鍋の蓋が閉まらなくなったのは、直樹が落としたからだった。五十歳の誕生日を過ぎて三日目の日曜、台所の床に派手な音がして、杏子は洗面所から顔だけ出した。
「怪我は」
「ない。蓋が少し」
少し、ではなかった。縁が歪み、赤い琺瑯が米粒ほど剥げていた。結婚した年に買った鍋だった。四十八歳の杏子はそれを手に取り、黙って棚へ戻した。
「弁償するよ」
「同じもの、もう売ってない」
言ってから、自分の声の硬さに驚いた。直樹は床を拭き始めた。退職してから、彼は何かあるとすぐ掃除をした。早期退職に同意するまで会社で何があったか、杏子は断片しか聞いていない。聞くと「たいした話じゃない」と言われ、そのうち聞くこと自体をやめた。
夕飯は外で食べようという提案も断った。杏子には翌朝までに仕上げる校正があったし、出かけた先で明るくふるまう体力もなかった。
一人分のうどんを作っていると、直樹が背後で言った。
「俺のは」
「お腹、空いてたの」
それが、二人の今の暮らしを正確に表していた。相手が家にいることには慣れた。何を必要としているかは、もうわからなかった。
翌週、杏子が仕事を終えて居間に戻ると、鍋の置いてあった場所が空いていた。流しの横に、新品の銀色の鍋が置かれている。
「前のは?」
「粗大ごみじゃないから、金属の日に出した」
杏子は壁のカレンダーを見た。金属の日は明日だった。
階段を駆け下り、ごみ置き場の扉を開ける。新聞紙に包まれた鍋は、一番奥の箱にあった。持ち帰る途中で腕が震えた。重さではなかった。
玄関で直樹と鉢合わせた。
「そこまで大事なら、言ってくれれば」
「捨てるなら、聞いてくれればよかった」
二人とも声を荒らげずに言った。その静かさのほうが、怒鳴るより厄介だった。
杏子は鍋を抱えたまま座った。
「母が、最初にうちへ来たとき、これで肉じゃがを作ったの」
直樹は膝を折った。三年前に亡くなった義母のことを思い出すように、鍋の底を見た。
「あのとき俺、遅かったな」
「そう。母、何度も温め直してた」
彼を責めたいわけではない。母がまだいた台所を、処分するかどうか決める時間が欲しかった。杏子はそう説明しようとして、言葉を途中で失った。
直樹は代わりに説明せず、玄関の冷たい床に座った。鍋の取っ手には、昔杏子が焦がした茶色い染みがある。
「会社の机を空にするときさ」
しばらくして直樹が言った。
「二十二年置いてたマグカップを捨てた。持って帰ると、まだ通いたくなると思って」
その話を杏子は初めて聞いた。
「だからって、これは俺のじゃないな」
彼は鍋を受け取ろうとはしなかった。杏子はようやくそれを床へ置けた。
修理できる店を探したのは杏子だった。職人は写真を見て、食品を入れる道具としての修復は勧められないと言った。値段のせいではなく、安全のためだった。
電話を切ると、直樹が「どうだった」と聞いた。杏子は椅子を引いた。
「もう煮物は作れないみたい」
彼は頷いた。今度は代案を急がなかった。
それから二週間、赤い鍋は食卓の端に置かれたままだった。邪魔ではあった。郵便物が入り、やがて杏子がそれを取り出した。ある晩、蓋をかぶせようとして失敗し、二人で少し笑った。
母の肉じゃがの味を思い出そうとして、杏子は姉へ電話をした。姉は「私は最後に醤油を足す」と言い、杏子はそれが母のやり方ではないことに驚いた。
「同じにしようとすると、毎回お母さんに負けるから」
姉は電話の向こうで子どもを呼んでいた。杏子は何も言わずに聞いた。母の不在は二人に同じようには届いていなかった。それでよいのだとわかるまで、彼女にはまだ時間が要った。
電話を切ると、直樹がカレーの箱を読んでいた。老眼鏡を探して、見つけられずにいる。杏子は窓際から取って渡した。彼の眼鏡の位置を知っていることは、彼の心を知っていることとは違う。それでも、今渡せるのは眼鏡だった。
新しい鍋で直樹が作った最初のカレーは、水が多すぎた。杏子は仕事の手を止め、スプーンを持った。
「これ、スープカレーって言えば」
「じゃがいも、煮崩れてるけど」
「北海道の人には黙っていよう」
笑ったあと、直樹は「実はまだ次の仕事、探せてない」と言った。杏子の手が止まった。
