美緒は出発の朝、夫の切符を持っていなかった。四十三歳になって初めて、旅行の予約をそれぞれで取ったのだ。四十五歳の修司は駅の改札前に立ち、スマートフォンの画面を何度も確かめていた。
「本当に指定席、別なんだ」
「同じ列車よ」
美緒は答えた。結婚二十年。息子が寮へ入ってから、家の食卓が急に広くなった。その広さを埋めるように修司は仕事を持ち帰り、美緒は陶芸教室の曜日を増やした。二人とも相手の自由を尊重しているつもりで、相手の予定を知らなくなった。
八ヶ岳の麓を二泊歩こうと言い出したのは修司だった。昔、子供が生まれる前に二人で乗った高原列車に、もう一度乗りたかったらしい。美緒は承諾したが、計画を全部任されそうになって、切符も宿も半分ずつ担当しようと言った。
その半分がどこなのかで、小さな口論になった。結局、一泊目の宿と往路は修司、二泊目と帰路は美緒が手配した。座席を隣にする打ち合わせを、二人とも忘れていた。
列車の離れた席から、修司の後頭部が見えた。白髪が増えている。毎朝同じ洗面台を使っていながら、美緒はそのことに気づいていなかった。
高原の駅へ着くと、空気は東京より薄く冷たかった。修司はすぐに自分の上着を差し出しかけ、途中で止めた。
「寒かったら、言って」
美緒は自分の鞄からカーディガンを出した。その用意があることを、今は勝ち負けのように思わずに済んだ。
一泊目の宿は、修司が写真で選んだという古い山荘だった。玄関に薪の匂いがし、廊下は歩くたびに大きく鳴った。案内された部屋にはベッドが二つあり、その間に背の高い棚が置かれていた。
「眺めがいいって書いてあったんだけど」
窓の外は一面の霧だった。修司の申し訳なさそうな声に、美緒は反射的に大丈夫と言いそうになった。いつもそう答え、後で疲れてしまう。
「私は、もう少し明るい部屋が好き」
修司の顔が曇った。
「でも、薪の匂いは好き。夕飯まで散歩したい」
彼はしばらくしてから頷いた。言い分を最後まで聞いてもらうだけのことが、久しぶりだった。
林道には濡れた落葉松の葉が細く積もっていた。十分ほど歩くと美緒の靴紐がほどけた。修司は先へ進みかけて振り返り、何も言わずに立ち止まった。美緒は片膝を曲げ、結び直した。その手元へ小さな光が差す。彼が携帯のライトを向けていた。
「前は、僕がすぐ結ぼうとしたな」
「そうね。親切だった」
美緒は靴紐を引き締めた。
「親切だったけど、私はいつからか、できない人になっていた」
修司のライトが少し揺れた。美緒は責めたかったわけではない。けれど責めないために言わずにいることにも、もう疲れていた。
「僕は、必要とされる方法が、それしかなかったのかもしれない」
二人は近くの倒木に座った。霧の中では、遠くの川の音だけが大きい。
修司は父親の話をした。家事をせず、家族旅行でも何も決めなかった父とは違いたくて、役に立つ夫であろうとした。その役の出来を、美緒の表情で測ってきたのだという。
「私が機嫌よくないと、失敗になるのね」
美緒が言うと、修司は目を伏せた。
「それは、苦しいな。お互い」
すぐには慰めなかった。二人でその苦しさを聞いていた。やがて霧の粒が睫毛につき、修司が可笑しそうに、美緒の眉毛まで濡れていると言った。美緒も笑った。久しぶりに、何かを丸く収めるためではない笑いだった。
翌朝、修司は一人で日の出を見に行った。美緒は寝ていたかった。目を覚ますと、枕元に宿の便箋が置いてあり、朝食は八時半、間に合わなければ先に食べて、とだけ書かれていた。昔の彼なら、きれいだった景色を見逃した美緒のために、熱心な説明を用意しただろう。
食堂で合流した修司は、日の出の話をしなかった。美緒が尋ねると、太陽は出なかった、と嬉しそうに答えた。
「代わりに、鹿を見た」
美緒は少し羨ましかった。羨ましいままでいられることも、新鮮だった。
二泊目に美緒が予約したのは、小さな駅のそばの民宿だった。山荘より明るく、窓から洗濯物と線路が見えた。修司は景色を眺めてから、いい部屋だと言った。気を遣った声ではなく、畳に腰を下ろして脚を伸ばす声だった。
