夜の余白YORU NO YOHAKU
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長めの短編 128 / ほどける恋 / 約8分

袖口に残る藍

夜の繕い教室で出会ったふたりは、古い上着を直しながら互いの距離を測る。

*

紗和が夜の繕い教室に持ってきたのは、自分の服ではなかった。海老茶の肘当てがついた男物の上着で、裏地に小さな破れがある。机の向かいに座った男は、それを見て一度だけ目を上げ、また糸巻きへ視線を戻した。

「裏地は、表に針を出さないようにします」

講師が言った。紗和は針を持ったまま固まった。三十二歳の歯科技工士は、米粒ほどの金属を削ることには慣れている。だが柔らかい布は、力を入れた分だけ歪んだ。

「少し、手を緩めると」

向かいの男が自分の布を見せた。彼が繕っているのは藍色の仕事着で、袖口が薄くなっていた。

「私は引き締める方の仕事なんです。向いてないのかも」

紗和が言うと、男は細い眼鏡の奥で笑った。

「僕は紙の補修です。濡らすとすぐ破れるのに、いまだに失敗する」

四十歳の修復技術者で、町の資料室に勤めているという。名札には矢野修とあった。紗和は、自分に似合わない教室へ来てしまった居心地の悪さを、彼の失敗の話で少しだけ忘れた。

上着は、去年離婚した夫から返してほしいと言われていた。持ち主は破れに気づいてもいない。直してから返すという行為に、紗和はまだ妻だった時間を縫い込もうとしているのかもしれなかった。

教室は水曜日の午後八時からだった。駅前の地域センターでは、隣の部屋で民謡の練習をしている。歌声が止むと、壁の時計の秒針が急に大きく聞こえる。

紗和と修はいつも向かいに座るようになった。彼は糸の端を揃える癖があり、紗和は裁縫箱の蓋を開けたままにしてしまう。閉じましょうか、と初めに尋ねられたとき、紗和は反射的に、すみませんと言った。

「いや、何か置くなら開けておきます」

彼は手を戻した。

前の夫は、整頓が好きだった。紗和も初めは同じだった。忙しい日々の中で、出したままの物を片づけてもらうたび、借りが増えるように思うようになった。片づけてくれたことに礼を言うべき場面で、責められた気になった。その積み重ねを、離婚の説明にするのは幼いだろうか。

紗和は上着の最後の糸を切り、箱の蓋を自分で閉じた。

帰り道、修は資料室の閉室時間のことを話した。水曜だけ夜まで開いており、教室へ来る日は最後の一時間を同僚に代わってもらうのだという。

「わざわざ、そこまでして習いたいんですね」

「家でやると、途中でやめてしまうから」

修は藍の袖を手提げにしまった。その仕事着は妻が縫ったもので、彼女は四年前に亡くなっていた。紗和は一瞬、歩き方を忘れた。

「使い続けるつもりだったんですが、もう布が弱くて」

修は感傷を求めるふうでもなく言った。紗和は、薄くなった袖を見ていたときの彼の丁寧な指つきを思い出した。

上着を返した翌週、紗和は教室を休んだ。元の夫に会ったのは駅の改札だった。彼は礼を言い、再婚するので部屋を整理していると話した。上着の内ポケットには、紗和が昔入れた映画の半券が残っていた。彼はそれを取り出して、要るかと尋ねた。

要らない、と答えた声だけが耳に残っている。

欠席の連絡を講師へ送ったあと、修からも短いメッセージが来た。教室の連絡用に作ったグループで彼の名前を見ることはあっても、直接届くのは初めてだった。

『今日はボタン穴でした。難しかったので、来週一緒にもう一度習えたら助かります』

紗和は携帯を伏せた。心配されたくないと思いながら、心配してほしかった。夜半に、上着を返したら糸を切りすぎた気がすると返信した。修の返事は朝に来た。

『全部の糸を残すわけにはいかないけれど、今切らなくていいものもありますね。来週、席は空けます』

翌水曜、紗和は自分のシャツを持っていった。左の袖口のボタンが一つ取れている。修は理由を訊かず、余った糸を二色並べて、どちらが合うかと尋ねた。白いシャツに、紗和は薄い赤を選んだ。

教室のあと、二人は駅前の定食屋へ入った。修は初めて熱い物を食べる人のように、汁椀を両手で持った。話してみると、彼は仕事以外のことに驚くほど詳しくなかった。紗和が好きな映画を一つ挙げると、題名を聞き違えたまま真剣にあらすじを想像した。紗和は久しぶりに、笑って箸を落とした。

