忘れものを引き取るだけのつもりだった。
三十五歳の奈緒に届いた荷物は、古い万年筆だった。実家の片づけで見つかったものを、母が持ち主の名前も分からないまま送ってきた。
キャップの内側には、小さく『K』。奈緒は十一年ぶりに、圭介の連絡先を探した。
万年筆の入っていた封筒には、母の字で「あなたの机の奥から」と書いてあった。実家は来月、耐震工事のために荷物を出す。奈緒が上京するとき残したものは、段ボール三箱に収まったらしい。十一年の間、自分の部屋だと思っていた場所が、三箱になる。その軽さに少し傷つき、同じくらい安堵した。
万年筆を最後に使ったのは、新人研修の宿題だった。将来の目標を原稿用紙に書けと言われ、見栄を張って難しい言葉を並べた。圭介なら笑うだろうと思ったことを覚えている。そのあと連絡が途絶え、筆記具はいつしか故郷の机へ戻された。置きに帰った日のことだけは思い出せなかった。
連絡先を探すため、奈緒は大学時代の友人に電話した。いきなり番号を教えてもらうのも違う気がして、圭介に自分の連絡先を渡してよいか、先に聞いてほしいと頼んだ。
「直接連絡すればいいのに」
「昔の番号に、別の人が出るかもしれないから」
それは半分だけ本当だった。別の生活をしている圭介に、こちらから何を持ち込むのか、自分で説明できなかった。
返事はその日の夜に届いた。番号は同じ、元気ですか。それだけの短い文章を、奈緒は駅のホームで何度も読んだ。万年筆を返したいと書くと、彼は少し間を置いて、土曜なら実家の近くにいると答えた。会わずに送る選択肢もあることを、二人とも口にしなかった。
土曜の朝、奈緒は文具店へ寄った。書けない万年筆をそのまま渡すのが気になったのだ。店主はペン先を見て、洗ってインクを替えれば使えると教えた。古い軸には細かい擦り傷があった。奈緒が就職したてのころ、胸ポケットに差して歩いた痕跡だった。
待っている間、店主は試し書き用の紙を出した。奈緒は鉛筆で自分の名前を書いた。名字は六年前に一度変わり、二年前に戻った。圭介はそのことを知っているのだろうか。知らなくても、今日すべてを説明する義務はない。そう考えてから、説明したいのだと気づいた。
修理を終えた万年筆は、インクがなじむまで少し時間がかかると言われた。奈緒は小さな紙袋を受け取り、試し書きの紙だけ捨ててもらった。昔の自分の字を探すようなことは、今日はしなくてよかった。
待ち合わせた公園で、圭介はベビーカーを押していた。奈緒の足が一瞬止まる。
「姪。妹がパン買いに行ってる」
彼は早口で言い、耳まで赤くなった。奈緒も、自分の足が止まった理由を説明できずに、赤くなった。
三十七歳になった彼には、目元に細いしわがあった。そこに知らない年月があるのを、少しうれしく思った。
「これ、借りたままだった」
万年筆を差し出すと、圭介は首をかしげた。
「あげたんだけど」
「え?」
「就職祝い。箱に手紙、入れてた」
奈緒は記憶をたどった。引っ越し、段ボール、卒業式の日のひどい雨。箱を捨てた覚えだけが、やけにはっきり残っていた。
「読んでない」
圭介は空を見上げた。
「そっか。返事がないのが返事だと思ってた」
ベビーカーの子が、靴を片方落とした。奈緒が拾い、圭介が小さな足にはかせた。その作業が終わるまで、二人とも黙っていた。
奈緒はベンチに腰を下ろした。彼が立ったままだったので、隣を指した。圭介はベビーカーの向きを変え、二人の前に置いてから座った。子どもは眠りかけていて、片手だけ毛布の外に出している。
「妹さん、もうお母さんなんだ」
「去年。俺はたまに運搬係」
「よく頼まれる?」
「頼まれるようになった。前は、忙しいって先に言ってたから」
圭介は地元の測量会社に勤めていた。父の入院をきっかけに五年前に戻り、今もそのまま暮らしているという。奈緒は出版社から教育関係の会社へ移ったことを話した。お互い、卒業したころに語った仕事とは少し違う場所にいた。
「昔、全国を飛び回りたいって言ってたね」
「今は近所の坂を測ってる。でも、同じ道でも知らないことはあるよ」
圭介の言葉に、諦めた人の響きはなかった。奈緒は自分が、彼の人生を変わらなかったものとして想像していたことを恥ずかしく思った。連絡を待っていた十一年前の姿のまま、こちらの記憶に置いていたのだ。
奈緒は離婚したことも伝えた。圭介は驚いた顔をしたが、理由を尋ねなかった。
「俺も、一緒に住んでた人とは別れた。三年前」
彼女は、それならよかった、と思いそうになり、その言葉を心の中でも言わないようにした。彼にとって大切だった時間を、自分に都合のよい事情へ変えたくなかった。
「それぞれ、いろいろあったね」
「うん」
圭介の返事は短かった。短い返事の中にも、今は聞かなくていい話がある。奈緒は万年筆のキャップを外し、ペン先の細い溝を眺めた。
「何て書いたの」
圭介は笑った。
「十一年前の俺に聞かないと」
