午前二時、六十二歳の祥子が帰宅すると、台所の蛍光灯がついていた。夫の良一は肘をついたまま眠っている。机にはラップのかかった煮魚と、小さな皿の生姜。
祥子は起こさないように上着を脱いだ。それでも良一は目を開けた。
「温めるか」
「病院で食べたの」
彼の目が皿へ落ちた。六十五歳で食堂を閉めてから、良一は妻の夜勤明けに夕食を用意するようになった。祥子は何度も、帰る時間も食べる時間も決まらないと言った。それでも翌週にはまた皿が並んだ。
「食べるなら、さっき連絡くれれば」
「そんな暇がない日もあるの」
彼は黙って立ち、煮魚を冷蔵庫へ入れた。その動きに、店で売れ残りをしまうときの癖が残っていた。
祥子はその背中を見るのがつらかった。慰めるつもりで食べた日もある。その晩は胃が重く、朝まで眠れなかった。
寝室へ向かうと、良一が「明日は何時」と聞いた。
「表、冷蔵庫に貼ってある」
ドアを閉めたあと、聞こえない声で「おやすみ」と言った。店があったころも、二人はすれ違っていた。けれど、あのときの沈黙には互いの仕事が詰まっていた。今の沈黙には、行き場のない一人分の時間がある。
翌月、病院で夜勤を減らす打診を受けた。足腰を気遣う言葉と、若い看護師に経験を積ませたいという事情が半分ずつだった。祥子は返事を保留した。
帰宅すると、良一が食堂の古い椅子を直していた。閉店後も倉庫代わりに借りていた店舗を、夏までに返すことにしたのだという。
「この椅子、どこに置くの」
「台所に一本ぐらい」
「もうあるでしょう」
家の椅子は二脚とも、二人で選んだものだった。店から持ち帰った古いレジ、寸胴、壁時計が、すでに廊下を狭くしていた。
「何でもいらないって言うなよ」
良一の声は低かった。
「うちを店の倉庫にしたくないだけ」
彼がやすりを置いた。祥子は、これ以上言えば何かが割れるとわかったのに止まれなかった。
「毎晩ごはんを作って待ってるのも、私がお客さんの代わりなの?」
良一は椅子を持ち上げ、ベランダへ運んだ。その晩、台所の灯りはつかなかった。
祥子は暗い家で、パンを一枚食べた。静かで、楽だった。その楽さにほっとしたことまで、悲しかった。
翌朝、良一の姿はなかった。祥子は洗濯をして、午後から病院の研修へ行った。帰りに商店街の知り合いと会うと、「ご主人、悠々自適でいいわね」と言われた。祥子は曖昧に笑った。店を畳んだ日から良一が何時に起き、何度時計を見るのかを、その人は知らない。
家に戻ると、彼は店の帳面を箱に詰めていた。祥子の靴音に一度だけ顔を上げ、また紙へ目を戻した。声をかけられなかった。夜勤へ向かう前、祥子は炊飯器の予約をしてから、二人分では多いと気づいて米を少し戻した。
玄関の扉を閉めるとき、良一が「雨、降るぞ」と言った。祥子は傘を取りに戻った。「ありがとう」と言うと、彼は頷いた。それ以上は、二人ともまだ続けられなかった。
二日後、良一が「店の片づけ、日曜にやる」と告げた。手伝ってくれとは言わなかった。祥子は夜勤表を見直し、「昼までなら行ける」と答えた。
食堂の入口には、外した暖簾の跡だけが残っていた。祥子は三十八年前、ここで良一と会った。病院の寮から歩いてきて、日替わり定食の白身魚を食べた。二人とも二十代で、結婚までに七年かかった。
今は厨房の換気扇を止めると、道路の音が妙に近い。
食器を買い取る業者は、厚い皿にはほとんど値がつかないと言った。良一は了承したが、台に並べられた茶碗を一つずつ数えていた。
祥子は裏口で、ひびの入った湯呑を見つけた。底に赤い点がある。忙しい良一がほかの客のものと間違えないよう、祥子が自分で印をつけた湯呑だった。
「これ、まだあったんだ」
「捨てたら叱るだろ」
祥子は笑った。良一も、笑いかけてやめた。
昼過ぎ、業者が帰ると、店は二人の声が響くほど空いた。良一は厨房の隅に立ち、祥子のほうを見ずに言った。
「閉めて正解だった。腰も悪いし、客も減ってた」
祥子は頷いた。
「でも、正解なら平気かっていうと、そうでもない」
