月曜日だけ、香水をつけた。
二十九歳の紬が通う夜の製本教室には、同じ時間に来る三十二歳の人がいた。藤野という名字と、左利きであること。本を開く前に、必ず表紙を撫でること。そのくらいしか知らなかった。
彼の隣に座れた日は、糊が乾くまでの時間が短く感じた。
紬は去年、広告制作会社で担当を替わった。自分で絵を描く仕事から、人の予定を調整する仕事になった。どちらも必要だと分かっていたが、一日が終わると、何を作ったのか手元に残っていないことがあった。
教室に通い始めたのは、何か形のあるものが欲しかったからだった。最初の一冊は背が曲がり、開くと紙がつれた。それでも、自分が一晩かけた場所を指で示せた。
藤野は紬より二か月早く入っただけなのに、道具の扱いが丁寧だった。上手なのですねと言うと、仕事で紙を扱うから、と答えた。詳しい職業を聞く前に講師が次の説明を始め、会話はそこで終わった。
ある日、藤野が言った。
「今日、いい匂いがしますね」
紬は糸を引く手を止めた。
「分かります?」
「はい。金木犀みたいな」
祖母にもらった小さな試供品だった。朝、抽斗を片づけていて見つけ、何となくつけた。それを言う代わりに、紬は、好きな香りなんです、と答えた。
帰り道、同じ香水を大きい瓶で買った。店員は、使う場面を尋ねた。紬は仕事にも使えるものがよいと答えたが、思い浮かべていたのは窓際の作業台だった。
翌朝、瓶を玄関の棚に置いた。ほかの曜日にも使えばいいのに、月曜日まで手を伸ばさなかった。
香りは、教室の糊や革の匂いと混ざった。藤野は毎回褒めるわけではない。紬もその話を繰り返せなかった。彼が隣に座るときだけ、自分の手首がどう匂うか気になった。
その日は、表紙に使う布を選んだ。紬は青と灰色で迷い、藤野にどちらがよいか尋ねた。彼は紬が何に使う本なのかを聞いた。
「まだ決めていません」
「じゃあ、好きなほうでいいのでは」
紬は笑った。正解を教えてほしくて聞いたのに、手元へ戻されてしまった。結局、青を選んだ。明るい色を仕事の鞄から出すところを想像すると、少しうれしかった。
次の月曜、藤野は来なかった。その次も。隣の席には別の人が座り、紬は作業の失敗が増えた。
紙を切る向きを間違え、縫い穴を一つ飛ばした。隣の人は静かに糸をほどくのを手伝ってくれた。紬は礼を言い、藤野がいないことを考えている自分が申し訳なくなった。
教室の連絡用の掲示板を開いたが、休む理由は書いていなかった。個別の連絡先は知らない。名前も、藤野としか知らない。
帰りの電車で、自分が何か失礼なことを言ったのかと考えた。布を選んでもらおうとしたことだろうか。香水が強すぎたのだろうか。思い返せば、気になることはいくらでも作れた。
けれど、相手が来なくなった理由を、自分だけで埋めることはできなかった。
香水の瓶は玄関に置いたままだった。誰かに気づいてもらうためにしか使っていないものが、ひどく心細く見えた。紬は一度、抽斗へしまった。見えなくすると、今度は香りまで嫌いになったようで寂しかった。
三週目、講師から聞いた。藤野は父親の入院で、しばらく教室を休むらしい。
紬は相槌を打ってから、遅れて息を吐いた。自分のことでなかった安心が、先に来た。それを恥ずかしく思い、けれど、安心したことまで責めるのはやめた。
講師は詳しい病状を話さなかった。紬も尋ねなかった。知らないまま心配してよいことと、知る権利があることは違う。
「課題の材料は、取り置きしてありますよ」
講師が棚の包みを示した。藤野の居場所が、小さな茶色の袋に残っていた。
翌週、紬は自分のための小さなノートを作り始めた。いつもなら見本どおりに寸法を決めるが、今回は鞄の内ポケットに合わせた。紙は薄いクリーム色、表紙はあの青い布にした。
切り出した布に、小さな織りむらがあった。紬は捨てようとして手を止めた。その部分を背へ回せば、少しだけ模様のように見える。完成を急ぐより、どう使うか考える時間が楽しかった。
講師は、何を書くのかと尋ねた。紬は、まだ決めていません、と答えた。藤野に言われた言葉を思い出して笑った。
「何も決めない本も、作っていいんですね」
講師は、本の持ち主が決めればいい、と言った。
一冊目を仕上げると、紬は続けてもう一冊作った。角が少しゆがんだが、開いたページはきれいに平らになった。藤野が教室に戻ったら渡そうと思い、鞄に入れた。
励ます言葉を書こうとして、何度も別の紙に下書きした。早く元気になってくださいでは、誰が元気になるのか曖昧だった。大変ですねでは、彼の今を何も知らない。結局、一文字も書かなかった。
空白なら、藤野のものを入れられる。そう思って、ノートを包んだ。
彼が来ない間も、教室は続いた。紬は隣に座る人の名前を覚えた。縫い目を手伝ってくれた人は、孫へ絵日記帳を作っていた。別の人は、料理のレシピを貼る本を仕立てていた。
