空港の電光掲示板に、最終便の欠航が表示された。
三十七歳の玲子はしばらく立ち尽くし、それから出発ロビーの端で携帯を取り出した。連絡先の一番上にある名前を、今日はまだ押していなかった。
帰るための手続きは得意だった。領収書を分け、上司へ到着予定を送り、翌朝の会議資料を移動中に読む。出張先で心が動いても、荷物と一緒に持ち帰らないようにしてきた。なのに、空港のベンチに座った途端、今夜この街を離れないことを少しだけ喜んでいる自分に気づいた。
高瀬と初めて会ったのは、公共施設の改修計画の打ち合わせだった。玲子は設備会社で提案資料をまとめており、彼は建物側の設計を担当していた。意見が合わないことも多かったが、彼は反対するとき、どの部分が難しいのかを具体的に説明した。玲子が持ち帰って修正すると、変わった点を必ず見つけた。
仕事が終わったあと、駅まで一緒に歩くようになった。やがて夕食も共にするようになり、彼の予約した店を一つずつ覚えた。けれど、会う日付は玲子の出張が決まってからだった。仕事がなければ会えない関係に、いつの間にか二人でしていた。
今日の会議で、計画は次の段階へ進んだ。玲子が毎月この街へ来る必要はなくなる。報告を受けた高瀬は、これで一安心ですねと言った。玲子も、よかったですと答えた。仕事としては本当にそうだった。そのあとで寂しいと言えばよかったのに、二人とも最後まで資料の話をした。
『飛行機、飛ばなかった』
既読はすぐについた。
『迎えに行く』
高瀬は、四十分後にやってきた。出張先の街で半年かけて親しくなった、四十歳の建築士。同じ会社ではない。それでも仕事で会う相手だからと、二人は互いの気持ちを予定表の隙間に押し込めていた。
「ホテル取れた?」
「まだ」
「探そう」
彼はそれ以上、何も言わなかった。玲子はその慎重さを好きになり、その慎重さに少しずつ疲れていた。
彼の車は、仕事の書類と折り畳み傘が後部座席に積まれていた。玲子は、片づけなくていいと言って自分の荷物を膝に置いた。高瀬が急いで来てくれたことは、いつも整った彼の車内が教えてくれた。
「何してたの」
「洗濯。干す前だった」
「ごめん」
「止めてきたから大丈夫。あとで回し直す」
玲子は笑った。高瀬が洗濯をするところを、初めて想像した。部屋の間取りも、使っている洗剤も知らない。仕事の考え方や好きなワインは知っているのに、日々の姿は何も見ていなかった。
移動中、玲子は航空会社の案内を確認し、翌朝の便を手配した。会社への連絡も自分で済ませた。高瀬は運転に集中し、ときどき、疲れていないかとだけ尋ねた。何もかも引き受けようとしないところが、ありがたかった。
「迎えに来るの、断ってもよかったんだよ」
玲子が言うと、彼は信号で止まり、短くこちらを見た。
「来たかったから」
その言葉を、玲子はしばらく聞き流せなかった。助けたかった、でも、心配だった、でもない。来たかったという彼自身の気持ちを、初めてそのまま渡された気がした。
駅前のホテルは、遅延した客で混んでいた。部屋を確保したあと、二人で近くのうどん屋に入った。高瀬は背広の袖をまくり、玲子の荷物を足元に寄せた。
「こういうごはん、初めてだね」
玲子が言った。
いつもは予約した店で、次の約束を曖昧にして別れる。明るい店内で隣り合い、彼が七味を多くかけるのを初めて知った。
高瀬は店員に温かいうどんを頼み、玲子の注文を先回りして決めなかった。彼女は小さな丼もつけた。朝から会議の緊張であまり食べていなかったことに、座ってから気づいた。
「いつもの店だと、足りなかった?」
「そうじゃない。でも、もう一品頼むのを迷うことはあった」
「言ってくれれば」
彼はそこで言葉を止めた。玲子も、同じことを言われたら困ると分かっていた。言いやすい雰囲気を作ることと、言う勇気を出すことは、どちらか一人だけの仕事ではない。
カウンターの奥で、店主が翌日の仕込みを始めていた。仕事帰りの二人組が短い会話をしながら麺をすすっている。特別な一夜に似つかわしくない明るさが、かえって玲子を落ち着かせた。
「俺は、こういうほうが好き」
「じゃあ、どうして誘わないの」
高瀬は箸を止めた。
「帰る人に、暮らしの話をしていいか分からなかった」
玲子は湯気を見つめた。自分も『次の出張で』とばかり言っていた。会いに来たいという言葉を、仕事の経費に隠していた。
玲子は箸を置いた。半年の間、彼から誘われなかったことばかり数えていた。自分が何度も、忙しくて休みが取れないと言ったことは数えていなかった。忙しいのは本当だったが、会いたい気持ちが見えてしまうのを避ける便利な言葉にもなっていた。
「出張のときなら、断られても仕事の予定だって思えるから」
彼女は言った。
「休みに会いたいって言うと、私のために時間を使ってって頼むことになる」
高瀬は湯飲みを両手で包んだ。
「俺は、わざわざ来てもらうほどのものがあるのかと思ってた」
