葉の裏は、昼に見るより白かった。温室の照明は足元だけを照らし、大きな葉の表は天井の闇へ溶けている。亜紀は手帳を膝に載せ、鉛筆で縁の波を写した。四十歳の菓子木型職人が夜間公開に申し込んだのは、注文された花の形を見たかったからだ。
「その花は、こちらにはありません」
閉館まであと二十分というころ、巡回していた男が言った。亜紀は依頼主から預かった写真を見せた。菓子屋の古い包装紙に描かれた、細い花弁の白い花だった。
「植物の名前を聞いたんですが、先代が好きだった花としか分からなくて」
男は写真を受け取り、胸元の小さなライトを当てた。名札には園芸員、久保田とあった。四十七歳だと知るのはもっと先で、このときは作業着の肘についた土が乾いて白くなっているのだけが目に入った。
「絵として整えてありますね。実物はこんなに左右が揃いません」
亜紀はほっとした。何を見ても似ているのに違う気がして、自分の観察力を疑い始めていたところだった。
「夜に咲くものを描いた可能性はあります。裏側の棚を見ますか」
久保田は足元を照らしながら先に歩いた。植木鉢の間で、水滴が遅い秒針のように落ちていた。
写真の花らしい株は、まだ蕾もつけていなかった。久保田は植物の名を書いた紙をくれ、花が開く時期には公開日を増やすから、申し込んでほしいと言った。
亜紀は仕事場へ戻り、木の板へ花弁を描いた。父から継いだ店は、工房と呼ぶには狭い。細工の細かい木型の注文は減ったが、使い込んだ道具を毎日研ぐ時間は減らない。依頼されたのは、創業百年の菓子屋が一日だけ復刻する菓子のための型だった。
一枚の絵から彫ることはできる。けれど、中心からどう花弁が重なるのかが分からなかった。包装紙に忠実に彫れば、平たい花ができるだろう。
次の夜間公開で、亜紀は以前作った椿の型を持っていった。久保田は手を洗ってから、木肌へ指を添えた。
「深く彫ると、菓子も厚くなる?」
「逆です。へこんだ所に材料が入りますから、ここが花の一番高いところ」
彼はもう一度、光を斜めに当てて見た。自分の仕事を分かったつもりで褒める人は多い。久保田がしつこいほど形を確かめるのを、亜紀は楽しく眺めた。
「一つ、お願いがあるんですが」
彼は言いかけて、閉館を知らせる館内放送に遮られた。帰りの門まで送られるあいだ、亜紀はその続きを待った。彼が言ったのは、来週も来ますか、ということだけだった。
三度目の訪問は、雨の降らない蒸した夜だった。蕾の先がようやく白くなり、久保田は今夜か明日には、と少し声を弾ませた。
「毎晩、残るんですか」
「当番は交替です。今日は僕が代わってもらいました」
「花のため?」
彼が返事をするまでに間があった。亜紀は、訊かない方がよかったと手帳を開いた。
「あなたが来ると聞いたから、です」
鉛筆の芯が紙の上で折れた。久保田が笑いを堪え、亜紀は折れた芯を手で包んだ。
花は十時を過ぎても開ききらなかった。ほかの見学者が帰ったあと、二人は入口の石段に座った。門は開館中のままだったが、温室の中では別の職員が見回りを始めていた。
亜紀は持参した包みを開いた。自分の木型で作ってもらった、小さな干菓子だった。久保田はまず匂いを嗅ぎ、ひとつを口へ運んだ。
「さっきのお願いって、何ですか」
亜紀が訊くと、彼はポケットから紙を出した。温室の売店で、植物の形の菓子を置く計画があるのだという。木型を作れる人を探していたらしい。
亜紀の膝の上で、菓子の包みが閉じた。
「それで、来る日を聞いてたんですね」
久保田はすぐ否定しなかった。自分の考えを整理するような沈黙だったが、亜紀には長かった。
「仕事の相談なら、昼に工房へお願いします」
彼女は立ち上がった。彼の目が驚いたように動き、何か言おうとして止まった。亜紀はその言葉を拾わず、門を出た。自転車の鍵がなかなか回らなかった。
