夜の余白YORU NO YOHAKU
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長めの短編 01 / 雨の夜 / 約11分

雨がやむまで、名前を呼ばない

相合い傘より近い、名前のない距離。

*

三十二歳になった夜、私は八年ぶりに、昔の恋人の傘に入った。

「駅まで?」

修司は私の答えを待たず、傘を少し持ち上げた。退職した同僚の送別会。その帰り道。再会の理由としては、拍子抜けするほどありふれていた。

私は左手を鞄の陰に入れた。去年まで指輪のあった場所は、もう白くない。それでも、説明するより先に見られるのが嫌だった。

「結婚は」

「してない。君は?」

「終わった」

雨が傘を叩く音だけが、しばらく会話の続きを引き受けた。

八年前、私は彼に東京を出ると言った。彼は引き留めなかった。そのことを、ずっと彼の薄情の証拠にしていた。

送別会で私は、修司の向かいから二つ離れた席にいた。退職する先輩が山歩きの話をする間、彼は鍋の火を弱め、空いた皿を重ねていた。その手つきには覚えがあったが、箸を左手に持ち替えて鞄を拾う仕草は知らなかった。

「手首、痛めたの」

帰りの傘の下で尋ねると、彼は右の袖口を引いた。薄いサポーターが見えた。

「去年、自転車で転んだ。もう平気なんだけど、雨の日は少し」

「傘、私が持つ」

「いいよ」

「平気なら、渡しても平気でしょう」

修司は不思議そうに私を見て、持ち手を渡した。私は二人の真ん中に軸を立てる。彼の歩幅は昔より遅く、私のパンプスは水を吸って重かった。勝手にかばわれるより、濡れる場所を二人で選ぶほうが今は楽だった。

私は離婚して以来、親切を受け取るのが下手になっていた。元夫は決して意地の悪い人ではなかった。ただ、私が迷っていると、より合理的な答えを先に出した。転職も、引っ越しも、休日の過ごし方も。私はそれに従っておいて、あとから不満をためた。最後には、自分が本当は何を望んでいたのか、相手にも自分にも説明できなかった。

それを修司に話すべきか迷った。昔の恋人に今の失敗を渡したら、何かの続きを引き受けさせることになる気がした。

「今日、来るか迷った」

代わりにそう言った。

「俺も。送別会の人数を見て、少なすぎるから断れなかった」

「私がいるの、知ってた?」

「一覧で見た。でも、それで来たって言うと、先輩に悪いから」

私は傘を少し上げて彼を見た。彼は笑わず、口元だけを困らせた。曖昧な言い方に逃げるところは残っていた。けれど、その逃げ道を自分で示すようになっていた。

駅前の信号は赤だった。傘の縁から落ちた雨が、私の靴の先を濡らした。

「今日は誕生日だろ」

私は顔を上げた。

「まだ覚えてるんだ」

「忘れる用事がなかったから」

その言い方が昔のままで、私は少し腹を立てた。彼はいつも、こちらが用意した防御の横を通ってくる。

駅の向かいに、まだ灯りのついた喫茶店があった。私が窓を見たのに気づいて、彼は「寄る?」と言った。

ケーキは売り切れで、店主が小さな皿に角砂糖を二つ載せてきた。「お祝いらしくなくてごめんね」。私は今日、初めて声を出して笑った。

喫茶店は以前、文房具屋だった。窓際の床に、重い棚の跡が細く残っている。私はここで初めての仕事用手帳を買った。毎日が書き込むほどのものになると思っていたころだった。

店主が閉店は九時半だと教えた。時計は八時四十分。私はスマートフォンを裏返した。母からの誕生日の連絡にも、同僚の短い祝いにも返信は済んでいる。これから五十分、誰かの用事を待たずに座っていられることが、贅沢に思えた。

「今は何してるの」

修司が尋ねた。

私は出版社を辞め、地元の小さな食品会社で商品説明を書いていると話した。昔、地方へ移ると決めたのは、雑誌の編集職に就けるからだった。彼に応援されたいと思いながら、寂しがってほしいとも思っていた。矛盾を言葉にするには、当時の私は若すぎたのではない。ただ、負けることのように思っていた。

「書く仕事は続けてるんだな」

「華やかな文章じゃないよ。袋の裏にある、保存方法とか」

「必要な文章だ」

私はその返事をすぐには信用しなかった。慰めとしてなら、いくらでも言える。すると修司は、先日母親に送った菓子の話をした。歯が弱くなった母親が食べられるか、原材料より食感の説明を先に読んだという。

私は笑って、うちの商品ではないと言った。彼も笑った。立派な仕事だという大げさな言葉より、誰かが袋を裏返すところを想像できる話がうれしかった。

「修司は?」

「まだ設計事務所。去年、小さいほうに移った」

理由は父親の通院だった。仕事を減らしたのではなく、通勤を短くしたという。私の知らない彼の毎日には、病院の受付や、混む時間を避けたスーパーや、父親の好きな固いパンがあった。昔の彼を保存していた記憶の箱に、その生活は入らなかった。

