十メートル泳ぐごとに、透子は立った。市営プールの一番端は水深が浅い。壁に手をついて戻れば、誰の邪魔にもならない。四十五歳で初めて水泳を習い始めたのは、医者に肩を動かすよう言われたからだったが、三回目には、泳いでいる間だけ電話の音を聞かなくて済むことが気に入っていた。
透子は録音技師だった。映像作品に必要な、足音や風や生活音を集める。耳が仕事道具である人間にとって、水の中の静けさは贅沢だった。前の交際相手と別れて半年、名前を呼ばれることそのものに、まだ少し身構えてしまう。
「最後に一度、息を吐く方だけ練習しますか」
閉館十五分前、監視台から下りた男が尋ねた。胸に付けた名札には峯岸とある。濡れていない床を選ぶように歩く人だった。
「沈んだら、引き上げてもらえます?」
「ここだと、立てば大丈夫です」
正確すぎる返事が可笑しかった。透子は水中に顔を沈め、教えられた通り口から細く息を出した。男の指が水面の上でゆっくり数を刻んだ。五つ目で顔を上げると、彼は近すぎない場所にいた。
「息、出ました」
「出ましたね」
透子は子どものように報告した自分を恥じ、彼はその恥ずかしさを見ないふりで次のコースロープを直した。
峯岸は三十九歳で、下の名前を悠人と言った。監視のほかに初心者教室も受け持つ。競泳選手だったという話は別の利用者から聞いたが、本人は昔からここで泳いでいただけだと笑った。
透子が通うのは火曜と金曜の夜だった。二十五メートルを泳げた日に、悠人は大げさに褒めず、戻りも同じ呼吸で行けると思いますとだけ言った。期待されると逃げたくなる透子には、その小ささがちょうどよかった。
ある金曜、閉館後のロビーで、透子は録音機の電池を取り替えていた。明朝の仕事へ直接向かうため、道具一式を持ってきていたのだ。悠人が掃除の道具を片づけながら、何を録るのかと尋ねた。
「明日は、夜明けの港。船じゃなくて、荷台を引く車輪の音です」
「そんな音を、誰かが欲しがるんですね」
「映像の人は、車輪を回して撮っても、音は後から欲しいんです」
悠人は頷き、しばらく黙ってから、閉館したプールの音も要るだろうかと言った。誰もいない夜の水面は、泳いでいるときと違う音を立てるらしい。
透子は職員の許可が要るだろうと答えた。個人的に入り込むつもりはなかった。悠人は責任者に話してみると言い、翌週には正式な申込書を持ってきた。撮影のない、音だけの利用は初めてだという。
録音をしたのは月末の休館日前夜だった。ポンプを止めるわけにはいかないので、低い機械音がずっと入る。透子は水面近くへマイクを向け、ヘッドホンを悠人に貸した。
彼は聴いた途端、笑うのをやめた。遠くの管を水が通る音、コースロープに波が触れる音。いつもここにあったものが、薄い耳当ての向こうで近くなったのだろう。
「泳げない時期に、これを聴きたかったな」
彼はヘッドホンを外して言った。
悠人は膝の手術のあと、選手をやめた。復帰するつもりで訓練を続けたが、昔の記録を追うほど痛みが増した。今も泳げるが、全力では泳がない。
「教えるのは好きです。でも、好きなら悔しくないはずだと思われるのが、ときどき面倒で」
透子は録音を止めた。
「今の話、入ってませんよ」
彼は安心した顔をしてから、ありがとうと言った。
そのあと二人は、施設裏の自販機で飲物を買った。悠人は透子の仕事を面白そうだと言い、透子は、面白くない日もかなりあると話した。二人とも笑った。自分の大切なものを、他人に大切そうに説明し続けることに疲れていた。
連絡先を交換したのはその晩だった。透子は帰宅して、プールの録音から短い音源を作った。業務上の資料とは別に、本人だけが聴くためのものとして送った。悠人からは、眠る前に三回聴きました、と返ってきた。
