夜の余白YORU NO YOHAKU
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長めの短編 127 / 夜の出会い / 約8分

終点から二つ手前

夜更けの惣菜売場で交わした小さな頼みが、終バスの先にある約束へ変わる。

*

二十三時十七分になると、遠野は必ず同じ棚の前で迷った。南瓜の煮物か、切干大根か。どちらかを選んでから値札を見るのが癖だった。五分前に最終便を車庫へ戻した路線バスの運転士は、制服の上着を脱いでも、買物籠を水平に持つ。

「今日は南瓜の方が少しお得です」

値引きのシールを貼っていた女が言った。遠野は大根を選びかけた手を戻し、南瓜を取った。

「私の食べたい方で選ばなくていいんですよ」

女は笑った。胸の名札には朝倉とあった。遠野は、あなたが食べたいなら大根にすればよかったと、帰宅してから気がついた。四十六歳にもなって、ただの売場の会話をやり直している。

翌週、同じ時間に行くと朝倉はいなかった。棚の惣菜は半分ほどになり、シールは値引き額しか語らない。遠野は南瓜を二つ買った。

朝倉と次に話したのは、牛乳の売場だった。店の前に置かれた古い看板を片づけようとして、彼女が台車の車輪を溝に落としていた。遠野は持ち上げる方を受け持ち、朝倉が台車を引いた。看板には、昔この店にあった鮮魚売場の魚が描かれていた。

「これ、私が学生のときに描いたんです」

彼女は魚の目の塗料を指でなぞった。三十七歳の今は夜間の品出しをしながら、店舗の黒板や看板を描いているのだと言う。

「捨てるんですか」

「塗り直し。魚屋さんはいなくなったけど、板はまだ使えるから」

遠野には、魚がわずかにほっとした顔をしたように見えた。

そのスーパーは、客用の駐輪場に小さなベンチを置いていた。朝倉は休憩になると、そこで売場から下がったパンを食べる。遠野は買物を済ませたあと、温かい缶茶を飲んでから帰るようになった。

彼女の名前は沙英だった。遠野は自分の名を慎司だと教えたが、沙英はしばらく遠野さんと呼んだ。制服の胸で、そちらを先に覚えたからだと言った。

「どうして絵だけを仕事にしないんですか」

一度訊いて、慎司は失礼だったと気づいた。

「絵の仕事にも、家賃を払う仕事にも、してるんですけどね」

「そうですよね。すみません」

沙英はパン袋を膝の上で畳んだ。

「昔は、いつか絵だけで、って私も言ってました。今はここの棚の色の並びも、結構好きです」

慎司は車窓から見る町の話をした。路線の北端にある工場が閉じ、昼便の客が減ったこと。反対に夜の病院帰りは、立つ人がいること。人を乗せていると、街の事情は掲示板より先に分かる。

沙英は次に頼まれている看板が、その病院の近くの靴修理店だと言った。店主が夜しか時間を取れず、下見が遅くなるという。

「うちのバスなら、二十二時四十分があります」

慎司は時刻を口にしてから、勤務表を思い浮かべた。その日は自分が運転する便だった。

靴修理店へ向かう晩、沙英はバスに乗らなかった。慎司は停留所を出るたび、歩道に長い画材袋がないか見た。ミラーに目を戻し、職業上の集中と私事が混じることを初めて怖いと思った。

次にスーパーで会ったとき、沙英は指先に藍色の絵具をつけていた。

「乗らなかったですね」

言ってから、責めるように響いたことに気づいた。

「店主さんの娘さんが、車を出してくれたので」

「そうでしたか」

「何か、約束してました?」

慎司は首を振った。自分が乗ってくれると思っていただけだ。沙英の方も、彼の期待を察したらしい。缶茶の蓋を開けずにいた。

「私、たぶん仕事中も、けっこう愛想がいいです」

「分かっています」

分かっていなかった。彼女は続けた。

「でも、休憩をここで取るようになったのは、遠野さんが来るからです。そっちの方は、愛想じゃないです」

慎司は缶茶を両手で握った。何と返せばよいか考える時間をくれるように、沙英は自転車の鍵を回した。

「今度、仕事のない日に、会ってもらえますか」

慎司が言うと、彼女は初めて缶を開けた。小さな音が、駐輪場の屋根に跳ねた。

「そういうふうに聞いてくれるのを、少し待ってました」

休日はなかなか重ならなかった。沙英の看板制作と慎司の休日出勤が二度ずつ続き、最初の約束は三週間先になった。それでも今度は待つものの形がはっきりしていた。慎司は二人分の焼売を買いかけ、一人分だけ戻すこともあった。

