三十六歳の沙知が山あいの列車に乗ると、前の席の男が落とした手袋を拾った。
手袋は通路に落ち、座席の脚の陰に半分入っていた。沙知が声をかけると、四十歳の彼は鞄を持ち上げ、何度も礼を言った。灰色の毛糸は古びていて、親指の根元だけ新しい糸で繕われていた。
「気づかないところでした」
彼は受け取り、向かい合わせの席へ移ってもいいかと尋ねた。ほかの乗客が少なく、どこにでも座れる朝だった。
二人は、あえて同じ四人席に座った。沙知は窓側の鞄を膝へ移し、彼は斜め向かいへ腰を下ろした。真正面ではない距離が、初対面にはちょうどよかった。
沙知は仕事を辞め、一週間だけ旅をしていた。
出発前、友人には休暇のようなものだと説明した。実際には帰ったあとに勤める場所は決まっていなかった。長く働いた旅行用品の店が閉じ、自分も一度立ち止まりたいと思ったのだ。
客の旅の準備を手伝う仕事は好きだった。軽い鞄を選び、荷物を減らす工夫を伝え、行ったことのない町の天気を調べた。客から帰りに写真を見せてもらうのも楽しみだった。
しかし、店を閉める前の半年は、仕入れを減らし、棚を空け、いつまで使えるかと問われる割引券について説明することが続いた。好きだった仕事を最後まで好きでいられなかったことが、沙知には寂しかった。
旅へ出れば気分が変わると思った。三日目の今朝も、目が覚めたときには、開店までに出勤しなければという焦りがあった。旅館の天井を見上げ、自分を待つ店はもうないと思い出した。
列車に乗る前、駅の売店で時刻表を買った。携帯電話で調べられるが、紙をめくる間は、まだ行き先を決めなくてもいいような気がした。
男は故郷で母親の家を片づけた帰りだった。母は町に近い小さな家へ移り、今までの家は手放すことになったという。
「物が多くて。三日もあれば終わると思ってたんですけど」
彼は手の甲を見た。爪の近くに小さな擦り傷があった。
沙知は、何を残すか迷うと時間がかかる、と答えた。店を閉めた最後の日、見本として使っていた古い鞄を捨てられなかった話をした。
「売りものでもなかったのに、持って帰ってしまって」
「僕も、欠けた急須を」
彼は笑った。客が来ると母がその急須で茶を淹れ、注ぎ口から必ず少しこぼれた。子どものころは新しいものを買えばいいのにと思っていたが、片づけのときに捨てられなかった。
「お母さんは、残したかったんですか」
「母は、もう要らないって。僕のほうが、あの家を片づけたくなかったみたいです」
沙知は窓の外を見た。雪は日陰にだけ残り、田んぼの土は黒く濡れていた。人の家にも、閉じる店にも、同じように終わる瞬間があるわけではないのだろう。先に次へ進む人と、あとで戸締まりをする人がいた。
彼は母が新しい家で買った明るいカーテンの話をした。昔の家なら派手すぎると思った色なのに、今の部屋にはよく合っていたという。母はすでに次の窓を見ている。自分だけが、古い窓からの山の形を何度も確かめていた。
「旅行、楽しいですか」
彼が聞いた。
沙知は少し迷った。どこへ行ってもおいしいものはあり、宿の人は親切だった。景色の写真も増えた。それでも、楽しいとだけ答えると、話を終わらせるような気がした。
「寂しいです」
口にしてから、知らない人に何を言っているのだろうと思った。彼は驚いた顔をせず、帰省もそうでした、と言った。
その返事に、沙知は少し肩の力を抜いた。旅に出たら元気にならなければいけない、という予定を、自分で立てていたらしい。
「一人の旅、向いてないのかもしれません」
「向いてるかどうか、決めなくてもいいんじゃないですか」
彼は鞄から魔法瓶を出した。蓋に少し湯を注ぎ、自分だけで飲んだ。知らない相手と話しているからと、何でも分け合う必要がないところに、沙知は安心した。
列車がトンネルへ入った。窓に二人の姿が映った。沙知は髪を耳へ掛け、彼は手袋をきちんと重ねた。互いの生活を知らない者同士が、たまたま今朝だけ同じ速さで移動している。それで話せることもあった。
トンネルを出ると、彼が窓の曇りを指で小さく拭いた。その向こうに川が見えた。水の色は濃く、岸には細い道が続いていた。
「子どものころ、この川がずっと同じ町を流れてると思ってました」
彼が言った。沙知は、自分も電車の終点の先を想像したことがなかったと話した。道具として知っている線路と、旅で乗る線路は、同じでも違って見える。
小さな駅で、作業着の男が降りた。ホームで待っていた子どもが手を振った。沙知は、その二人を見送る彼の横顔を見た。
「今日は、どこまで?」
彼が尋ねかけたとき、車掌が検札に来た。二人はそれぞれ切符を出した。沙知が降りる駅は、彼より二つ手前だった。
彼は町の名を聞き、いい町です、と答えた。
沙知は予定を説明した。古い建物を見て、川沿いを歩き、時間があれば小さな資料室へ寄る。それだけ決めていた。
「駅前に、定食屋があるんです」
