河川沿いのパン工房には、雨の夜だけ裏口が開いていた。熱気を逃がすためだと、後で知った。初めてそこから光が漏れているのを見たとき、由紀は地図を確認しようと、建物の庇を借りただけだった。
午後十一時、雨量計の通信が途切れたという知らせで現場へ来た。河川管理の技術職に就いて十九年になる。四十二歳になっても、雨の中で端末を扱うのは苦手で、手袋を外した指先はすっかり冷えていた。
「充電ですか」
裏口から男が顔を出した。由紀は顔を上げ、首を振った。
「道を確認していて。すぐ行きます」
「電波、ここは弱いですよ。表の道路に出ると入ります」
男は建物の角を指した。白い前掛けの腹の辺りに粉がついていた。由紀が礼を言うと、彼は透明な袋を一つ差し出した。
「形が崩れたので。温かいうちなら、持つだけでも」
中には丸くなり損ねた胡桃パンが入っていた。由紀は仕事中なのでと断りかけ、自分の胃が空であることを思い出した。代金を払おうとすると、商品には出せないものだからと言われた。
パンは本当に温かかった。現場の雨量計は、落葉で受水口が塞がっていた。由紀は掃除をし、通信の復旧を確認した。車へ戻ってパンを食べると、胡桃の皮のかすかな苦さがした。
礼を言いに行ったのは、十日後の夜だった。雨量計の点検を終えた帰りに、今度は表の入口を訪ねた。店は午後七時に閉まり、工房では翌朝の仕込みが始まっていた。
男は高瀬と名乗った。四十七歳で、数年前に共同経営者が抜け、今は従業員二人と店を続けているという。
由紀は差し入れに持ってきた茶を渡した。高瀬は礼を言い、もう一度袋を持ち出そうとしたので、それでは終わりがなくなると笑って止めた。
「じゃあ、茶を飲んでいきませんか。湯はあります」
彼は工房の奥の折畳み椅子を引いた。床は乾いていたが、由紀は靴の裏を何度も確かめた。
高瀬の下の名前は恒夫だった。由紀が河川の仕事だと知ると、彼は裏口の床に刻まれた一本の線を見せた。十七年前の水害で、ここまで水が来たのだという。線は塗料ではなく、壁の張り替えをしたときに残した小さな金属の印だった。
「あのときのこと、覚えてます」
由紀は言った。新人のころで、事務所の電話を取り続けた。誰かが助けを求めても、その場で約束できることは少なかった。
「ここのパン窯は、二台とも駄目になりました」
恒夫は軽く言ってから、少し黙った。
「うちの父が、あの晩ここに残っていて。無事だったけど、僕は東京にいて、何も知らなかった」
由紀は茶の紙コップを両手で包んだ。話を聞き終えても、次の話題を探さなくていい沈黙だった。
由紀は帰りが遅い日に、店の表へ回るようになった。いつでも入るわけではない。照明が半分落ちていれば、邪魔をせず帰った。恒夫も彼女の仕事先へ電話をしたりはしなかった。代わりに、店頭の売切れ札の脇に、小さな茶の絵が置かれるようになった。それが出ている日は、少しなら座れるという合図だった。
三度目の茶の夜に、由紀は、自分には子どもがいないことを話した。結婚もしていなかった。以前つきあっていた人は、夜中に呼び出される仕事を辞めてほしいと言った。彼が心配からそう言ったことも、由紀は知っていた。
「心配されるのは嫌なんですか」
恒夫が尋ねた。
「心配のあと、決まって私の答えを変えようとするのが、苦手でした」
「僕も、うちに就職する前のことを、逃げて帰ったみたいに言われると困ります。実際、少しは逃げたのかもしれないけど」
彼は東京でホテルの製パンをしていた。父親の腰が悪くなり、帰郷を決めた。望んだ道と、引き受けた道を、恒夫は簡単に分けていなかった。
由紀はその夜、連絡先を尋ねた。恒夫は粉を洗い落としてから携帯を持ってきた。画面の文字が大きく、彼が照れたので、由紀は私のも同じ設定だと見せた。二人は数字ばかりの連絡先の間に、互いの名前を入れた。