翌日、工房へ電話があった。知らない番号だった。久保田は丁寧に名乗り、仕事として相談する日時を尋ねた。
「昨日のことを、なかったことにするんですか」
亜紀は削り台の前で言った。自分の声が固いと分かっていた。
「そのつもりはありません。ただ、仕事と一緒に話したのがよくなかったと思いました。僕のお願いを受けてもらうために、あなたを待ったみたいになった」
亜紀は彫刻刀を置いた。彼女は父の代からの客に、娘さんだから少し安くできるだろうと言われたことが何度もあった。好意と金銭の境が曖昧な場面では、疑うのが習慣になっていた。
「依頼を断っても、花を見に行っていいんですか」
「もちろん。僕がいる日でなくても」
亜紀は電話口で少し笑った。
「そこは、いてほしいんです」
久保田の息が聞こえた。それから彼は、では公開の日程とは別に食事に誘ってもいいかと尋ねた。亜紀は、蕾が開かなかったら延期するのかと訊き返した。しません、と答える声が今度は速かった。
売店の仕事は、予算が合わず、亜紀は引き受けなかった。久保田は別の業者を探し、亜紀に安くならないかと繰り返すことはなかった。そのあと届いた食事の誘いで、彼女はようやく肩の力を抜いた。
花が開いた夜、亜紀は別の町にいた。依頼主の菓子屋で、試作の打合せがあった。久保田から写真が届いたのは、ちょうど最終電車を調べていたときだった。
画面の中の白い花は、想像よりもずっと不揃いだった。花弁の一枚が手前へ垂れ、奥には小さく折れたものもある。添えられた言葉は、急いで来なくていい、明日の朝も形は見られる、だった。
亜紀は電車に乗り、温室ではなく自宅へ帰った。花の開く瞬間を見逃したことは残念だった。でも、依頼主と話した時間も失わずに済んだ。
翌朝、開館直後に行くと、久保田は夜勤明けで帰るところだった。少し閉じかけた花を二人で眺めた。亜紀は真正面からではなく、斜めから重なりを描いた。
「昨日の写真、反対側もありますか」
久保田は携帯を開いた。何枚も撮ってあった。その中に、花ではなく鉢の横の空いた丸椅子だけが写った写真が一枚あった。
「これは、間違い」
彼が画面を送ろうとしたので、亜紀は止めた。
「それも欲しいです」
久保田は彼女を見てから、写真を送った。亜紀は手帳を閉じた。今日はあと一時間なら、ここにいられる。
彼は夜勤明けで開いている食堂を知っていた。初めて一緒に食べたのは朝定食だった。久保田は目玉焼きを崩し、亜紀は味噌汁を少し冷ました。夜ばかり会っていた人の顔が、朝の光で違って見えた。
復刻の菓子は、包装紙の絵とは少し違う形になった。依頼主は初めためらったが、亜紀の見せた写真を見て、これなら先代も喜ぶでしょうと言った。亜紀はその言葉を確かめることはできない。ただ、初めて型から抜けた白い菓子には、花弁の薄い影が落ちていた。
秋の夜間公開に、亜紀はその菓子を二つ持っていった。久保田は入口に小さな机を出し、閉館後の記録をつけていた。園の売店には別の会社が作った植物の焼菓子が並んでいる。亜紀はそれも二人分買った。
「食べ比べですか」
「はい。負けるかもしれません」
彼は笑い、記録帳を閉じた。温室の中では、夏の花が咲いていた棚がもう別の鉢で埋まっていた。亜紀は少し寂しくなって、彼の手を取った。いつも土を触る指は、思ったより柔らかかった。
「冬も、ここに来ていい?」
「寒いですよ。入口までが」
「中は?」
「暖かいです」
亜紀は頷き、彼の肩へ短く額を寄せた。久保田の手が彼女の背へ回り、触れてもよい場所を確かめるように止まった。顔を上げると彼が待っていて、亜紀は自分から唇を重ねた。
帰るとき、手帳を入れた鞄の中で、丸椅子の写真を印刷した一枚が曲がっていた。亜紀はそれを伸ばさず、次の公開日を書いた紙と一緒にしまった。今度は花が咲くかどうか、確かめていなかった。