「この街に?」
「俺に」
玲子はすぐに打ち消す言葉を探したが、やめた。彼が何に迷っていたかを聞くことのほうが、気軽な励ましより必要だった。
高瀬は数年前、遠距離で付き合った人と別れていた。会うたびに観光をして、帰る前には次の予定を決めた。けれど、予定を作ることに疲れたと言われたという。
「楽しくしなきゃと思って、普通の日を見せなかった」
「私も、この街に来るときは、疲れた顔を見せたくなかった」
玲子は鞄から資料の束を出しかけ、またしまった。仕事の話なら、いくらでもできる。それを盾にしている自分が見えた。
二人の失敗は似ているようで、同じではなかった。玲子には、自分の生活を崩すのが怖いという気持ちもある。休みに会えば、帰ってから家事が残る。交通費も自分で払う。それらを理由に会えないと言う前に、会いたいから調整したいと言ってもよかった。
「毎週は無理だと思う」
「俺も。土曜に現場があることもあるし」
「じゃあ、無理な週は無理って言おう。次の出張まで黙って待つんじゃなくて」
約束を小さくすると、気持ちまで小さくなると思っていた。けれど、二人が実際に守れる形にして初めて、続いていくものもあるのだろう。
「私、次は休みの日に来たい」
高瀬が彼女を見た。
「来てもいい?」
「うん。俺も、そっちに行きたい」
店を出ると、風は空港にいたころより弱くなっていた。玲子は明日の便が飛ぶかもしれないと考え、飛んでもよいと思った。帰れない理由がなくなっても、会う約束を作ることができたからだ。
高瀬は、この近くに古い水門があると話した。仕事の図面を読むために見に来た場所だという。玲子は見たいと答えた。観光名所ではなく、彼が普段足を止める場所を知りたかった。
「暗くて、よく見えないよ」
「じゃあ、次は昼に」
その言葉を出すのは、さっきより簡単だった。
ホテルの前で、彼は立ち止まった。玲子は荷物の取っ手を離し、彼の手を取った。
「少し、歩こう」
川沿いの道を、二人は肩を寄せて歩いた。橋の下で風を避けたとき、彼が玲子の頬に触れた。
「キスしてもいい?」
返事の代わりに、玲子は一歩近づいた。触れた唇は冷たく、離れたあとで温度が分かった。
橋の下では、川の流れる音よりも道路の振動が大きく響いた。高瀬は水門の仕組みを説明し始め、途中で笑った。
「また仕事の話してる」
「聞きたいよ。でも、分からないところは聞く」
玲子は欄干の向こうを指した。高瀬が専門用語を言い直すと、水の通り道が少し分かった。彼の仕事の話も、今夜は会うための口実ではなく、彼の一部として聞けた。
ホテルへ戻る道で、二人は翌朝の待ち合わせを決めた。高瀬は洗濯をやり直すために帰り、玲子は部屋で翌日の服を整えた。泊まる場所が別々であることを、気持ちの距離の証拠にしなくてよかった。
窓から見る街には、仕事で覚えた建物のほかにも、今夜歩いた道が増えていた。玲子は会社用の予定表を閉じ、自分のカレンダーを開いた。
部屋で荷ほどきをしていると、資料の間から、半年分の店のカードが出てきた。高瀬が予約した店の名前を覚えようと、玲子は毎回、一枚ずつ持ち帰っていた。仕事の領収書とは違う場所へしまうのが気恥ずかしくて、結局いつも同じ封筒に入れた。
今夜のうどん屋にはカードがなかった。玲子は財布のレシートを見つけ、何を注文したか読み返した。日付の下に二人分の料理が並んでいた。取っておかなければ今夜を忘れるわけではない。それでも、自分が何を残しておきたいかくらい、自分で決めてよかった。
彼女はレシートを私物の手帳にはさんだ。
翌朝、空港行きの交通情報を見る前に、自宅の洗濯物を思い出した。帰宅したら片づけることが幾つもある。会いに来る休日を作れば、やはりその前後は忙しくなるだろう。それでも、まだ何も始めていないうちから、無理だと決めたくなかった。
高瀬へ、朝食は何時からかと送った。彼は、駅前の店が七時に開くと返した。玲子はその店を知らなかった。仕事で何度も来た駅のそばにも、彼女の知らない朝があった。
ホテルを出ると、風は冷たかった。昨夜の欠航を知らせた画面を閉じ、玲子は自分で選んだ待ち合わせの場所へ歩いた。受付でも会議室でもなく、改札の横の小さなパン屋だった。
高瀬から、五分ほど遅れると連絡が来た。洗濯物を干すのに手間取ったという。玲子は笑い、先にパンを選んでおくと返した。相手の暮らしの都合を聞きながら待つ朝が、思いがけずうれしかった。
二人は別々の場所から駅に来た。高瀬はコーヒーを二つ持っていた。
玲子は次の搭乗券と、携帯のカレンダーを見比べた。
「再来週の土曜。何も予定ない?」
「今、できた」
高瀬が笑うと、玲子もカレンダーに彼の名前を書いた。出張という文字を足さない予定は、それだけで少し緊張した。けれど、消したくはならなかった。
最終便に乗れなかった夜を、二人は秘密の言い訳にしなかった。次に会う約束には、昼間の時間を書いた。