深夜十一時の複写店で、理佐はまた用紙を逆に入れた。触って読める会場案内図は、線を盛り上げる特殊な紙に印刷する。三枚失敗すれば、今夜の交通費が消える。三十四歳の舞台字幕制作者は、俳優の言葉の速さにはついていけても、この店の新しい機械とは仲よくなれなかった。
「左側を空けるなら、元のデータも三ミリずらした方がいい」
隣の席の男が言った。画面を勝手にのぞいたと気づいたのか、すぐ謝った。理佐は椅子を少しずらした。
「どうして左側を?」
「綴じるんでしょう。触る指の場所が要るから」
四十一歳の航平は、街歩き用の地図を作る小さな制作所で働いていた。手元の図面は川沿いの遊歩道で、去年撤去された公衆電話の印だけが赤く囲んである。
「案内って、正しいだけでは足りないんですね」
理佐は思わず言った。
「間違っていない地図ほど、迷いやすいこともあります」
航平は画面から離れ、店員を呼んでくれた。結局、理佐の設定ではなく、用紙の対応する面を説明した店の表示が逆だった。店員が慌てて三枚分の代金を返す間、航平は見ていないふりで自分の画面へ戻った。
でき上がった案内図を、理佐は彼にも渡した。彼は目を閉じて、舞台へ向かう線をゆっくりたどった。
理佐の担当する劇場は、客席が百もない。予算の都合で字幕は作品によって付いたり付かなかったりする。来月の公演では、初めて全日程に字幕と音声案内を付けることになっていた。理佐は台本の修正を受け取るたび、深夜の複写店で資料を刷り直した。
航平には、そのうち二回会った。彼は校正紙に小さな定規を当て、バス停の移転を確認していた。三回目には、近くの食堂が閉まる前に一緒に麺を食べた。
「最後まで見た芝居って、いつだろう」
航平は湯気の向こうで考えた。
「途中で帰ったことがあるんですか」
「若いときに一度。大きな音が苦手で。客席から出たら、扉を閉める音の方が大きかった」
理佐は笑わなかった。音量の注意書きを作るとき、言葉を強くしすぎるなと言われたばかりだった。
「次の公演、静かな回もあります。役者の声はマイクを通しません」
「あなたが作ったものを読むために、芝居を見てもいいですか」
その尋ね方には、仕事の成果を褒める以上のものがあった。理佐は箸を置き、日程表を送ると言った。
理佐には、五年つきあって別れた人がいた。相手は彼女の仕事を立派だと言いながら、本番前の夜には必ず電話をかけてきた。愛情を試すつもりがなかったのは分かる。それでも理佐は電話が鳴るたび、仕事か恋人かの小さな審判にかけられるように感じた。航平が締切の時刻を聞いたのは、帰りを待つためではなく、食堂へ誘ってよい日を知るためだった。
公演二日前、劇場前の道路が陥没して、最寄り駅からの道が一本使えなくなった。工事柵の写真が制作担当から届いたのは午後九時。理佐は案内図の修正を引き受けたが、迂回路の歩道が車椅子で通れるか分からなかった。
航平へ尋ねると、十二分後に電話が来た。
「いま近くにいる。見てきましょうか」
「そこまで頼んだつもりじゃ」
「じゃあ、一緒に見に来ますか」
彼は頼み事を、二人で歩く提案に変えた。理佐は劇場の傘立てから長い傘を一本抜き、戸締まりをして走った。雨ではなく、歩道の幅を測るためだ。
薬局の前は広いが、途中のポールの間隔が狭い。別の道には傾斜がある。航平は数字を取り、理佐は街灯の下で写真を撮った。遠回りして見つけた道は、花屋の裏を通り、劇場の搬入口へ続いていた。
「客を裏へ回すのは、嫌がられるかも」
理佐が言うと、航平は地図の余白に指を置いた。
「ここにスタッフが迎えに立つなら、道じゃなくて入口になる」
その言い方に救われたと思った。礼を言いかけたとき、航平の電話が鳴った。彼の声が急に事務的になり、理佐は立ち止まった。仕事先との通話だった。明日の朝までに出すはずの修正が終わっていないらしい。
