港の待合室で、真澄は二十五年前に聞き慣れた咳払いを聞いた。振り返ると、背の高い男が濡れた傘を畳んでいた。髪に白いものが増え、眼鏡が違った。それでも、傘の先を自分の靴で受ける癖は変わっていなかった。
「航平」
彼は一瞬、目を細めた。
「真澄さん?」
五十四歳になった真澄を、昔と同じ呼び方で呼んだ。真澄は母の納骨のため、島へ戻ってきていた。航平は今も島の役場で働いているらしい。
「お母さんのこと、聞いた。葬式、行けなくて」
「町でやったから。島の人にはほとんど知らせなかったの」
二人は椅子一つ分空けて座った。真澄は離婚して十二年、東京で一人暮らしをしている。航平は五十六歳で、昨年母親を亡くしたと言った。二人とも、最初は親の話なら安全だと思っていた。
船は風で一時間遅れていた。真澄が時計を見ると、航平は「急ぐ?」と聞いた。
「今日は、急がない」
それを言ったとき、真澄は、二十五年前にここで彼を置いて船に乗った日のことを思い出した。あの日も船は遅れた。彼が来るかもしれないと待ち、来なかったことに腹を立てて、約束していなかった事実を忘れた。
母の家は、海から一本入った道にあった。叔父が時々風を通してくれたが、家具には薄い埃が積もっていた。真澄は三日かけて母の部屋を片づけ、そのあと不動産業者と会う予定だった。
二日目の夕方、航平が軽トラックで段ボールを持ってきた。叔父に頼まれたのだという。真澄は手伝いを断り、代わりにお茶を出した。
「一人だと終わらないだろ」
「終わらなければ、業者を頼む」
航平は「ああ」と言い、座り直した。
お茶を淹れるとき、真澄は湯呑が一つ足りないことに気づいた。母は使わない食器を処分し、いつのまにか一人分の暮らしに家を合わせていた。帰ってきてほしいと言う電話はあっても、娘の場所がそのまま保存されていたわけではない。
航平には客用の湯呑を出した。彼は庭を見て、昔あった蜜柑の木はどうしたと聞いた。母が足を悪くしてから叔父が切ったのだと答えると、彼は「知らなかった」と言った。
真澄は、二十五年前の島が彼の中でそのまま残っているわけでもないのだと知った。毎日ここにいた人も、隣の家の木が消えたことを知らない。自分の不在だけを大きな欠落だと思うのは、どこか勝手だった。
彼の左手に指輪はなかった。真澄は見てしまったことを恥ずかしく思った。航平はそれに気づいたのか、「三年前、離婚した」と言った。
「私も、ずいぶん前」
二人の間に、少し気まずい余白ができた。そこへ波の音が聞こえた。
「俺たちのこと、知ってた?」
「誰からも聞いてない。島にほとんど帰らなかったから」
真澄は湯呑を両手で持った。離婚の理由を聞くつもりはなかったが、航平は自分から話した。父の介護が始まったとき、妻の仕事を続ける方法を、十分に考えなかったこと。妻は島を出て、戻らなかったこと。
「昔と変わってないでしょう」
真澄の言葉は思ったより冷たく出た。航平は反論しなかった。
二十五年前、東京の会社に転職が決まった真澄に、彼は「結婚したら、こっちで仕事すればいい」と言った。真澄が望む仕事は、島にはなかった。
「変わったって、今ここで言うのは簡単だな」
航平は湯呑を置いた。
真澄は彼の顔を見た。歳を取った顔には、知っている表情と知らない疲れがあった。
航平が帰ったあと、真澄は母の箪笥の底から、自分の古いマフラーを見つけた。東京へ行く前、航平と隣町で買ったものだった。母は忘れ物として仕舞ったのだろう。防虫剤の匂いがして、端の房が一本ほつれていた。
真澄はそれを首へ巻かなかった。昔の恋が暖かかったことと、今も同じ暖かさをくれることは別だった。膝に置いて、あの頃の自分が彼の返事を待つたびに感じた、足元の頼りなさを思い出した。
彼が一度謝れば、すべてを綺麗に思い出せるわけではない。自分も黙って去った。待ち合わせをしなかった日のことを、彼が来なかった日として何年も覚えていた。
翌朝、真澄はマフラーを洗った。持ち帰るかどうかは、乾いてから決めることにした。
