三十二歳になった夜、私は八年ぶりに、昔の恋人の傘に入った。
「駅まで?」
修司は私の答えを待たず、傘を少し持ち上げた。退職した同僚の送別会。その帰り道。再会の理由としては、拍子抜けするほどありふれていた。
私は左手を鞄の陰に入れた。去年まで指輪のあった場所は、もう白くない。それでも、説明するより先に見られるのが嫌だった。
「結婚は」
「してない。君は?」
「終わった」
雨が傘を叩く音だけが、しばらく会話の続きを引き受けた。
八年前、私は彼に東京を出ると言った。彼は引き留めなかった。そのことを、ずっと彼の薄情の証拠にしていた。
送別会で私は、修司の向かいから二つ離れた席にいた。退職する先輩が山歩きの話をする間、彼は鍋の火を弱め、空いた皿を重ねていた。その手つきには覚えがあったが、箸を左手に持ち替えて鞄を拾う仕草は知らなかった。
「手首、痛めたの」
帰りの傘の下で尋ねると、彼は右の袖口を引いた。薄いサポーターが見えた。
「去年、自転車で転んだ。もう平気なんだけど、雨の日は少し」
「傘、私が持つ」
「いいよ」
「平気なら、渡しても平気でしょう」
修司は不思議そうに私を見て、持ち手を渡した。私は二人の真ん中に軸を立てる。彼の歩幅は昔より遅く、私のパンプスは水を吸って重かった。勝手にかばわれるより、濡れる場所を二人で選ぶほうが今は楽だった。
私は離婚して以来、親切を受け取るのが下手になっていた。元夫は決して意地の悪い人ではなかった。ただ、私が迷っていると、より合理的な答えを先に出した。転職も、引っ越しも、休日の過ごし方も。私はそれに従っておいて、あとから不満をためた。最後には、自分が本当は何を望んでいたのか、相手にも自分にも説明できなかった。
それを修司に話すべきか迷った。昔の恋人に今の失敗を渡したら、何かの続きを引き受けさせることになる気がした。
「今日、来るか迷った」
代わりにそう言った。
「俺も。送別会の人数を見て、少なすぎるから断れなかった」
「私がいるの、知ってた?」
「一覧で見た。でも、それで来たって言うと、先輩に悪いから」
私は傘を少し上げて彼を見た。彼は笑わず、口元だけを困らせた。曖昧な言い方に逃げるところは残っていた。けれど、その逃げ道を自分で示すようになっていた。
駅前の信号は赤だった。傘の縁から落ちた雨が、私の靴の先を濡らした。
「今日は誕生日だろ」
私は顔を上げた。
「まだ覚えてるんだ」
「忘れる用事がなかったから」
その言い方が昔のままで、私は少し腹を立てた。彼はいつも、こちらが用意した防御の横を通ってくる。
駅の向かいに、まだ灯りのついた喫茶店があった。私が窓を見たのに気づいて、彼は「寄る?」と言った。
ケーキは売り切れで、店主が小さな皿に角砂糖を二つ載せてきた。「お祝いらしくなくてごめんね」。私は今日、初めて声を出して笑った。
喫茶店は以前、文房具屋だった。窓際の床に、重い棚の跡が細く残っている。私はここで初めての仕事用手帳を買った。毎日が書き込むほどのものになると思っていたころだった。
店主が閉店は九時半だと教えた。時計は八時四十分。私はスマートフォンを裏返した。母からの誕生日の連絡にも、同僚の短い祝いにも返信は済んでいる。これから五十分、誰かの用事を待たずに座っていられることが、贅沢に思えた。
「今は何してるの」
修司が尋ねた。
私は出版社を辞め、地元の小さな食品会社で商品説明を書いていると話した。昔、地方へ移ると決めたのは、雑誌の編集職に就けるからだった。彼に応援されたいと思いながら、寂しがってほしいとも思っていた。矛盾を言葉にするには、当時の私は若すぎたのではない。ただ、負けることのように思っていた。
「書く仕事は続けてるんだな」
「華やかな文章じゃないよ。袋の裏にある、保存方法とか」
「必要な文章だ」
私はその返事をすぐには信用しなかった。慰めとしてなら、いくらでも言える。すると修司は、先日母親に送った菓子の話をした。歯が弱くなった母親が食べられるか、原材料より食感の説明を先に読んだという。
私は笑って、うちの商品ではないと言った。彼も笑った。立派な仕事だという大げさな言葉より、誰かが袋を裏返すところを想像できる話がうれしかった。
「修司は?」
「まだ設計事務所。去年、小さいほうに移った」
理由は父親の通院だった。仕事を減らしたのではなく、通勤を短くしたという。私の知らない彼の毎日には、病院の受付や、混む時間を避けたスーパーや、父親の好きな固いパンがあった。昔の彼を保存していた記憶の箱に、その生活は入らなかった。
「大変なんだね」
「大変な日もある。でも全部そういう話にすると、親父に怒られる」
「そうか」
私は父親に会ったことがない。会わなかった人の老いまで、八年には含まれている。
修司の右肩は濃く濡れていた。
「そっちばっかり濡れてる」
「昔もそうだった」
「昔の話、しないで」
彼はうなずいた。言われたとおり、本当に黙った。
