夜の余白YORU NO YOHAKU
← 作品一覧へ

長めの短編 121 / ふたりの暮らし / 約9分

雨のあとに畳む

十七年連れ添った女性二人。母の家を片づけながら、残る側の孤独に触れる。

*

美帆の母の家は、梅雨に入ると玄関まで土の匂いがした。四十七歳の美帆が靴を脱ぐ間、二つ年上の夏実は段ボールを庇の下へ寄せた。

「今日、雨強くなるよ」

「二階だけ終わらせたい」

母が亡くなって八か月。空き家の管理料と固定資産税を払いながら、片づけは少しずつしか進まなかった。東京のマンションから車で二時間。週末のたびに通う美帆に、夏実はできる限り付き添っていた。

二階には婚礼用の箪笥があった。美帆の両親が結婚したときのもので、引き出しは湿気で開きにくい。二人が力を合わせると、奥から封筒が落ちた。

『美帆へ』と書いてある。

美帆は封筒を拾い、夏実に背を向けて開いた。中には手紙ではなく、古い預金通帳と印鑑が入っていた。

「何だった?」

「お金のこと」

それ以上の言葉はなかった。夏実は空の段ボールを組み立てた。

母は二人の関係を知っていたが、最後まで夏実を「お友達」と呼んだ。病室にも、美帆が頼んだときだけ入れた。夏実はそれについて、母の前では何も言わなかった。

美帆の悲しみの中で、そのことを言う場所は、今も見つからなかった。

夕方、雨で高速道路が混み、二人は母の家へ泊まることにした。押し入れから布団を出すと、夏実が一枚に触れた。

「私、こっちでいい?」

美帆は母の使っていた花柄の布団を引き寄せた。夏実の布団との間に、畳一枚分の隙間ができた。

夕飯の袋うどんを食べながら、美帆が言った。

「売るの、もう少し待とうかな」

夏実は箸を止めた。

「不動産屋さん、来週来るんだよね」

「断ればいいから」

「そう。じゃあ、私、来週は来ない」

美帆が顔を上げた。夏実は箸を置き直した。

「出張があるから、服も揃えたいし」

「先週、来てくれるって言ったじゃない」

「話を進めるならって言った」

雨音が二人の間を埋めた。美帆は、母を捨てろと言われたような顔をした。その顔を見ると、夏実はいつも言葉を引っ込めてきた。

「ここを売れとは言ってない。私の休みも、ここに置きっぱなしにはできないって言ってる」

美帆は立ち上がり、鍋を流しへ持っていった。水を出してから、「手伝ってほしいなんて頼んでない」と言った。

夏実は濡れた窓を見た。自分の車なら帰れたが、今夜ここに美帆を残すことも、怒ったまま運転することもしたくなかった。

「今日は帰らない。でも、それ、取り消してほしい」

水が止まった。

美帆はすぐには振り返らなかった。

その夜、夏実はなかなか眠れなかった。美帆が隣で鼻をすする音がしても、声をかけなかった。十七年前、二人で住む家を探していたとき、不動産屋に姉妹かと聞かれたことを思い出した。美帆はそのときはっきり、恋人ですと言った。その勇気を、夏実は長い間お守りにしていた。

けれど勇気のあった一日が、そのあとのすべてを帳消しにはしてくれない。自分にも、面倒を起こしたくなくて笑った日がある。それを母だけ、美帆だけのせいにすれば、自分まであの廊下に置き去りになる気がした。

夜中、夏実は台所で水を飲んだ。冷蔵庫に貼られた美帆の子ども時代の写真の端が、湿気で丸まっていた。ここで母親を求める美帆と、自分の知っている美帆は同じ人だった。わかっていることと、傷つかないことは別だった。

朝、美帆が起きると、夏実は縁側で靴下を履いていた。雨は上がっていた。

「昨日の言い方、ひどかった」

美帆は畳に座って言った。夏実は踵を整えてから、「うん」と答えた。

美帆は謝ったあと、封筒を持ってきた。母が美帆の名義で積み立てていた通帳だった。最終記帳は十七年前。二人が同居を始めた年に、一度だけ大きな額が引き出されていた。

「引っ越しのとき、くれたお金。母が自分の貯金から出したと思ってた。私が子どもの頃から、私のために貯めてたんだね」

夏実は通帳に触れなかった。

「あのとき、ソファ買ったよね」

「うん。あなたが昼寝すると足がはみ出るやつ」

今も居間にある。ほつれた肘掛けを二人で補修した。十七年の生活を、母は入り口で少しだけ支え、そのあとは外から見ていたのかもしれない。だからといって、夏実が受けた寂しさまで消えはしなかった。

「母があなたを何て呼んでたか、気づいてた」

美帆は通帳を閉じた。

「私が平気な顔してたから?」

夏実の声は鋭くなかった。それでも美帆は目を伏せた。

「言うのが怖かった。母が変わらないって、確かめるのが」

「その間、私はずっと外だった」

夏実はようやく口に出した。病院の廊下。親戚の集まる座敷。葬儀の最後に乗せてもらえなかった車。ひとつずつ数えれば、美帆が耐えられなくなると思っていた。けれど自分の中では、どれも数え終わっていなかった。