透子に半年の地方滞在の仕事が決まった。山あいの町で記録映画を作る。現地に住みながら、季節が変わる音を集める仕事だった。ずっと望んでいた条件で、断る理由はなかった。
悠人と食事へ行くようになって、まだ二か月だった。最初にその話をしたとき、彼は箸を置いた。
「いい仕事なんですよね」
「そう。戻ったあとも、次があるかもしれない」
「じゃあ、行った方がいいですね」
予想した答えだった。それでも透子は、少し引き止めてほしかった自分を隠せなかった。
「別に、許可がほしくて話したんじゃないです」
悠人は顔を上げた。
「分かっています。ただ、前に、一緒に住んでた人が海外の仕事を断ったことがあって。僕のためだと言われたまま別れたから」
「私はその人じゃない」
「はい」
彼の返事の速さに、透子はかえって腹が立った。自分の過去で、今の自分が測られるのが嫌だった。けれど彼女もまた、返事を待たされると、以前の交際相手から無視された夜を思い出す。
食事は静かになり、店を出ると別々の駅へ向かった。透子は出発の準備を進めた。水泳を休む連絡は施設へしたが、悠人へは何も送らなかった。
録音機のケースを閉じる前夜、透子はプールの音を聴いた。波の小さな音のあとに、マイクから離れた所で悠人が息を吸う気配があった。彼が言葉を選んでいた間だった。黙っていることを、彼女は一度も好意の形として受け取っていなかったと気づいた。
『会ってから出発したいです。私から、誘います』
連絡すると、三十分後に返事が来た。夜の九時なら、という短いものだった。
出発二日前、二人は営業を終えたプールの玄関前で会った。透子は小さな封筒を渡した。録音の日に悠人が署名した利用報告書の控えだった。返すのを忘れていたが、口実にはしないと決めていた。
「許可じゃなくて、寂しいって聞きたかったです」
透子が言うと、悠人は封筒を握った。
「寂しいです。行ってほしくないと思いました。それを言ったら、僕のことを重く感じるかもしれないと思って」
「重さがある方が、持つかどうか選べます」
自分で言って、透子は少し笑った。音のない荷物は、持てない。
「私は行きます。でも、終わりにしたいとは思っていない。半年後を約束するのは、今はまだ怖いです」
悠人は、分かりましたとは言わなかった。考えるように玄関の床を見た。
「来月の連休、そちらへ行ってもいいですか。いきなり半年後じゃなくて、その日を約束したい」
透子は頷いた。それなら、手帳へ書ける。
二人で駅まで歩き、改札の手前で足を止めた。悠人が肩に触れ、透子の顔を見た。彼女は目を閉じる前に、いいよ、と小さく言った。初めての口づけは、彼の掌よりずっと短く、温かかった。
一か月後、山あいの町の駅で、透子はバスの到着を待っていた。悠人は慣れない坂道を歩くための靴を買ったと言い、写真まで送ってきた。透子は雨のあとに石段が滑ると返信した。来る人がいると、仕事で記録する町にも、別の目印が増える。
停留所の脇には、小さな足湯があった。透子は一人で来たときには素通りしていたが、今日は看板の営業時間を確かめた。悠人が膝を温めたいと言うかもしれない。そのために予定を決めてしまわず、選べる道を一つ増やして待った。
携帯が鳴り、山道で少し遅れていると連絡が来た。透子は売店で茶を買い、『着いたら、まず何か食べたい?』と返した。
バスから降りた悠人は、旅慣れない大きな鞄を持っていた。透子は片方を持つと言いかけ、やめて、代わりに手を差し出した。
「こっちの音、聴きに行きましょう」
彼は鞄を持ち替えた。二人の足音は、しばらく揃わなかった。坂の途中で自然に同じ速さになり、透子はそのまま、録音機を鞄へしまって歩いた。