから菓子缶が出てきた。中にあったのは写真ではなく、店のレシートや映画の半券だった。一枚だけ、修平が書いた材木の寸法が混じっている。何のために取っておいたのか、もう思い出せなかった。
母へ電話すると、要るものはない、と返ってきた。
「ほんとに全部?」
「私の暮らしはこっちにあるから。あなたも持って帰りすぎないで」
母の薄情なほど晴れやかな声に、由紀乃は救われ、少し腹も立った。家を離れたのは自分が先なのに、置いていかれる役だけは引き受けたくなかった。
午後、修平が工具を取りに来た。由紀乃は缶の底の紙を渡した。
「ああ、棚だ。あんたの文庫本の」
「あれ、あなたが作ったんだ」
「組み立て家具だと思ってた?」
二人は二階へ上がった。棚は窓の下に残っていて、湿気で背板が波打っていた。修平はしゃがみ、指の腹で角を撫でた。
「持っていくなら直すよ」
「東京の部屋には入らない」
そう答えた途端、由紀乃は泣きそうになった。棚のせいではない。十三年前に東京へ持っていけなかったものが、こんなふうに形を持って残っていることが、たまらなく勝手だった。
修平は立ち上がらず、彼女の靴下を見ていた。
「俺は、あの時行けなかった」
「知ってる」
「行かなかった、と言ったほうが正しいかもしれん。親父のことだけじゃなくて、知らない場所で何もできん自分になるのが怖かった」
由紀乃は窓に手を置いた。ガラスが冷たかった。
「私は、あなたが来ない理由を、私を好きじゃないからにした。そうしたほうが出ていきやすかった」
言っても、長かった年月は縮まらなかった。失ったはずのものがすべて戻ってくるわけでもない。階下で古い冷蔵庫が低く鳴り、由紀乃は、今日は電源を抜くのだったと思い出した。
冷蔵庫の中は、製氷皿だけが残っていた。由紀乃がコンセントを抜くと、いつもは意識しないほど小さな音が消えた。修平は庭へ延長コードを運び、雨樋の最後の釘を打った。
由紀乃の携帯電話が鳴った。東京の編集者からで、来週渡すはずの原稿が三日遅れるという。彼女は台所の椅子に座り直し、後ろの工程を確かめ、できる日程を二つ伝えた。修平が窓の外を通ったが、声をかけなかった。仕事の電話が終わった時、玄関に新しい雨樋の保証書が置かれていた。
夕方、妹から家の写真を送ってほしいと連絡が来た。誰も写っていない写真がいいという。由紀乃は少し迷い、二階の窓から撮った港も添えた。妹はすぐ、ここから海が見えてたんだ、と返してきた。同じ家で育っても、覚えている窓は違う。自分だけが置いてきたものを、町全体が保存していたわけではなかった。
家を見に来た若い夫婦は、台所の窓を気に入った。子どもが生まれる前に移住したいと言い、坂の多さについて何度も聞いた。由紀乃は売主として知っていることを答え、知らないことは修平へ回した。
帰り際、妻のほうが二階の棚を残してほしいと言った。飾り棚にしたいという。修平は由紀乃を見てから、直しておきます、と答えた。
契約までには時間がかかる。由紀乃は翌日、一度東京へ戻ることになった。出版社を辞め、今は書籍の校正を自宅で請けていることを、その晩ようやく修平に話した。
「じゃあ、こっちでもできるんか」
期待を隠さない声に、由紀乃はすぐ頷かなかった。
「できる。でも、それだけでここに住むとは決めたくない」
「うん」
「東京で好きな店もあるし、病院も、友達もいる」
「うん」
彼は一つずつ聞いた。ついてきてほしいと言った昔の自分が、その返事をどれだけ欲しがっていたか、由紀乃は遅れて知った。
二人は港まで歩いた。最終の渡船が着き、仕事帰りの人たちが黙って降りてきた。修平が、次は家の用事がなくても来るか、と聞いた。
「来月なら」
「来月でええよ」
「俺も、こっちがずっと同じだと思われると困る」
修平が言った。由紀乃は顔を向けた。
「店、来年には弟子を一人取るかもしれん。休める日が減る」
「じゃあ、来る前に確認する」
「それでも会えんことはあるよ」
「うん。あるね」
その約束の頼りなさが、由紀乃には今までになく確かなものに思えた。会うためには、その都度二人とも手を動かさなければならない。
彼の手に触れる前、由紀乃は一度その顔を見た。彼は小さく頷いた。手袋のない指は硬く、記憶の中より太かった。波止場の街灯の下で、一度だけ口づけた。短く、急ぐ必要のない口づけだった。
翌朝、由紀乃は実家の鍵を不動産屋に預けた。バッグから重さが一つなくなった。修平が駅へ送る途中、来月はどこに泊まる、と聞いた。
「駅前の宿を取る。朝ごはんがおいしいところ」
彼は、うちへ来いとは言わなかった。その代わり、休みの日を二つ教えた。
列車の座席に着いてから、由紀乃は手帳にその日を記した。帰省、ではなく、修平に会う、と書いた。名前の下に引いた細い線が、揺れる列車のせいで少しだけ曲がった。