季節がひとつ変わるころ、修が妻の裁縫道具を紗和へ持ってきた。使わないままになっているので、よければ、と言う。木の箱には真鍮の鋏、針山、細い絹糸が収まっていた。紗和は箱を開け、すぐ閉じた。

「これは受け取れないです」

修の表情が曇った。

「古いけれど、よく切れるので」

「そういうことじゃなくて」

彼は分かっていなかった。紗和は説明しながら、自分の声が子どもじみていくのを感じた。

「私、あなたと会うのを楽しみにしてるんです。でも、奥さんの続きをするためじゃないです」

修は箱に手を添えたまま動かなかった。教室の廊下に、民謡の太鼓が響いている。

「そういうつもりでは」

「分かってます。だから嫌なんです。あなたの中では何でもなくても、私が持つと、何でもなくない」

言い終えてから紗和は目を伏せた。修が大事にしてきた時間を、疎ましいもののように扱った気がした。

その夜は一緒に帰らなかった。紗和は駅へ向かいながら、彼のことを好きになっていたのだとはっきり知った。誰かの思い出の外にいたいと思うほどに。

翌週、修は休んだ。紗和は針に糸を通せず、何度も先を切った。講師が灯りを寄せてくれたが、よく見えるほど指が震えた。

家へ戻ると修から封書が届いていた。住所は教室の名簿に載せていた。中には借りていた映画の小冊子と、便箋が一枚あった。

『箱を使ってくれる人がいれば、片づける決断を自分でしなくて済むと思っていました。あなたを好きなことと、妻のものを減らせないことを、一緒にしてしまった。別に考えます。会いたい気持ちは、そのままあります』

紗和は一度読み、それから声に出して読んだ。返事には、自分も会いたいとだけ書いた。

二人が会ったのは、教室のない木曜日だった。夜まで開く手芸店の前で、修は何も持たずに待っていた。

「今日は、紗和さんの箱を選ぶんですよね」

紗和は頷いた。自分の道具を、菓子の缶から移したいと言ったのは彼女だった。

木の箱も、布張りの箱もあった。紗和が選んだのは、半透明の薄い箱だった。仕切りが取り外せて、落としても簡単には割れそうにない。修はもっとよい物を勧めなかった。支払うとき、取っ手のある袋が要るかと店員に聞かれ、紗和は断った。修がその箱を持とうと手を伸ばしかけ、彼女の顔を見て下ろした。

店を出てすぐ、紗和は箱を反対の手に持ち替えた。空いた手を差し出すと、修は息をひとつ置いてから握った。

「仕事着は、どうしました」

「着るのはやめました。袖だけ切って、資料を包む重しの袋にしたんです。中身は新しく買ったガラス玉です」

「じゃあ、仕事場にはあるんですね」

「はい」

紗和は、その答えにほっとした。自分のために何かを捨ててほしかったのではない。

二人は定食屋へ向かった。以前と同じ席は空いておらず、入口に近い小さな卓へ案内された。すきま風が来るね、と修が言い、紗和は暖房の風は苦手だからここがいいと答えた。

先に届いた水を、修は紗和の前へ置いた。彼女は礼を言い、自分の鞄から映画の上映予定を取り出した。来週の水曜は教室が休みなので、見に行かないかと尋ねる。修は手帳を開き、丸をつけた。

「題名、今度は間違えないでくださいね」

「もう二回、声に出して読みました」

紗和は笑い、二人分の予定を畳んだ。手帳に書く彼の指が、まだ少し赤くなっていた。

食事を待つ間、修が彼女の袖口を見た。薄い赤の糸で留めたボタンは、少しずれている。

「付け直す?」

「まだ大丈夫」

彼は頷いた。テーブルの下では、さっきから二人の膝が触れたままだった。

了Thank you for reading.

もう少し、夜のつづきを。

水面の下の声 →
ABOUT THIS LIBRARY

恋の、その先の余白。

「夜の余白」は、成人同士の恋愛と日々の心の動きを描く、オリジナル短編の書庫です。再会、秘密、別れ、そして新しい一歩。眠る前のひとときに、ひとつの物語を。

全130篇を無料でお読みいただけます。約10分で楽しめる短編を中心に、さまざまな恋の物語を集めました。作品はAIを用いて制作しています。露骨な性描写は含みません。

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運営名:夜の余白
初版:2026年10月21日
更新:2026年10月23日
収録:恋愛短編130篇(うち読了目安10分以上100篇)