美帆は泣いた。夏実は背中に手を置かなかった。手を置けば、この話は美帆を慰める話に変わる気がした。

しばらくして美帆は鼻をかみ、「聞いてる」と言った。

夏実はそれから、葬儀の日、駅のホームで一人で食べたおにぎりの話をした。美帆が知らない、同じ日の出来事だった。

翌週、美帆は一人で家へ行った。夏実は約束どおり東京に残った。夕方、携帯に美帆から電話が来ると、夏実はすぐには出ず、洗っていた髪を乾かしてからかけ直した。

「箪笥、開いた」

美帆はそれだけを報告した。夏実は「そう」と答えた。二人で開けなければならないと思っていた引き出しが、一人でも開いたのだった。

「晩ご飯、食べた?」

「私は食べた。そっちは」

「まだ。何か買う」

夏実は作っておくとは言わなかった。美帆も頼まなかった。電話を切ってから、夏実は冷蔵庫の残り物を小皿に移し、自分のために缶ビールを開けた。少し後ろめたく、でもおいしかった。

日曜の夜、美帆が帰ってくると、二人は別々に済ませた夕飯の話をした。美帆は駅で買った弁当の箸が一本割れていたと言い、夏実は一人で飲むには大きすぎた缶を見せた。くだらない話が戻るまで、どちらも相手の目を何度か確かめた。

家を売るまでに、それから四か月かかった。美帆は片づけを業者にも頼み、夏実は月に一度だけ行った。行かない日には、自分の妹と映画を観たり、何もしないで昼まで寝たりした。美帆から送られる写真に、返事をしない時間も持った。

親戚が見に来る日、美帆は夏実を「私が一緒に暮らしているパートナー」と紹介した。叔父が曖昧に笑い、美帆は笑い返さなかった。夏実はお茶を出す係になるのをやめ、隣に座って家の売却書類を読んだ。

帰りの車で、「今日、嫌だった?」と美帆が聞いた。

「疲れた。でも、隣には座れた」

夏実は窓を少し開けた。秋の風が入った。

母の箪笥は処分した。重すぎて運べず、二人の家には置く場所がなかった。代わりに引き出しの中の小さな裁縫箱だけを持ち帰った。美帆が選び、夏実は賛成も反対もしなかった。

裁縫箱を置く場所についても、小さな言い合いになった。美帆は居間の棚に飾りたがり、夏実は日用品と一緒にしてはどうかと言った。母の家をそのまま縮めて、二人の部屋へ持ち込みたくはなかった。

結局、箱はソファのほつれを縫う日に初めて開けた。中には太さの違う針と、使いかけの糸が何色もあった。美帆が針に糸を通せずにいると、夏実が手を出した。

「貸して。これは、まだ私のほうが見える」

美帆が笑い、夏実も笑った。母のものが、初めて二人の家の用事に使われた。

最後の日、二人は雨戸を閉めた。一枚だけ引っかかり、夏実が外から持ち上げた。美帆が内側から引く。金属音がして、ようやく家が暗くなった。

玄関で、美帆が鍵を握ったまま立ち止まった。

「帰ってから、あのソファどうしようか」

「買い替えたい?」

「足、はみ出るでしょう」

夏実は少し考えた。

「見に行きたい。買うかどうかは、それから」

家へ戻ると、美帆は母の布団を預けたクリーニング店へ電話した。夏実は出張の荷物を解いた。別々の用事を済ませたあと、同じソファに座った。夏実が足を伸ばし、美帆の膝へ踵を置く。

「重い?」

「平気」

美帆は足首に触れた。その手を夏実が自分の手で覆った。

母の家の鍵は、返す日まで玄関の皿に置いた。二人の鍵と混ざらないよう、小さな布を一枚敷いた。まだ片づかないものに場所を作りながら、夏実は翌週、家具屋へ行く約束を手帳に書いた。

了Thank you for reading.

もう少し、夜のつづきを。

二つの住所に降る雪 →
ABOUT THIS LIBRARY

恋の、その先の余白。

「夜の余白」は、成人同士の恋愛と日々の心の動きを描く、オリジナル短編の書庫です。再会、秘密、別れ、そして新しい一歩。眠る前のひとときに、ひとつの物語を。

全130篇を無料でお読みいただけます。約10分で楽しめる短編を中心に、さまざまな恋の物語を集めました。作品はAIを用いて制作しています。露骨な性描写は含みません。

しおりと読書の設定

しおり・読んだ位置・文字サイズ・テーマは、このブラウザに保存されます。別の端末とは共有されません。ブラウザのデータを消去すると設定も消えます。

読了時間は1分あたり約400字を目安にしています。

運営名:夜の余白
初版:2026年10月21日
更新:2026年10月23日
収録:恋愛短編130篇(うち読了目安10分以上100篇)