翌日の納骨には、航平は来なかった。親戚だけで済ませたいと真澄が言ったからだった。夕方、彼から「終わった?」とだけ連絡が来た。
真澄は海辺の定食屋にいると返した。二十分後、航平が自転車で来た。昔なら、彼が何もかも手配しただろう。今は店の前で、一緒に食べていいか聞いた。
「いいよ。鯵、もう最後だって」
彼は別の魚を頼んだ。
母の骨を納めたあと、真澄は東京の家へ帰っても誰もいないことを考えていた。母とは同居していなかったのに、電話をかける相手が消えると、部屋まで空いた気がした。
「この家、残したほうがいいと思う?」
聞いてから、航平に答えを渡してはいけないと思った。でも彼は少し考えた。
「残すと、金も手もかかる。俺が見とくって言っても、俺も歳取るし」
真澄は笑った。
「そこは、任せろって言うところじゃないの」
「言いそうになった」
彼も笑った。その笑い方が昔と同じで、真澄はうっかり泣きそうになった。
食後、二人は港まで歩いた。航平が、自分の父が倒れた日のことを話した。真澄が最後に島へ来たのは、その前日だった。彼はそのとき、家族のことが怖くて、真澄にも話せなかったのだと言った。
真澄は立ち止まった。
「それを聞いてたら、違ったかもしれない」
「でも、東京をやめてくれって言ったのは、俺だよ」
風が強く、真澄は上着の前を合わせた。彼が脱ぎかけたジャケットを、彼女は手で止めた。
「寒いから、帰ろう」
航平は頷いた。昔のことをわかり直すために、今夜をいつまでも寒い場所に置いておく必要はなかった。
母の家は売却した。真澄は秋にもう一度島へ行き、鍵を渡した。庭の柿が少しだけ実をつけていた。新しい持ち主は四十代の夫婦で、庭を気に入ったと言った。真澄は木の剪定の癖だけを伝えた。
航平とは、夏の間に二度東京で会った。一度は彼の出張、一度は有給休暇だった。東京駅で迷う航平を迎えに行くと、彼は真澄の好きなパン屋を調べてきていた。二十五年前には知らなかった彼女の好みが、今は一つずつ増えていた。
二度目の東京では、真澄の家には泊まらず、航平は駅前のホテルを取った。夕食のあとで真澄が送っていくと、彼はロビーで次の出張の話をした。別れるにはまだ早い気がして、真澄は自分からコーヒーを頼んだ。
「お互いの家、今は一つずつでいいね」
彼女が言うと、航平は少し寂しそうにした。その顔を真澄は見ないふりにしなかった。
「ここで会うのが嫌なわけじゃないの」
「わかる。でも、もう少し一緒にいたいとは思う」
「私も。それは、同じ」
言葉を濁さずにいると、違うことを選んでも、同じ気持ちがあると確かめられた。ロビーの時計が十一時になるまで、二人は帰り支度をしなかった。
三度目に会う前、航平が毎晩電話をかけてきたことがあった。真澄は三日目に出なかった。翌朝、「毎日は難しい」と伝えると、彼から短い謝罪が来た。そのあとは週末に時間を決めた。
懐かしさだけなら、近づくのは簡単だった。違う生活を持った二人として会うには、言いにくいことが何度もあった。
鍵を渡した日の夜、真澄は宿を取っていた。航平は夕食のあと、宿の入口まで送った。
「明日、見送り行ってもいいか」
「十時の船」
二人は時刻を確かめた。それから航平が真澄の手に触れた。彼女は指を絡め、顔を上げた。短い口づけのあと、潮の匂いが戻ってきた。
「また来るって、今は約束しないよ」
真澄が言った。
航平は頷き、「俺が行くこともできる」と答えた。
翌朝、彼は九時半に待合室へ来た。真澄は二枚の切符を持っていた。東京へ帰る船の券と、十二月に島へ来るための予約票だった。
「予定が入ったら、変更するかもしれない」
「俺も、その日は仕事かもしれない」
真澄は予約票を鞄へ戻した。
「じゃあ、ちゃんと連絡して」
航平は「する」と言った。大きな言葉ではなかった。その分だけ、今の彼に似合っていた。
船が出ると、港の彼は手を振った。真澄も振り返した。家を手放したのに、島へ戻る理由が一つ残った。それは母の代わりではなく、自分がこれから選ぶ時間だった。