五十歳の加奈が千ピースのパズルを持ち帰った日、五十四歳の修一は、どこに置くの、と言った。絵柄を褒めるより先に出た言葉だったので、加奈は箱を抱えたまま黙った。
「テーブルの端なら置けると思って」
「食事は?」
「板を買ったの。そのまま動かせる」
加奈は丸めたフェルトのマットと薄い板も見せた。修一は、そこまで考えてあるなら、と椅子を引いた。許可を出すような言い方に少し引っかかったが、加奈は箱の蓋を開けるほうを選んだ。
二人の休日は半年ほど前から合わなくなっていた。加奈の勤める店が日曜営業になり、修一は平日の出張が増えた。若いころなら夕飯を待っていたが、今は先に食べる。眠気を我慢して映画を見ることもなくなった。生活は楽になったのに、話すことまで用事ばかりになっていた。
パズルなら、同じ時間に席につかなくても、一つのものを作れる。加奈がそう説明すると、修一はようやく絵柄を見た。運河沿いの街を描いた絵だった。夕暮れの空が広く、窓ごとに違う灯りがついている。
「どこかで見た景色みたいだな」
「行ったことはないけどね」
「だからかな」
その短いやり取りだけで、加奈は買ってよかったと思った。二人はまず、縁のピースを分けた。修一は色を揃え、加奈は形で探した。やり方が違っていても、初めは面白かった。
翌週、帰宅した加奈は、空の部分が半分ほど埋まっているのを見つけた。修一は出張の前夜、眠れずに進めたらしい。台所のメモに「青いところ、難しい」とあった。加奈は仕事の疲れも忘れ、窓の灯りを三つ完成させた。メモの下へ「黄色は楽しい」と書き足した。
二人の会話が紙の上で増えていった。買い物の頼み事の横に、赤い屋根が見つからない、と書かれる。修一は昼休みにパズルの写真を送ってきた。加奈は客の途切れた時間に見て、そこは空ではなく水面だと返信した。
帰宅後、修一はそのピースを置き直していた。加奈は少し得意になった。修一が空を進めるあいだ、加奈は建物を担当した。担当と決めたわけではないのに、いつの間にかそれぞれの領分ができた。
ある夜、加奈が小さな橋を完成させていると、修一が横から一片を差し込んだ。ぴたりとはまり、橋の欄干がつながった。
「そこ、探してたの」
「目の前にあったよ」
何気ない返事だった。しかし加奈は、自分が鈍いと言われたように感じた。礼を言ったが、声は平たくなった。修一も気づいたらしく、次のピースには触れなかった。
休日が合わないことだけが問題ではないのかもしれない。加奈はそう考えた。二人で使える時間が減るにつれ、わずかな時間に気の利いたことを言おうとして、失敗した言葉を必要以上に覚えるようになっていた。
月末の金曜日、ようやく二人とも早く帰れた。加奈は煮込み料理を温め、修一は食器を並べた。あと少しで空と建物がつながる。食事の前にそこだけ、と二人で座った。それがいけなかったのかもしれない。
一か所だけ、どうしても合わなかった。中央の尖塔の上、空が細く入り込む場所だった。形の合うピースを置くと、雲の筋がずれる。絵を合わせると隙間ができる。
「上が一列、違うんじゃない?」
加奈が言うと、修一はすぐに首を振った。
「全部確認した。建物のほうじゃないか」
加奈は尖塔の周囲を押さえた。自分が昨夜、一時間かけたところだった。無理にはめたものはない、と答えた。修一も空は合っていると言った。加奈は彼の指の下にある青い一片を外そうとし、修一は、まず下を見ようと止めた。
小さな紙の欠片のために、夕飯が冷めた。鍋から湯気が消えたのに、どちらも立とうとしなかった。加奈は最後に、いつもそう、と言った。
「何が、いつも?」
修一の声が低くなった。加奈は言葉を探した。旅行の道順、家電を買うとき、古い保険の書類。いくらでも思いついたのに、それを持ち出したら別のけんかになると分かった。
「今は、うまく言えない」
加奈が椅子を引いた。修一は追いかけなかった。台所で鍋の蓋を開けると、表面に薄い膜が張っていた。加奈は火をつけ、木べらでゆっくりかき混ぜた。その間に修一が二つの椀を持ってきた。
「これ、仲良くするために買ったのに」
加奈は火を見たまま言った。修一は、うん、と答えたあと、長く黙った。
「自分が正しいことに夢中になってた」
加奈は謝罪の順番を自分へ回されたような気がして、すぐには返事をしなかった。修一は続けた。
「パズルをやめろって言いたいんじゃない。空をやった時間を、間違いにされたくなかった」
その言葉なら分かった。加奈も尖塔を作った時間を守っていた。完成に近づけるための指摘が、自分の時間への批判に聞こえていた。
「私も。建物に触られると、仕事を取り上げられたみたいになってた」
湯気が戻ってきた。二人は夕飯を食べ、パズルには戻らなかった。食後の皿洗いをどちらがするか、いつもより丁寧に聞いた。丁寧すぎて少しおかしくなり、修一が笑うと、加奈もようやく笑えた。