「探してるって言ってたよね」
「求人は見てる。でも応募の欄になると閉じる」
杏子はスプーンを皿へ戻した。毎月の貯金が減っていることへの不安は、母を失った悲しみとは別に存在していた。
「私も余裕はないよ。今の収入でずっと二人は無理」
直樹は頷いた。「わかってる」とは言わなかった。
翌日、二人は通帳を並べた。杏子は数字を読んでいる間、夫の顔を見なかった。半年後に見直す項目を決めたが、その夜は別々に風呂へ入り、別々の時間に眠った。話せたからといって、不安がそのまま消えるわけではなかった。
通帳を片づけたあと、直樹は杏子の仕事部屋の入口に立った。
「会社の話、いつか聞ける?」と杏子は先に聞いた。
彼は壁に肩を預けた。上司が変わり、担当が外れ、会議に呼ばれない日が増えたことを、順番を何度も間違えながら話した。杏子は相槌を打ったが、最後に慰める言葉が出なかった。
「知らなかった」
それだけを言うと、直樹は「言わなかったから」と答えた。
杏子は、毎晩同じ家に帰ってくる人にも、こちらの知らない屈辱があることを考えた。自分にも、仕事を細切れにしか引き受けられなかった母の介護中の悔しさがある。どちらが深いかを比べ始めれば、また何も話せなくなる。
「今夜は、ここまででいい?」
直樹が聞いた。杏子は頷いた。彼が去ったあと、校正紙の余白に涙が一滴落ちた。仕事はまだ終わらない。杏子はそこを避けて、次の行へ赤を入れた。
翌朝、直樹は近所の公共施設の採用案内を印刷していた。以前の肩書とは関係のない、週三日の仕事だった。杏子は「向いてるよ」と励ます代わりに、「書類、封筒いる?」と聞いた。
彼は顔を上げ、「大きいの、あるかな」と答えた。
五月、赤い鍋には青紫の苗が植わった。杏子が花屋で選び、直樹が底へ穴を開けた。穴を開ける前、彼は電動ドリルを持って一度振り返った。杏子は「いいよ」と言った。
母のものを少しずつ整理していたとき、母にもらった種が引き出しから出てきた。それはもう芽が出なかった。花屋で同じ種類の苗を買うことは、嘘をつくことではないのだと思えた。
採用された直樹は、毎週火曜と木曜と土曜に弁当を作るようになった。最初は自分の分だけだったが、杏子が頼んで二つになった。仕事のない朝にも作る日はあり、作らない日もあった。
一度、杏子が締切前に苛立って「暇なら洗濯ぐらい」と口にし、直樹は食器を置いた。
「暇って言い方はやめてくれ」
杏子はすぐには謝れなかった。夜になってから、仕事部屋の扉を開け、「あれは悪かった」と言った。直樹も「洗濯は明日の午前にやるつもりだった」と説明した。たったそれだけの会話に、ずいぶん時間がかかった。
花の鍋を置くため、ベランダに小さな棚を作った。板の長さが合わず、店へもう一度行った。帰りに雨が降り、二人で一本の傘に入った。肩がぶつかると、直樹が少し身体を引いた。
杏子は袖をつかんだ。
「濡れるから、そこにいて」
家へ着くと、鍋の周りの土が湿っていた。雨の当たらない場所を選んだつもりだったが、風が吹き込んだらしい。直樹が棚をずらし、杏子が雑巾を渡す。
帰宅してから、杏子は濡れた傘を開き、直樹は玄関に新聞紙を敷いた。彼が靴を揃えながら「明日、十時に出る」と言った。新しい職場で、初めて一人で受付を任される日だった。
「夕方、うまくできたかは聞かないでほしい。たぶん、疲れているから」
「じゃあ、何を聞けばいい?」
「帰ってきたら、お茶があるかって」
杏子は笑わずに頷いた。翌日、自分がそのとおりに聞けるかはわからなかったが、覚えていたいと思った。
その夜は新しい鍋で肉じゃがを作った。母の味にはならなかった。砂糖を足そうとした杏子に、直樹が「今日のは、これでうまい」と言った。
食後も二人は食卓にいた。話題がなくなっても、どちらも立たなかった。直樹が杏子の手を取り、指の節を親指で撫でた。以前なら当たり前だった触れ方を、彼は少し確かめるようにした。
杏子はその手を握り返した。
ベランダで、歪んだ蓋が壁に立てかけられている。捨てる日をまだ決めていない。今は、決まっていないままそこにあってもよかった。