彼は観光地より、その店の話を詳しくした。昼に行くと煮魚がある。席の窓は大きいが、駅しか見えない。昔は父と列車を待つ間に入ったという。
沙知は店の名を時刻表の余白へ書いた。彼は、最後に行ったのは何年も前なので、まだ開いているか分からないと付け足した。
「なかったら、別の店を探します」
沙知が答えると、彼は笑った。自分の案内が正しいか確かめようと、携帯を出しかけていた手を止めた。旅の行き先を一つ教えたからといって、その人の昼食まで保証しなくてもよかった。
彼は高梨と名乗った。名刺の表には、聞いたことのない会社の名前があった。裏へ私用の連絡先を書き、沙知の座席の前へ置いた。
「店、閉まっていたら教えてください」
その頼み方に、沙知は少し笑った。開いていたら、ではないのだ。
「開いてても、教えていいですか」
彼は少しだけ照れた顔をして、もちろん、と答えた。沙知も名前を伝えた。彼は一度その名を繰り返した。
列車が駅へ近づいた。沙知は鞄を肩に掛けた。まだ話せることがありそうだったが、乗り過ごしたいとは思わなかった。この町を歩こうと決めたのも、自分だった。
ホームに降りると、空気が一段冷たかった。窓の向こうで高梨が片手を上げた。沙知も手を振った。列車が動き始め、彼の座っている四人席が、ゆっくりホームの端へ流れていった。
改札を出て、沙知は振り返った。線路の向こうに白い山が見えた。写真を撮り、すぐには誰にも送らずにしまった。今見たものを、少しの間自分だけで持っていたかった。
資料室は冬の間、開館日が限られていた。沙知が着いたとき、扉には休館の札が出ていた。以前の自分なら調べておけばよかったと一日の失敗に数えただろう。今日は札の下に貼られた昔の町の写真を見て、引き返した。
川沿いには石のベンチがあり、遠くから来たらしい二人連れが弁当を広げていた。沙知は少し離れた場所で時刻表を開いた。次の列車まで二時間ある。今すぐ予定を埋めなくても、川は流れていた。
昼、定食屋は開いていた。引き戸を引くと、暖房の風とだしの匂いがした。窓際の席へ座り、煮魚を頼んだ。店主に初めて来たと話すと、雪の残る今ごろもきれいでしょう、と言われた。
魚は熱く、骨が多かった。沙知はゆっくり箸を動かした。高梨が父親とここに座った日のことは知らない。それでも、今自分が座っている席にも、その時間と少し重なる部分がある気がした。
食べ終える前に、皿の写真を一枚撮った。送る文章を考え、店が開いていたことと、おいしかったことだけを書いた。
『開いてました。おいしかったです』
すぐに返事はなかった。列車の中か、もう家へ向かう途中なのだろう。沙知は携帯を鞄へ戻し、お茶を飲んだ。返事がない時間まで、旅の空白として扱う必要はなかった。
駅へ戻る途中、小さな文具店へ入った。絵葉書を二枚買い、一枚には店を閉じる前に世話になった同僚への近況を書いた。旅に出ている、という知らせだけでよかった。次の仕事が決まった報告まで待つ必要はない。
もう一枚は書かずに手帳へ挟んだ。高梨へ送るためか、自分のためか、今は決めなかった。選ばずに持っておけるものもある。
次の行き先を決めながら、沙知は誰かに知らせる旅の時間を、少し楽しみにした。一人で歩いた川も、閉まっていた資料室も、話せば誰かと一度違う形で見られる。
夕方、乗り継ぎの駅で返事が届いた。
『開いていてよかったです。写真を見て、また行きたくなりました』
続けて、母親の新しい部屋へ電話したところ、カーテンはやはり明るすぎたと言っていた、とあった。沙知は待合室で声を出さずに笑った。朝の話の続きが、彼女の旅の中へ届いた。
『私もまた行きたいです。今度は資料室が開いてる日に』
そこまで書いて、送った。いつか一緒に、という言葉は足さなかった。今朝拾った手袋から、そこまで急いで進まなくてもいい。
そのとき、同僚からも短い返事が来た。片づけの最後に沙知が持ち帰った鞄を、今も使っているかという質問だった。沙知は足元の鞄を撮り、写真を送った。窓際でずっと見本を務めていたそれが、本当に列車に乗っていることを、同僚は面白がった。
沙知は閉店の話をするたび、残念だったという言葉で終わるものだと思っていた。だが、空いた棚のあとにも、使い続けている鞄や、連絡を取れる相手が残っていた。それを次の仕事の役に立つかどうかで測らずに、まだ持っていていい。
待合室の時計を見た。次の宿へ着いたら、明日の天気を調べる。帰宅したら、求人に目を通す前に部屋の窓を開けよう。順序が一つずつ浮かんだ。今朝の寂しさを急いで直すより、帰ったあとの一日を思い浮かべられたことが、沙知にはうれしかった。
到着した列車の扉が開いた。沙知は鞄を持ち、今度は前より少し軽い足取りで乗った。旅が寂しくなくなったわけではない。それでも、その寂しさを口にできた朝から、窓の外に見つけるものが少し増えていた。