夜の余白YORU NO YOHAKU
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長めの短編 10 / ほどける恋 / 約11分

夜明けのしおり

最後の一行に、あなたへの余白。

*

三十八歳の真琴は、書店を閉めると決めた夜、自分の店で初めて泣いた。

父から継いで七年。好きな本を並べることと、家賃を払うことは別だった。泣くならもっと早く泣けばよかった。明日は最後の営業日で、値札を外す仕事がまだ残っていた。

閉店を知らせたのは先月だった。客の一人は、突然ですねと言った。真琴には突然ではなかった。毎月の数字を見て、仕入れを少しずつ減らし、蛍光灯を取り替えるのを後回しにした時間があった。突然に見えるまで、言えなかっただけだった。

机の上には、父が使っていた赤い鉛筆があった。短くなりすぎて、もう削れない。店を継いだとき、これだけは捨てられず抽斗に残した。七年使わなかったものを、最後の晩にまた握っていた。

扉が小さく鳴った。

「閉店です」

言いながら顔を上げると、三十五歳の印刷工、須田が立っていた。毎月、店の小さな読書案内を刷ってくれる人だった。

「最後の分。遅くなってすみません」

紙の束を差し出して、彼は真琴の顔を見た。それ以上、何も聞かなかった。

案内は四つ折りの薄い紙だった。新刊の紹介を三冊、店に届いた手紙のこと、商店街の催し。須田の勤める印刷所で、月に一度、少部数だけ刷ってもらった。

最初は父の知り合いだった社長が担当していた。三年前から須田が来るようになり、紙の厚さやインクの色を相談した。真琴が訂正を遅くまで送ると、彼は直せる部分と難しい部分をきちんと返した。無理をして黙って引き受けない人だった。

須田が最初に買った本を、真琴は覚えていた。旅行記だった。どこかへ行くのかと聞くと、今は行けないから読むのだと答えた。その返事が好きで、次に似た本が入ったとき、彼の顔を思い浮かべた。

だが取引先へ本を勧めるのは普通のことだ。来店を楽しみにしているのも、仕事の一部だと思うことにした。そうして三年がたった。

最後の案内の一面には、閉店の挨拶を書いた。ありがとうございましたという行を何度も直し、結局いちばん短い文にした。書かなかった言葉のほうが、紙の余白より多かった。

須田は見本を一枚広げた。小さな店の地図が、前月と同じ場所に入っていた。もう来てもらえなくなる場所を案内していることに、真琴はまた泣きそうになった。

「何か、できますか」

須田が聞いた。真琴は手伝ってもらうのは申し訳ないと言いかけた。けれど、まだ棚の上段には細かい札が並び、床には未開封の箱があった。

「高いところの札、外してもらえますか」

彼は上着を脱いだ。仕事で来た人にこんなことを頼んでいる、と真琴は思ったが、今さら断って一人に戻るほうがつらかった。

二人で棚の札を外した。須田は高いところを担当し、真琴はカウンターの抽斗を片づけた。誰かと黙って働く夜が、こんなに楽だとは知らなかった。

抽斗からは、客の忘れた栞や、父の字のメモが出てきた。メモには本の名前と、取り寄せを頼んだ人の名字があった。その人はとうに引っ越していて、本を渡せたのかも真琴には分からない。

「こういうもの、どうすればいいのかな」

思わず聞くと、須田は脚立から下りて見た。

「今日は、決めない箱を作ってもいいんじゃないですか」

真琴は空いた段ボールへ、あとで、と書いた。閉店する日が決まったからといって、すべての気持ちまで、その日に片づく必要はなかった。

札を剥がした棚には、日焼けしていない細い跡が残った。須田はそれを無理に磨かなかった。明日まだ本が並ぶ場所だと、真琴が伝えたからだった。

夜食を買いに出ようとすると、須田は近くの店が閉まる前に行ってくると言った。真琴は小銭を渡し、自分の好きなパンを頼んだ。彼は自分の分と別の袋で持ち帰った。

カウンターで二人並んで食べた。客に見られないよう奥で急いで昼を済ませることが多かったので、店の中が違う場所に見えた。

「閉まったら、会う理由がなくなるなと思って」

須田が言った。

真琴は顔を上げなかった。

「印刷、頼むものなくなるからね」

「そういう意味じゃないです」

手元の紙袋が、指の間で潰れた。

真琴は、彼が何を言ったか理解していた。それでも一度、分からないふりをしたくなった。店がなくなるだけでも十分なのに、自分の気持ちまで変わるのは怖かった。

「今、何も考えられない」

ようやく言うと、須田はうなずいた。

「今日、返事が欲しいわけじゃないです」

「そう言われると、ずっと待たせるかもしれないよ」

「待ってるかどうかは、僕が決めます。真琴さんが、返す日まで決めなくていいです」

彼は言ってから、少し強すぎましたと付け加えた。真琴は笑った。こういうことを話す彼も、いつも通り落ち着いているわけではなかった。

須田は脚立を畳み、カウンターの向こうへ来た。

「閉店したら、休んでください。落ち着いたら、会ってほしい」

手帳から細い紙を出した。印刷の試し刷りを裁った、白い栞だった。そこへ携帯電話の番号を書いた。

「会社のじゃなくて、こっちに」

真琴は受け取り、折れないように本の間にはさんだ。

翌日、たくさんの客が来た。開店前からシャッターの前に立っている人がいた。真琴はいつもと同じ時間まで待ってもらった。最後の日にだけ特別なことをすると、普段の店が間違っていたような気がした。