皆、作りたい理由が違った。その違いを聞くうち、紬も自分の仕事の話をした。予定表ばかり作っていると、何も残らない気がすると言うと、レシピ帳の人が、予定があるから自分はここへ来られる、と笑った。
慰められるつもりで話したのではなかった。それでも、自分がしていることを別の方向から見る言葉は、うれしかった。
ある火曜日、紬は香水をつけて出勤した。月曜のために残していた香りを、誰も自分に気づかない朝の電車へ持ち出した。いつもの服なのに、少し背筋が伸びた。
昼休み、外のベンチで買ったパンを食べた。風で手首の香りはほとんど分からなくなった。それでも、つけたことを後悔しなかった。
自分のために選ぶというのは、いつも気分がよくなることではないのだろう。気づかれなくても、使ってよかったと思える日を増やすことなのかもしれなかった。
春先、藤野はようやく戻ってきた。少し痩せていたが、本の表紙を撫でる仕草は変わっていなかった。
講師は課題の袋を渡し、急がず進めてくださいと言った。ほかの生徒も、それぞれ短く挨拶した。皆が心配を言葉にしすぎないことに、紬はほっとした。
「お父さま、どうですか」
「退院しました。ありがとう」
藤野は椅子に座り、道具を並べた。久しぶりだと針の位置を忘れますねと言って、紬の作業を見た。彼女が前より早く縫えるようになったことに気づき、すごいと言った。
紬は、休んでいた間の差を見せたくなくて、少し手を止めた。藤野は気にしている様子もなく、どこで糸を留めるのか教えてほしいと頼んだ。
自分ができるようになったことを、彼のために隠す必要はなかった。
休憩時間、紬はノートを渡した。励ます言葉を一文字も書けなかったことは言わなかった。
「勝手に作ったので、使わなくても」
言いかけると、藤野は包みを開ける前に顔を上げた。
「先に、見せてもらっていいですか」
紬は口を閉じた。受け取る前から断りやすくしようとして、相手が喜ぶ時間までなくしていたのかもしれない。
藤野は中をめくった。指で紙の厚さを確かめ、青い布の角を見た。
「この色、前に迷っていたやつですね」
覚えていたことがうれしかった。紬はうなずき、角が少し曲がったと説明した。藤野は、開きやすい、と言った。失敗の場所だけを見ていた自分とは、違うところを見てくれた。
「何に使おうかな」
「何でも。買いものとか」
「じゃあ、最初は予定を」
彼はペンを出し、一行目に日曜日の日付を書いた。
「一緒に、紙を買いに行きませんか」
紬は返事をする前に、自分の手首へ鼻を寄せそうになった。今日は香水を忘れていた。
藤野は続けた。
「休む前に、聞いておけばよかった」
紬は、その言葉を急いでうれしい結末にしないようにした。彼の父親のことも、彼自身の暮らしも、まだほとんど知らない。日曜に一緒に出かけたら、それを少しずつ知るのだろう。
「行きたいです。でも、紙のお店、詳しくないですよ」
「僕も一軒しか知らないです」
二人は笑った。教えてもらう側と教える側にならずに、行ける場所だった。
予定を確認して、午後から会うことにした。藤野は午前中、父親の買いものを手伝うという。紬は、急がず来てください、と答えた。彼の予定に自分が入ることと、全部を自分に使ってもらうことは違った。
教室の帰り、紬は初めて彼の名前を最後まで聞いた。藤野も彼女の名字を尋ねた。ずっと近くに座っていたのに、知らなかったことがあった。今から知っても遅くないと思えた。
土曜の夕方、藤野から、何かお返しをしたいと連絡が来た。紬は一瞬、気を遣わせてしまったと思った。けれど、渡したことを謝り始めると、彼がうれしかったと言った気持ちまで取り消してしまいそうだった。
『紙を選ぶとき、一緒に迷ってください』
そう返すと、少しして、迷うのは得意です、と届いた。紬は笑い、仕事机の引き出しから紙の見本帳を出した。誰かに選んでもらうためではなく、自分の好きなものを説明する準備をしたくなった。
見本帳には、昔作った企画の付箋が残っていた。今の仕事へ移ったとき、その時間が全部なくなった気がしていた。だが、紙を見て思い出せることはまだある。教室へ行く月曜以外にも、その手触りを持ち出してよかった。
紬は一枚の付箋を新しいノートへ移した。使う場所が変わっても、自分の好きだったものは、続いていた。
日曜日、紬はいつもの瓶から香水をひと吹きした。玄関の鏡に映った顔が、月曜日より少し明るかった。
鞄には、自分の青いノートを入れた。買いたい紙の寸法と、気になっている店を書いてある。藤野に渡した本と似ているが、こちらには紬の字が増えていた。
待ち合わせた彼は、遠くから手を振った。香りが届くよりずっと先に、彼が自分を見つけた。
紬は、それがうれしかった。近くまで行くと、藤野は今日はどこから見ますかと尋ねた。紬は最初に行きたい売り場を答えた。隣に立つために相手の好みを待つのではなく、自分が選んだものを見せる日が始まった。