午後は別々に過ごした。美緒は近くの窯元へ、修司は古い鉄橋を見に行った。駅前で四時に待ち合わせ、遅れる時は連絡すると決めた。たったそれだけなのに、初めての約束のように緊張した。
窯元で美緒は小ぶりな茶碗を一つ買った。家では同じ柄の夫婦茶碗を使っている。修司の分も買うべきかと手を伸ばし、やめた。好きかどうかは本人に聞けばいい。
待ち合わせた駅には、先に修司がいた。美緒に気づいて立ち上がる動きが、若い頃と同じだった。手には紙袋がある。
「何を買ったの」
「僕の弁当。夕飯まで我慢できなくて。そっちは?」
「私の茶碗」
二人は顔を見合わせた。美緒は、窯元で来月から始まる短期講座の案内をもらったと話した。三週連続で土曜日を使う。東京から毎週通うなら交通費もかかるが、粘土を扱う一日の長さを、自分の体で覚えたかった。
「行けばいいよ」
修司は答え、それから自分で首を振った。
「許可みたいになった。どういうところが面白そうなのか、聞かせて」
美緒は鞄から折った案内を出した。釉薬の流れ方と、土に含まれた鉄の話をすると、修司は分からないところで質問した。分かったふりをしない彼へ説明するうちに、美緒自身にも、ただ上手になりたいのではないことが分かってきた。自分が思う通りにならない材料と、時間をかけて付き合いたかった。
「じゃあ、その土曜日、僕は自分の予定を決める。君がいないから何もできなかった、とは言わない」
彼は冗談めかして言ったが、美緒は真面目に頷いた。
帰った後も二人の癖はすぐには消えないだろう。修司は先回りし、美緒は黙って不満を貯めるかもしれない。それでも今は、その癖を二人で見られる場所に置けた。案内の紙が風で飛びそうになり、二人は同時に端を押さえ、どちらからともなく笑った。
分け合うことを義務にしないと、かえって相手の持ち物が気になる。美緒は袋から茶碗を出して見せた。修司は青い釉薬を親指でそっとなぞり、明日の朝、自分も店に行こうかなと言った。
ベンチで弁当の蓋を開けると、甘辛い牛蒡の匂いが立った。修司が一切れいるかと尋ね、美緒はいると答えた。彼の箸から受け取らず、蓋を皿にしてもらった。そういう小さな変更の一つ一つに、二人は言葉を使った。
その夜、美緒は湯上がりの廊下で修司と鉢合わせた。彼の髪は乾ききっておらず、耳の上の白髪が光っていた。
「二十年前にここへ来た時、何を考えてた?」
部屋へ戻ってから美緒が尋ねると、修司は窓際に座ったまま考え込んだ。
「君に退屈だと思われないように、次に何を話そうか考えてた」
「私は、足が痛いって言うタイミングを探してた」
二十年越しに、その旅の事実が変わった。思い出の中の二人は、ずっと幸福で、何の問題もなかったはずなのに。それぞれの不器用さを知らないまま、幸福の形に固定していたのだ。
「今は、足は?」
「少し痛い」
「揉んでもいい?」
美緒は頷き、布団の上へ足を伸ばした。修司の手は加減を確かめながら動いた。強すぎると言えば弱くなり、そこはいいと言えば、そこに留まった。美緒は自分が望むことを言うたびに、夫の手の温かさをはっきり感じた。
途中で彼の肩へ手を伸ばし、今度は私、と言った。修司の肩は思っていたより硬かった。こんな場所で毎日を持ちこたえていたのか、と美緒は思った。
「来年も来る?」
修司の問いに、すぐには返事をしなかった。
「秋になったら、また聞いて。その時の私たちで決めたい」
彼は頷き、肩越しに美緒の手を握った。振り向いて交わした口づけは、若い頃より短く、確かめる時間が長かった。
帰りの列車では、二人の席は隣だった。美緒が予約した時、そこだけは覚えていたのだ。修司は窓側を譲ろうとして、どちらがいいと尋ね直した。美緒は通路側を選び、駅で買ったパンを自分の膝へ置いた。
山の稜線がゆっくり遠ざかる。彼女は修司の袖を軽く引き、眠るから着いたら起こしてと言った。役目を渡すことと、全部を預けることは違う。目を閉じる前、彼の指が美緒の指先に触れた。握らず、離れず、列車の揺れに合わせて、二人の手はそこにあった。