「大変なんだね」

「大変な日もある。でも全部そういう話にすると、親父に怒られる」

「そうか」

私は父親に会ったことがない。会わなかった人の老いまで、八年には含まれている。

修司の右肩は濃く濡れていた。

「そっちばっかり濡れてる」

「昔もそうだった」

「昔の話、しないで」

彼はうなずいた。言われたとおり、本当に黙った。

私はコーヒーを一口飲んでから尋ねた。

「どうして、あのとき止めなかったの」

修司はカップを置いた。

「止めてほしかったの?」

その質問に、八年ぶんの言い訳がほどけた。私はうなずいた。彼は、ああ、と小さく息を吐いた。

「行きたいって言う人の、邪魔をしたくなかった。格好つけたんだよ」

「引き留めて、行くなって言われたら、私は怒ったと思う」

言ってから、身勝手さに唇を噛んだ。修司は少し笑った。

「たぶんな」

「でも、遠くても会おうって、言ってほしかった」

「それは、言えた」

彼は言い訳を続けなかった。私は角砂糖の一つをコーヒーに落とした。表面に小さな波ができ、すぐに消えた。

「あのとき、私からも聞けばよかった。来てくれる、って」

「うん」

「ひと言言えば済んだみたいに思うと、腹が立つね」

「ひと言を言うのが難しかったから、八年たったんだろうな」

私は結婚したことを後悔しているわけではないと話した。楽しかった日も、支えられた日もある。ただ、うまくいかなかった。修司は前の相手を悪く言わず、私を無理に慰めずに聞いた。それがありがたく、同時に少し心細かった。誰かを悪者にすれば、今夜の自分をもっと簡単に説明できたはずだった。

「私、帰ってきたから会いたくなっただけかもしれない」

「それでもいいと思う」

「よくないよ。懐かしさで人を使いたくない」

修司は皿の上のもう一つの角砂糖を眺めた。

「じゃあ、俺が今、砂糖を入れないことも覚えて帰って。昔は二つ入れてた」

思いもよらない返事だった。私は彼のカップを見た。表面にはもう湯気がない。

「その程度でいいの?」

「その程度からしか、今のことは分からないだろ」

私たちは、互いの休みの曜日を話した。昔一緒に見ていた映画の続編を、彼は見ていなかった。私が嫌いだった生のトマトは、今は食べられた。彼は泳げるようになり、私は自動車の運転をやめていた。小さな情報が、失った時間を埋める代わりに、目の前の人を少しずつ知らない人にした。それは思いがけず、安心できることだった。

九時二十分、店主が外の看板をしまいに出た。私は財布を出し、二人分を払おうとする修司の手を止めた。誕生日だから、と彼は言った。

「じゃあ、コーヒーはお願いする。次は私が」

口にしてから、次という言葉に二人とも気づいた。修司はその意味を急いで確かめなかった。

窓の外で、雨は細くなっていた。互いの間違いを数えれば、夜が明ける。それでも今夜は、数えなくていい気がした。

席を立つ前に、修司が小さな紙袋を鞄から取り出した。送別会で先輩が皆に配った、手作りの木の栞だった。表には退職後に住む町の山が焼き印で描かれている。

「こういうの、前はすぐなくした」

「知ってる。映画の半券も」

「今は箱に入れてる。父親が入院するとき、家の物を探して、何も残ってないのに驚いたんだ」

私は自分の分を袋から出した。細い木には、指で撫でると分かる程度のささくれがあった。

「残しておけばよかったもの、ある?」

修司はすぐには答えなかった。私が期待する答えを選んでいるようにも見えたが、彼が次に言ったのは、古い台所の写真だった。

「前の家を壊したとき、外観ばかり撮った。中でどんなふうに座ってたか、思い出せなくなってきた」

私は、自分たちのことを言ってほしかったのだと気づいた。今もまだ、彼の言葉を自分のための証拠にしようとしている。その癖を今夜一度で直せるとは思わなかった。

「私は、今の部屋の写真を撮ってみようかな」

「まだ撮ってない?」

「片づいてから、と思って」

「片づく前も、住んでるだろ」

私の部屋には引っ越しの箱が二つ残っていた。一つは台所用品で、もう一つは開けなくても暮らせるものだった。結婚していた家から運んだそれらを、私は過去の検査を受けるような気持ちで避けていた。修司に手伝ってほしいとは思わない。けれど、誰かと会って帰った夜に開けるなら、少しは違うかもしれなかった。

店主が会計の伝票を伏せた。雨宿りの時間は終わりに近づいていた。私は修司の連絡先が昔のままか尋ねた。

「番号は変わってない。そっちは?」

「変えた。教える」

私から画面を差し出した。彼が登録した名前には、名字がついていた。二人とも笑わなかった。それでよかった。昔の呼び方に戻る前に、今の連絡先を渡す順番が、私には必要だった。

「もう一杯だけ」

私が言うと、彼は店主を呼ぼうとした。その袖を、私は指先でつまんだ。

「コーヒーじゃなくて。もう少し、一緒にいて」

修司は私を見た。昔の呼び方が唇に浮かんで、でも、まだ声にはならなかった。

店を出るころには、雨はやんでいた。歩道の水たまりに看板の灯りが残っている。修司は右へ行く私に合わせる前に、どちらの改札を使うのかと尋ねた。私は、今日は遠いほうまで歩きたいと答えた。畳まれた傘が二人の間にぶら下がる。私は自分から、その向こうの手に触れた。

「由佳」

八年ぶりに呼ばれた名前は、思っていたよりも、新しかった。

了Thank you for reading.

もう少し、夜のつづきを。

指輪を外した、金曜日 →
ABOUT THIS LIBRARY

恋の、その先の余白。

「夜の余白」は、成人同士の恋愛と日々の心の動きを描く、オリジナル短編の書庫です。再会、秘密、別れ、そして新しい一歩。眠る前のひとときに、ひとつの物語を。

全130篇を無料でお読みいただけます。約10分で楽しめる短編を中心に、さまざまな恋の物語を集めました。作品はAIを用いて制作しています。露骨な性描写は含みません。

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運営名:夜の余白
初版:2026年10月21日
更新:2026年10月23日
収録:恋愛短編130篇(うち読了目安10分以上100篇)