「今、だいたいでいいから」
彼は笑うのをやめた。
「向こうに行っても、会いに行っていいか、って」
奈緒は万年筆を握り直した。異動先の街で、彼の連絡をずっと待った。自分から送ればよかった。たった一通の行き違いを、運命のように扱っていた。
「私も、会いたかったよ」
言葉にしてから、十一年前には戻れないと分かった。二人にはそれぞれ、別の恋や別れがあった。失った時間が急に埋まるわけではなかった。
圭介は、当時の自分がどんな便箋を選んだかは覚えていると言った。駅前の店で、柄のないものを買った。書いてみると長くなりすぎ、最後には三行だけ残したという。
「電話で言えばよかった」
「私も、ありがとうだけで済ませたね」
卒業の翌日、奈緒は短い礼の連絡を送っていた。圭介はそれを、手紙の内容には触れたくないという意味に受け取った。奈緒は、彼から別の話題が来ないのを、もう終わったという意味に受け取った。二人とも、相手の沈黙を翻訳するのがうまいと思い込んでいた。
「私たち、付き合ってたわけじゃないのに、別れたみたいになった」
「そうだね」
「だから余計に聞けなかったのかな」
奈緒は自分の言い方を確かめるように、ゆっくり話した。圭介は同じ速さでうなずいた。あのころも彼はよくうなずいた。その意味を、いつも自分への同意だと思っていた。考える時間を取っていただけなのかもしれない。
「今なら、聞ける?」
圭介が言った。
奈緒はすぐに答えなかった。今なら何も怖くない、とは言えなかった。結婚を一度終えても、人を傷つけることや、自分が望んだとおりに返されないことには慣れない。ただ、確かめずに年月へ預けてしまった結果なら知っている。
「聞きたいと思って、今日は来たみたい」
返すだけだったはずの万年筆を、彼女は鞄へ戻さずに握った。
妹が紙袋を抱えて戻ってきた。圭介は奈緒を紹介し、少し言いよどんでから「昔、大事だった人」と言った。
奈緒はその言い方を、帰り道まで持ち歩いた。
妹は二人の間を一度だけ見て、パンを一つずつ渡してくれた。焼きたての匂いが、話しそびれた時間の中へ入ってきた。子どもが目を覚まし、圭介の袖をつかんだ。彼が自然に指をほどいて母親へ渡すところを、奈緒は見た。知らない生活の一端に混ぜてもらったようで、少し落ち着かなかった。
「昔、大事だった人」という紹介には、過去形の寂しさと、曖昧に扱われなかった喜びの両方があった。今も、と付け足してほしい気持ちはあったが、今日会ったばかりの二人に、そこまで約束させたくもなかった。
妹と別れてから、二人は川沿いを駅まで歩いた。奈緒は土曜に来た理由を聞いた。圭介は翌日、地元の仲間と橋の清掃をするのだという。奈緒にも日曜の予定があった。友人と映画を見て、その帰りに実家の箱を取りに行く。昔なら、会えたうれしさで自分の予定を何もかも脇へ置いたかもしれない。
「また来ること、ある?」
「母の家が落ち着くまで、何度か」
「そのついででも」
圭介はそこで言葉を止めた。奈緒も歩みを緩める。
「ついでじゃない日も、作れると思う」
彼女が言うと、彼は小さく息を吐いた。ほっとした顔だった。大人になっても、勇気を出す前の表情は隠しきれないらしい。
川沿いには、奈緒が知らない店が増えていた。以前よく寄った定食屋はなくなり、その場所に自転車の修理店があった。変わらないものを探すより、今の町を教えてもらうほうがよかった。圭介は改札まで案内しようとして、奈緒が一人でも帰れることに気づき、少し笑った。
「今日、来てくれてありがとう」
「こちらこそ。万年筆、返したほうがいい?」
「奈緒が使って。今度こそ、そういう意味で」
彼女はうなずいた。贈りものの意味を確かめ直せることが、こんなに静かな出来事だとは思わなかった。
駅の手前で、彼が手を振ろうとした。
改札の表示には、次の電車まで七分と出ていた。奈緒は急げば間に合うと考え、それから、急がなくてもいいと思い直した。今日中に済ませなければならない用事は、もうない。七分を惜しんで言葉を飲み込めば、また自分で長い時間を作ってしまう。
「来週、電話してもいい?」
圭介は聞いた。
「来週じゃなくても。返せない時間は、あとで返すから」
仕事中や友人といるときには出られない。それを断りだと思わないでほしい。奈緒はそこまで言葉にした。圭介は分かったと答え、自分も現場では携帯を見ないことがあると教えた。何もかも分かり合えたわけではない。ただ、分からないときに決めつけないための、小さな注意書きを交換した。
奈緒は万年筆を見た。これだけ長く手元にあったのに、ようやく本当の持ち主になれた気がした。
「今度は、箱なしにしよう」
奈緒は鞄からメモ帳を出し、万年筆で自分の番号を書いた。インクはかすれて、最初の一文字が少し薄くなった。
「今、返事して」
圭介は紙を受け取り、その場で電話をかけた。奈緒の鞄の中で、呼び出し音が鳴った。
十一年も待った音は、驚くほど普通だった。