『もっと買えばよかった』という言葉に、うなずけるときと、うなずけないときがあった。真琴も別の閉店する店で、そう言ったことがある。責めたいわけではない。それでも、自分が笑って返事をすることまで、店の役目に含まれているようで疲れた。

常連の女性は何も言わず、いつもの雑誌を買った。受け取った釣り銭を財布へしまい、また、と言いかけて口を閉じた。その一瞬で、真琴も泣きそうになった。

須田は夕方、客として一冊買った。いつもの納品口ではなく正面から入り、列に並び、真琴の会計を待った。

選んだのは、今まで彼に勧めたことのない詩集だった。真琴が意外そうにすると、分からない本も読んでみたくなったと言った。

「感想、いつか聞かせてください」

言ってから、真琴は自分の言葉に気づいた。須田は短くうなずいた。それだけで、列の次の客へ場所を譲った。

閉店後には戻ってこなかった。一人で最後の明かりを消せるようにしてくれたのだと、真琴は思った。鍵を回すとき、寂しさと、終えられたという安堵が同時に来た。

閉店の翌朝も、真琴はいつもの時間に目を覚ました。店へ行かなくていいことを思い出し、もう一度横になった。だが眠れなかった。

家には店から運んだ段ボールが並んでいた。中身を見れば仕事を始められる気がして、一箱だけ開けた。父のメモが入っていた。真琴は蓋を閉じ、その日は洗濯をした。

次の仕事を探す話は進めていたが、勤務が始まるまで数週間あった。暇になれば本をたくさん読めると思っていた。実際には、ページを開くと店へ並べる位置を考えてしまい、物語に入れなかった。

須田へ連絡しようとして、やめる日もあった。恋人ができれば閉店の寂しさが薄まる、という使い方をしたくなかった。けれど、寂しい時期に誰かと会いたいと思うことまで、悪いわけではない。

ある午後、真琴は店で長く売れなかった本を一冊読んだ。父が仕入れ、真琴が棚へ置き続けた本だった。途中で、自分はこれを読んでいなかったのだと気づいた。守っていたつもりのものを、今になって初めて知ることもあった。

読み終えると、店を続けられなかったことへの後悔が消えるわけではない。それでも、本の最後の一行は、売れ残りという名前から離れた。

月末、店で週末だけ働いていた学生から葉書が来た。就職先の研修で忙しく、閉店の日に行けなかったことを謝っていた。最後に、あの店で本にカバーを掛けるのが好きでした、とあった。

真琴は返事を書いた。売り上げが伸びなかったことへの説明を入れかけ、消した。その人が覚えている時間に、自分の弁明を足さなくてもよかった。

『よく手伝ってくれて、ありがとう。働き始めた町にも、気に入る店がありますように』

書き終えると、七年を失敗という一語でまとめなくてもいい気がした。続けられなかったことは変わらない。それでも、人が働き、読み、何かを覚えた店だった。

葉書を出しに行った帰り、真琴は花屋で小さな鉢を買った。店先に置くためではなく、自宅の窓辺に置くためだった。帰宅してから鉢の高さに合う場所を探す時間が、今の自分の生活なのだと思った。

一か月後、段ボールの残る自宅で、真琴はあの本を開いた。栞の数字は、ちゃんと読めた。

『まだ、落ち着いてはいないんですが』

そこまで書いて、全部消した。落ち着く日が来るまで待っていたら、何を基準にするのか分からない。店の話をせずに会えるかも、会ってみなければ分からなかった。

『土曜日、一緒に本屋へ行きませんか』

返信は夕方に届いた。

『ぜひ。仕事のあと、六時でもいいですか』

真琴は手帳を開いた。何も書いていなかった土曜日に、時間と名前を並べた。

待ち合わせは駅の改札にした。印刷所の前でも、閉じた店の前でもない。須田は近くに遅くまで開いている書店があると教えた。真琴は行ったことがなかった。

その夜、段ボールを一つだけ棚へ移した。閉店の資料と、店で使った道具を分けた。あとで、と書いた箱は、まだ開けなかった。次の約束ができたからといって、過去を急いで処分する必要はない。

土曜、真琴は白い栞を手帳にはさんで出かけた。須田は改札の外に立っていた。仕事帰りの鞄はいつもと同じだったが、印刷物の箱は持っていなかった。

「何を見ますか」

彼に聞かれ、真琴は少し迷った。

「今日は、棚を全部見てから決めたい」

須田は、僕も、と言った。何を仕入れるかでも、何が売れそうかでもなく、自分が手に取りたい本を探す夜だった。

店の再開は、まだ決めていない。決めていないことがあっても、次の約束はしてよかった。真琴は彼と並んで歩きながら、今夜読めそうな長さの物語を、一冊だけ買おうと思った。

了Thank you for reading.

もう少し、夜のつづきを。

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ABOUT THIS LIBRARY

恋の、その先の余白。

「夜の余白」は、成人同士の恋愛と日々の心の動きを描く、オリジナル短編の書庫です。再会、秘密、別れ、そして新しい一歩。眠る前のひとときに、ひとつの物語を。

全130篇を無料でお読みいただけます。約10分で楽しめる短編を中心に、さまざまな恋の物語を集めました。作品はAIを用いて制作しています。露骨な性描写は含みません。

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読了時間は1分あたり約400字を目安にしています。

運営名:夜の余白
初版:2026年10月21日
更新:2026年10月23日
収録:恋愛短編130篇(うち読了目安10分以上100篇)