「戻ってください。あとは私でできます」
彼は迷ってから頷いた。別れ際、理佐は傘を渡そうとして、やっぱり持ち帰った。航平は何か言いかけたが、タクシーの後部座席で唇を閉じた。
公演の当日、航平の席は空いたままだった。予約名簿の横に欠席の連絡が記されていた。理佐は理由を訊く余裕がなく、暗い操作卓の前で字幕を送った。
終演後、初めて来たという客から、入口で迎えてもらえて安心したと声をかけられた。理佐は礼を言って頭を下げた。航平に伝えたいと思い、同時に、彼がそこにいなかったことが悲しかった。
二日後に来た連絡は、仕事が終わらなかった、というものだった。
『約束していたのに、ごめんなさい』
理佐は何度も返事を書き直した。忙しいなら仕方ない、と送れば感じのよい人にはなれる。でも、それだけでは次も同じになる気がした。
『来てくれると思って、楽しみにしていました。忙しかったことより、連絡を待った時間が残念でした』
送信すると、腹の底が冷えた。彼に好意があると明かしたようなものだった。
翌晩、複写店へ行くと航平はいなかった。その次も。もう会わなくて済むように、彼はほかの店を使っているのかもしれない。理佐は案内図の最後の束を裁断機に載せた。紙の端を揃える作業は、感情がどこにあっても同じ精度を求めてきた。
背後で扉が開いたのは閉店十分前だった。航平が、紙袋を持って立っていた。
「偶然を待つのは、ずるいと思って」
彼はそう言い、次の瞬間に自分で首を振った。
「でもここに来ると決めたことを、先に知らせるべきでした」
理佐は裁断機の刃を上げた。
「連絡、下手ですね」
「はい。説明すると言い訳になると思うと、何も書けなくなります」
「何もない方が、いろいろ想像します」
「覚えておきます」
航平は紙袋を差し出さなかった。代わりに、話す時間があるかと尋ねた。
店を出て、二人は運河まで歩いた。紙袋には、理佐が好きだと言った食堂の焼菓子が入っていた。謝罪の代わりに渡したくなくて、持ったままだったらしい。
「先週の仕事、断れない量になっていました。自分の制作所を畳むところで、最後だから全部受けてしまった」
初めて聞く話だった。地図の需要が減ったのではなく、一緒に働いていた父親が引退し、航平は別の会社に入るのだという。
「新しい勤め先で、好きな地図を作れるか分からない。それを理佐さんに話すと、仕事を好きだと言った自分が嘘になる気がして」
「好きなままで、変わってもいいでしょう」
理佐は言ってから、簡単すぎたと思った。
「今、答えを出さなくていいです。私も、仕事の話しかできない日があります」
航平は手すりに置いた彼女の手を見た。触れていいかという問いが、視線にあった。理佐は自分から手を伸ばした。彼の掌には、裁断した紙でできた細い傷が一本あった。
その後、航平は別の回の芝居を見に来た。終演後に会った彼は、話の結末より、途中で字幕が消える間が好きだったと言った。理佐は、その間にも仕事があると説明した。航平は楽しそうに聞いた。
帰りに寄った橋の下で、航平は古い地図の校正紙を一枚広げた。もう使われない道に、鉛筆で線が引かれている。
「これは捨てます。でも、この店へ入る道は覚えておきます」
食堂の角を指す彼の爪に、紙の粉が残っていた。理佐は、その校正紙を記念に欲しいとは言わなかった。彼の鞄へ戻るまで待って、それから自分の好きな脇道を教えた。二人で少し遠回りをして、別々の駅へ帰った。
春の新作に向けた打合せの日、二人は初めての店で夕食を取る約束をした。航平から五分遅れると連絡が届く。理佐は店先の椅子に座り、『待っています。左の席を空けておきます』と返した。風で暖簾が膝に触れた。今夜の余白には、もう何も印刷しなくてよかった。