翌朝は曇っていたが、部屋の明るさは夜と違った。加奈がカーテンを開けると、修一も起きてきた。二人はコーヒーを淹れ、問題の場所を見た。
雲だと思っていた白い筋は、建物の旗だった。修一の空に、尖塔の先端が一片紛れていた。一方、加奈の組んだ屋根には、よく似た別の建物の軒が入っていた。間違っていたのは二人ともだった。
加奈は思わず笑った。修一は眼鏡を外して目をこすり、それから肩を落とした。
「同点にできたな」
「点をつけるの、やめよう」
「そうだな」
今度は担当を分けず、一片ずつ外した。失われるのは正しさだけで、作った時間まで消えるわけではなかった。加奈が空の一片を置き、修一が窓をつなげる。絵は昨夜よりずっと簡単にまとまった。
残りは一つになった。運河の暗い水面に、小さな穴が開いている。二人は箱の隅、マットの裏、椅子の脚元を探した。最初は静かに、やがて本気で探した。修一が掃除機で吸ったかもしれないと言い、加奈は最後に掃除したのは自分だと答えた。
責任を決める前に、まず探そう。どちらともなくそう言った。前日なら言えなかったかもしれない。
ソファを少し動かすと、埃の中に青黒い一片があった。加奈が拾い上げ、修一を呼んだ。修一は受け取ってから、彼女に返した。
「見つけた人が」
「二人でやればいいじゃない」
二本の指で押さえるには小さすぎたので、加奈が縁を持ち、修一が中央を押した。小さな音がして、運河の水がつながった。完成したと声にするより早く、二人とも息を吐いた。
額を買う話になった。修一が寸法を測ろうとすると、加奈はまだいいと言った。壁に掛ければ、毎日見られる。それでも、机の上に置かれた景色をもう少し残しておきたかった。途中のまま近づいて、指を置ける距離が好きだった。
完成から三日後、加奈は仕事で腹の立つことがあり、家でも話したくなかった。修一は先に帰っていて、パズルの横で新聞を読んでいた。彼は顔を見て、何かあった、と聞きかけたが、湯を沸かすほうへ行った。
加奈は完成した空を見た。もう置くものはない。それでも椅子に座ると、仕事の帰り道でずっと握っていた肩の力が抜けた。修一が温かい麦茶を置いた。彼自身は緑茶を飲んだ。
「今日、失敗を人の前で直されたの」
加奈が言うと、修一は頷いた。どんな失敗かを急いで聞かなかった。加奈は間違いを認めていること、でも皆の前で言われたのが嫌だったことを、ゆっくり分けて話した。
「この間の、私みたいだった」
「俺みたいでもある」
その返事に笑えた。パズルが二人を賢くしたわけではない。同じ間違いはまたするだろう。ただ、机の上に、間違えたあとでも完成したものがある。それが加奈には心強かった。
額のカタログを見ていた晩、修一が仕事の資料をダイニングへ広げた。パズルの板を動かす必要があった。加奈は反射的に、まだそこに置いておきたい、と言いそうになったが、修一が先に、今夜だけ場所を借りていいかと尋ねた。
「いいよ。持つの、手伝って」
二人で板の両端を持ち、窓際の棚へ移した。完成した絵でも、持ち運ぶと少したわんだ。加奈は水面の一片を気にして目で追った。修一は慎重に板を下ろし、これなら明日戻せると言った。
加奈は台所から彼の仕事を眺めた。数字の並んだ資料に赤い印が増えていく。彼にも、時間をかけたものを間違いだと指摘される夜があるのだろう。以前なら仕事の話は家でしないと決めていた。それが互いを気遣う方法だった時期もある。でも最近は、仕事を除くと、その日の大半が話せなくなっていた。
「今日は、何を直してるの」
修一は少し驚いた顔をした。専門用語を使いかけ、言い直した。出張の順番を変え、無駄な移動を減らしているという。加奈には詳しいことは分からなかったが、赤い印の意味を一つずつ聞いた。
「ここを変えると、別の人が困るんだ」
「空だけ合ってても、建物が合わないのね」
修一は笑った。便利な比喩にしてしまうのは少し照れくさかったが、加奈にも彼の迷いが分かった。正しい答えを一人で探しているようで、実際には誰かの持つ別の一片を待っている。
翌朝、修一は資料を片づけ、パズルを元の位置へ戻した。加奈のマグカップの横に、昨日は聞いてくれてありがとう、とメモがあった。彼女はその下に、今日は店の話を聞いて、と書いた。何時に帰るかという連絡に、もう一つ、帰る理由が増えた。
次の休日、二人は額を見に出かけた。店には千五百ピースの新しいパズルもあった。修一が立ち止まると、加奈は急がなくていいと言った。今の景色をもう少し眺めたい。修一は箱を戻し、代わりに加奈の好きな焼き菓子を買った。
帰宅して、二人は別々のお茶を淹れた。額はまだ包んだままだった。加奈は運河の端を指でなぞり、修一は窓の灯りを数えた。窓を開けると、二人の湯飲みから立つ湯気が同じ方へ流れた。
完成した景色の前で、今日あったことを少しずつ交換する。終わらせることだけが、一緒に何かをする理由ではなかった。