一方で、会社から路線の再編が知らされた。彼が長く走ってきた川沿いの区間は廃止され、隣の営業所へ異動になる。通勤にかかる時間が伸びるため、慎司は引っ越しも考え始めた。今の部屋を借りたのは離婚した年だった。もう七年になる。

沙英に話したのは、初めて会う休日の前夜だった。彼女はあっさり、そうですか、と言った。慎司は寂しいとも困るとも言ってもらえないことが寂しかった。

「引っ越し先、決めたんですか」

「まだです。ここに残る理由も、あるので」

「私のことだったら、まだ一緒にごはんも食べてませんよ」

その通りだった。彼女の言葉は冷たくはなかったが、慎司が自分の不安を彼女に持たせようとしていることを、正確に映していた。

「先に明日のことを決めませんか。私、終点の先の貯水池に行ってみたい」

「何もないですよ」

「何もないって、何がないのか見たいです」

沙英は笑った。慎司もようやく笑えた。彼は廃止になる区間を、客席から見たことが一度もなかった。

日曜日のバスは空いていた。運転している後輩に会釈し、慎司は沙英の隣へ座った。客席から見る信号は思っていたより高く、覚えているはずの街が、一つ奥へずれて見える。

沙英は窓の外の文字を見ていた。錆びた工場の社名、クリーニング屋の閉店札、草に埋もれた不動産の看板。字の形を小さな帳面に写し取り、ときどき慎司へ見せた。

「この『氷』、真ん中が傘みたい」

何百回も通った道だったが、慎司はその氷屋の文字を初めて見た気がした。

終点から貯水池まで歩く途中、空き店舗の前で沙英が足を止めた。入口のガラスに、来月開くというパン工房の手書きの紙が貼られている。慎司が地元の人から聞いた話をすると、彼女は屋号をメモした。

「仕事、頼まれるといいですね」

「頼まれなくても、パンは買いに来たいです」

貯水池の堤防で、二人は持ってきた弁当を食べた。慎司のはスーパーの惣菜、沙英のは自分で握った不揃いな飯だった。交換すると、沙英は南瓜を最後まで残し、慎司は海苔のついていない飯を一つずつ大事に食べた。

「引っ越すと思います」

慎司は水面を見て言った。

「うん」

「でも、会いに来ます。勤務表が出たら、ちゃんと誘います」

沙英は箸を袋に戻した。

「私も行けますよ。あなたの新しい町の看板、見たいので」

慎司は、その返事をする口に触れたいと思った。ただ風が強く、彼女の髪が頬へ流れたので、先に耳へ戻してもいいかと尋ねた。沙英は頷き、彼の手に自分の指を添えた。

帰りは終点から二つ手前で降りた。沙英が見つけた古い喫茶店で、バスを一本遅らせることにしたのだ。窓の下を、慎司が乗るはずだった便が通り過ぎた。

店の主人が、砂糖壺は前の持ち主から譲られた物だと話した。沙英が底の印を見たがったので、慎司は中の砂糖を別の器へ移した。二人で壺をひっくり返すと、磨かれた底に小さな鳥の印があった。

「昔、これと同じのが実家にあったんです」

慎司が言うと、沙英は帳面の端へ鳥を描いた。彼女が帰り際にそのページを切り離そうとしたので、慎司は首を振った。

「次に、色をつけたところまで見せてもらえますか」

「じゃあ、次まで預かります」

沙英は鉛筆を持ち替えた。慎司のために残るページがある。それを彼は、ちゃんと口にして喜べた。

店の砂糖壺を描き始めた沙英の隣で、慎司は携帯の時刻表を閉じた。次の便まで二十四分。彼は珈琲をもう一杯頼み、彼女の小さな帳面が満ちていくのを、急がず眺めていた。

了Thank you for reading.

もう少し、夜のつづきを。

袖口に残る藍 →
ABOUT THIS LIBRARY

恋の、その先の余白。

「夜の余白」は、成人同士の恋愛と日々の心の動きを描く、オリジナル短編の書庫です。再会、秘密、別れ、そして新しい一歩。眠る前のひとときに、ひとつの物語を。

全130篇を無料でお読みいただけます。約10分で楽しめる短編を中心に、さまざまな恋の物語を集めました。作品はAIを用いて制作しています。露骨な性描写は含みません。

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運営名:夜の余白
初版:2026年10月21日
更新:2026年10月23日
収録:恋愛短編130篇(うち読了目安10分以上100篇)