それきり彼は黙った。祥子は湯呑を新聞紙に包んだ。励ませば、彼がいつもの「そうだな」に戻ってしまう気がした。
「夜勤、減らさないかって言われてる」
今度は良一が振り返った。
「身体のことか」
「それもある。でも、断りたいと思ってる。家にいる時間が増えるのが、ちょっと怖かった」
言ったあと、祥子は唇を噛んだ。良一は空になった食器棚へ手を置いた。
「俺と二人が、か」
「うん。今のまま増えるのは」
良一は棚の扉を一度閉め、また開けた。忘れ物はなかった。
「そりゃ、俺も困るな」
彼の声に怒りがなかったので、祥子はかえって泣きそうになった。
二人は店の外で惣菜のコロッケを食べた。座る場所がもうなかったから、電柱の横に立った。良一はソースをかけすぎ、祥子が紙を渡した。久しぶりに、料理を作る人と食べる人に分かれていなかった。
店舗の鍵を返す朝、祥子は仕事を休めなかった。前日まで替わってくれる同僚を探そうとしたが、良一が首を振った。
「大家さんに渡すだけだから」
祥子は、付き添わなければ薄情だと思う自分と、もう何でも埋め合わせにしたくない自分の間で迷った。結局いつもの電車に乗った。昼休みに携帯を見ると、空の店舗の写真が一枚来ていた。
『返した。いま、蕎麦食ってる』
祥子は蕎麦の写真も頼んだ。良一から送られた写真には、丼の端しか写っていなかった。彼らしい下手さに笑い、笑えたあとで、店が本当に終わったことが胸へ来た。
帰宅すると、良一はテレビをつけずに座っていた。祥子は隣に腰を下ろした。彼は一度だけ彼女の肩へ額を寄せた。祥子は髪に手を当て、その重みを受けた。食事を作るより先に、こうしていてよかったのだと初めて気づいた。
夜勤を減らす話には、秋から月二回だけ減らすと返事をした。夫のためだけに辞めるとも、自分の意地だけで続けるとも決められなかった。夜中の階段で膝が痛むのは事実だった。
良一は近所の子ども食堂へ、月に二回手伝いに行くようになった。最初の日には包丁を研ぎすぎ、祥子が止めた。帰ってきた彼は、献立を仕切ろうとして担当の女性にたしなめられた話をした。
「三十年店やってたって、向こうじゃ新人だからな」
少し悔しそうで、少し楽しそうだった。
夜食の約束は、一度では決まらなかった。食べたい日は祥子が連絡する。連絡がなければ良一は先に寝る。それでも待っていた晩があり、祥子が怒ったこともある。
「わかったって言ったじゃない」
「わかったのと、できるのが違うんだよ」
そう言った良一は、翌朝自分で皿を洗った。祥子はその横で、彼が開け忘れたカーテンを引いた。
ある夜、帰ると台所ではなく、廊下の小さな灯りだけがついていた。食卓に、湯呑が二つ置かれている。祥子のものには赤い点があった。中は空だった。
彼女は湯を沸かした。音を聞いた良一が、寝間着のまま出てきた。
「起こした?」
「トイレだよ」
嘘かもしれなかった。でも祥子は追及しなかった。
お茶を淹れると、良一が向かいではなく隣へ座った。店から運んだ椅子は結局一本だけ残し、鉢植えを置く台になっている。良一はあの椅子に座らなくても、ここにいてよかった。
「お茶だけなら、腹に響かないな」
良一が言った。祥子は湯呑の縁に唇を当てたまま頷いた。彼の煮魚は好きだった。それを、今日は食べないと言えることと、嫌いになったことを、ようやく分けて話せそうだった。
「今度、休みの日に作って。昼に食べたい」
良一は湯呑を両手で包み、「鯖と鰈、どっち」と聞いた。祥子が鰈を選ぶと、「じゃ、鰈」とだけ言った。注文を取る声ではなく、二人で買い物を決める声だった。
祥子は今日あったことを話した。点滴の難しい患者の手を、若い同僚がうまく取れたこと。新しい靴がまだ少し硬いこと。良一は「そうか」と聞き、あとで足を見ると言った。
寝室へ戻る前、祥子は夫の頬に手を当てた。髭が少し伸びていた。
「明日の朝、何食べたい?」
良一は考え、「お前が起きてから決めよう」と答えた。
二人で灯りを消した。廊下だけは、つけておいた。