六月の強い雨は、予報より南へ寄った。川の水位が上がり、事務所の人員が増やされた。由紀は町を巡回する車の中で、パン工房の裏口の線を思い出した。
避難の準備を促す情報が出たとき、恒夫から連絡があった。仕込みを止める目安を知りたいという内容だった。由紀は公表されている水位と、自治体の情報の見方を送り、早めに高い場所へ移動してほしいと書いた。
『あと一時間焼けば、朝の注文分だけは間に合う』
返事を見て、由紀は唇を噛んだ。
『一時間後の安全は約束できません』
送信してから、公的な応答のようだと思った。けれど彼の店だけの未来を、由紀に断言することはできなかった。
三十分後、巡回経路にある工房の前を通った。裏口にはまだ灯りがあった。由紀は同乗者に断り、車の窓から恒夫へ声をかけた。彼は濡れた箱を二段重ねていた。
「窯は止めました。今、材料を上へ」
その説明を最後まで聞かず、由紀は、もう出てください、と言った。恒夫の顔が強張った。
「指示なんですか。それとも、由紀さんが言ってるんですか」
一瞬、答えられなかった。後方から来た別の車に道を空けなければならず、由紀は二階に運ぶなら手伝いを呼んでと伝えて発車した。
その晩、川は護岸を越えず、低い道路が一部冠水しただけだった。由紀は事務所で仮眠を取り、朝には別の現場へ向かった。恒夫からは、従業員と全員で高台へ移ったこと、店内に水は入らなかったことが届いていた。
『よかったです』と返し、それ以上の言葉が見つからなかった。
三日後、由紀は雨のない夜に店を訪ねた。茶の絵は出ていなかったが、裏口の横で恒夫が空の台車を拭いていた。
「この前、怖かったんです」
由紀は先に言った。
「私が何を知っていても、あなたがここに残るかもしれないことが」
恒夫は布を止めた。
「窯を止めたあとに、声をかけられて。まだ残ろうとしているように見えたんだなと思った」
「ごめんなさい。説明を聞く余裕がなかった」
「いや。あのとき僕は、父と同じことをしてたかもしれない。あと少しならと思って。材料は、上へ運んだら自分で戻せました。命が助かれば、ですけど」
由紀は頷いた。笑って済ませるには、どちらも覚えている水の高さがあった。
「指示か、私の言葉かって訊きましたね」
「はい」
「両方です。仕事でも言います。でも、あなたには、私がまた会いたいから帰ってほしかった」
恒夫は台車を壁際へ押した。由紀に向き直るまでの時間が長く感じられた。
「僕も、また会いたいです。雨の降ってない日にも」
由紀は、今は降っていない、と言った。恒夫は空を見て、ようやく笑った。
それから二人は、店の外でも会うようになった。由紀の休日と恒夫の定休日が重なるのは月に一度ほどだったが、海辺まで電車に乗ったり、何でもない夕食を一緒に作ったりした。恒夫はパン以外の料理が不得手で、由紀は量を多く作りすぎた。互いの苦手は、少しずつ冷蔵庫の中で折り合った。
秋、由紀の部屋に恒夫の傘が一本増えた。紺色の大きな傘で、先端の石突きだけ白い。彼が帰ったあと、玄関にあるそれを見ると、由紀は翌朝の雨を少しだけ楽しみにしてしまう。
ある夜、雨の音で目が覚めた。携帯を確認すると、呼び出しはなかった。隣で眠っていた恒夫が、彼女の動く気配に目を開けた。
「仕事?」
「違う。今は大丈夫」
彼は頷き、もう一度眠ろうとした。由紀はその額に短く口づけをした。恒夫が笑い、布団の中で彼女の手を探した。
朝になって、由紀は二人分の汁物を温めた。恒夫は前夜に持ってきた丸いパンを切った。真ん中にだけ少し大きな穴が開いていた。
「これも形が崩れたやつ?」
「これは売れます。ちゃんと買ってきました、自分の店で」
窓の外はまだ雨だった。由紀は空いた皿を彼の方へ寄せた。パンの切り口に湯気が触れ、二人で使う食卓の上に、ゆっくり朝の明るさが降りてきた。