私はコーヒーを一口飲んでから尋ねた。
「どうして、あのとき止めなかったの」
修司はカップを置いた。
「止めてほしかったの?」
その質問に、八年ぶんの言い訳がほどけた。私はうなずいた。彼は、ああ、と小さく息を吐いた。
「行きたいって言う人の、邪魔をしたくなかった。格好つけたんだよ」
「引き留めて、行くなって言われたら、私は怒ったと思う」
言ってから、身勝手さに唇を噛んだ。修司は少し笑った。
「たぶんな」
「でも、遠くても会おうって、言ってほしかった」
「それは、言えた」
彼は言い訳を続けなかった。私は角砂糖の一つをコーヒーに落とした。表面に小さな波ができ、すぐに消えた。
「あのとき、私からも聞けばよかった。来てくれる、って」
「うん」
「ひと言言えば済んだみたいに思うと、腹が立つね」
「ひと言を言うのが難しかったから、八年たったんだろうな」
私は結婚したことを後悔しているわけではないと話した。楽しかった日も、支えられた日もある。ただ、うまくいかなかった。修司は前の相手を悪く言わず、私を無理に慰めずに聞いた。それがありがたく、同時に少し心細かった。誰かを悪者にすれば、今夜の自分をもっと簡単に説明できたはずだった。
「私、帰ってきたから会いたくなっただけかもしれない」
「それでもいいと思う」
「よくないよ。懐かしさで人を使いたくない」
修司は皿の上のもう一つの角砂糖を眺めた。
「じゃあ、俺が今、砂糖を入れないことも覚えて帰って。昔は二つ入れてた」
思いもよらない返事だった。私は彼のカップを見た。表面にはもう湯気がない。
「その程度でいいの?」
「その程度からしか、今のことは分からないだろ」
私たちは、互いの休みの曜日を話した。昔一緒に見ていた映画の続編を、彼は見ていなかった。私が嫌いだった生のトマトは、今は食べられた。彼は泳げるようになり、私は自動車の運転をやめていた。小さな情報が、失った時間を埋める代わりに、目の前の人を少しずつ知らない人にした。それは思いがけず、安心できることだった。
九時二十分、店主が外の看板をしまいに出た。私は財布を出し、二人分を払おうとする修司の手を止めた。誕生日だから、と彼は言った。
「じゃあ、コーヒーはお願いする。次は私が」
口にしてから、次という言葉に二人とも気づいた。修司はその意味を急いで確かめなかった。
窓の外で、雨は細くなっていた。互いの間違いを数えれば、夜が明ける。それでも今夜は、数えなくていい気がした。
席を立つ前に、修司が小さな紙袋を鞄から取り出した。送別会で先輩が皆に配った、手作りの木の栞だった。表には退職後に住む町の山が焼き印で描かれている。
「こういうの、前はすぐなくした」
「知ってる。映画の半券も」
「今は箱に入れてる。父親が入院するとき、家の物を探して、何も残ってないのに驚いたんだ」
私は自分の分を袋から出した。細い木には、指で撫でると分かる程度のささくれがあった。
「残しておけばよかったもの、ある?」
修司はすぐには答えなかった。私が期待する答えを選んでいるようにも見えたが、彼が次に言ったのは、古い台所の写真だった。
「前の家を壊したとき、外観ばかり撮った。中でどんなふうに座ってたか、思い出せなくなってきた」
私は、自分たちのことを言ってほしかったのだと気づいた。今もまだ、彼の言葉を自分のための証拠にしようとしている。その癖を今夜一度で直せるとは思わなかった。
「私は、今の部屋の写真を撮ってみようかな」
「まだ撮ってない?」
「片づいてから、と思って」
「片づく前も、住んでるだろ」
私の部屋には引っ越しの箱が二つ残っていた。一つは台所用品で、もう一つは開けなくても暮らせるものだった。結婚していた家から運んだそれらを、私は過去の検査を受けるような気持ちで避けていた。修司に手伝ってほしいとは思わない。けれど、誰かと会って帰った夜に開けるなら、少しは違うかもしれなかった。
店主が会計の伝票を伏せた。雨宿りの時間は終わりに近づいていた。私は修司の連絡先が昔のままか尋ねた。
「番号は変わってない。そっちは?」
「変えた。教える」
私から画面を差し出した。彼が登録した名前には、名字がついていた。二人とも笑わなかった。それでよかった。昔の呼び方に戻る前に、今の連絡先を渡す順番が、私には必要だった。
「もう一杯だけ」
私が言うと、彼は店主を呼ぼうとした。その袖を、私は指先でつまんだ。
「コーヒーじゃなくて。もう少し、一緒にいて」
修司は私を見た。昔の呼び方が唇に浮かんで、でも、まだ声にはならなかった。
店を出るころには、雨はやんでいた。歩道の水たまりに看板の灯りが残っている。修司は右へ行く私に合わせる前に、どちらの改札を使うのかと尋ねた。私は、今日は遠いほうまで歩きたいと答えた。畳まれた傘が二人の間にぶら下がる。私は自分から、その向こうの手に触れた。
「由佳」
八年ぶりに呼ばれた名前は、思っていたよりも、新しかった。