三十八歳の有希が借りた市民農園では、隣の区画だけ、いつも野菜がきれいだった。
四十二歳の男性が、決まって土曜の朝に来ていた。長靴を履き、道具を順に並べ、同じ角度で苗を見ていく。有希は仕事の疲れを土に埋めに来て、彼は手順どおりに苗を育てているように見えた。
「水、多くないですか」
初めて言われた言葉は注意だった。有希は好きにさせてほしいと思った。会社でも家でも、何をするにも正しい方法を説明される。ここでくらい、説明を受けずにいたかった。
「初めてなので」
そう答えた声が硬かったことには気づいていた。彼は、そうですか、と言って自分の区画へ戻った。二度目の注意はなかった。
有希は広告制作会社で働いていた。春の大きな仕事が終わり、取引先への連絡も済んだある夜、誰とも会いたくないのに、一人の部屋へ帰るのも嫌だった。駅の掲示板で市民農園の募集を見つけたのは、その帰りだった。
申込書には育てたいものを書く欄があった。何でもよかったので、食べるのが好きな野菜を三つ書いた。道具を買うと、何かを始めた気がした。だが最初の日には、土をどこまで掘ればいいかも分からなかった。
隣の男性は、説明を求めれば答えてくれるだろう。それでも有希は聞かなかった。教われば、そのとおりにできているか見られる気がした。会社で何度も修正を求められるうちに、助言と採点が区別できなくなっていた。
一週間後、自分の苗だけが倒れた。
雨の翌日だった。土の上に葉が触れ、柔らかな茎が曲がっている。有希はしばらく立ち尽くした。会社なら失敗の原因を書き、再発を防ぐ方法を提案する。だが、目の前の苗には、その報告を読んでくれる相手がいなかった。
隣の男性は勝手に直さず、支柱を一本余らせて待っていた。道具箱の脇に置いたまま、彼は黙って草を抜いている。
有希は、その一本を見てから顔を上げた。
「貸してください」
彼は、どうぞ、とだけ言った。結び方は知っているかと聞かれ、有希は知らないと答えた。彼が一度見せ、そのあと自分でやってみた。きつすぎない位置を、二人で確かめた。
終わると、彼は名前を名乗った。有希も名乗った。苗をまっすぐ立て直すのにかかった時間より、その前に声を出すまでの時間のほうが長かった。
二人の会話は、天気から弁当のおかずへ進んだ。
彼は設計の仕事をしていて、図面から目を離すために農園を借りたという。野菜をきれいに並べるのが好きなのかと有希が尋ねると、几帳面なのではなく、何がどこにあるか忘れるからだと答えた。
土曜の昼前、有希は持ってきたおにぎりを食べた。彼は袋からパンを出した。立派な野菜を育てている人の昼食にしては意外で、有希は少し笑った。
「料理、あまりしないんです」
彼は採れた野菜を持て余していた。近所へ配るにも量が中途半端で、冷蔵庫の奥でしなびさせてしまうという。
有希は、焼くだけでもおいしいですよ、と言いかけた。自分が簡単だと思うことを、相手にも簡単なはずだと渡しそうになった。水をやりすぎると指摘された朝と、立場が入れ替わっていた。
「普段、何が好きですか」
そう聞くと、彼は母親が作っていた甘い卵焼きの話をした。一人暮らしを始めてから、自分の好みを人に聞かれる機会は少なかったという。
翌週、有希は余った野菜で作ったおかずを、弁当箱へ少し多く詰めた。隣の人へ渡そうと思ってから、箱の蓋を閉める手が止まった。
以前付き合っていた相手は、有希が料理をするとよく褒めた。そのうち仕事帰りに材料を買うのも、冷蔵庫の中身を考えるのも、有希の役目になった。頼まれていないのだから不満を言うのはおかしい、と自分に言い聞かせていた。
彼と同じ関係になると決まったわけではない。だが、最初の親切を差し出す前から、それがずっと続く役割にならないか考えてしまった。
弁当箱を渡すとき、有希は、多く作ったので、と説明した。彼は受け取り、すぐに蓋を開けようとはしなかった。
「来週は、僕が作ります」
有希は思わず、無理をしなくても、と言った。彼は箱を持ち直した。
「お返しというより、やってみたいので。苦手なもの、ありますか」
その質問に、有希は少し迷った。自分のほうだけが相手の好みを聞くのに慣れていた。辛すぎるものは苦手だと答えると、彼は携帯電話に書き留めた。
次に来た弁当は、きゅうりの厚さがばらばらだった。味は少し濃かった。卵焼きは形が崩れ、隅に小さな欠片が詰めてあった。彼は失敗した部分を隠そうとはせず、見た目はもう少し練習しますと言った。
有希はおいしいところと、塩を減らしてもいいことを両方伝えた。言ったあとで、せっかく作ってくれた相手に厳しすぎたかと思った。彼は真剣にうなずき、メモを取った。
「全部おいしいって言ってもらうと、次も同じにしますから」
有希は笑った。おいしいと喜ぶことと、自分の好みをなくすことは違う。彼の弁当を食べながら、その当たり前のことを思い出した。
帰り、彼は空の箱を自分の鞄へ入れた。有希が洗って返すと言うと、自分が使った道具を片づけるのは、料理に入っているでしょう、と答えた。
それが何かの宣言ではなく、本当にそう思っている言い方だったので、有希はほっとした。
六月のある週末、有希は農園へ行けなかった。急な修正が入り、土曜も会社へ出た。日曜は昼過ぎまで眠った。夕方、苗のことを思い出して隣の彼へ連絡しようとしたが、二人はまだ連絡先を交換していなかった。
月曜の朝、仕事前に農園へ寄ると、彼がいた。休日に会わなかったので気になっていたと言う。有希は、なら見ておいてくれても、と一瞬思った。自分が頼んでもいないことだった。
彼の足元には、手をつけていない有希の区画があった。枯れてはいなかったが、葉が少ししおれていた。
「勝手に入っていいか、分からなくて」
有希はうなずいた。最初に支柱を余らせて待っていたときと同じだった。彼は気づいていないのではなく、彼女が決める部分を残していた。
二人は初めて連絡先を交換した。留守のときに頼めること、頼まないことも話した。有希は不在の日の水やりをお願いし、代わりに彼が出張する週に様子を見ることになった。
「できない日があったら、断ってくださいね」
彼が言うので、有希は、そちらも、と答えた。借りを作らないために一人でするのではなく、頼んだり断ったりできるようにしておく。そういう関わり方は、まだ少し新しかった。
出勤の時間が近づき、有希は長靴を脱いだ。彼が、今日も大変そうですね、と声をかけた。大丈夫ですと言いかけ、今日は少し大変です、と答え直した。
その日の昼、届いたのは苗の写真ではなく、今日のお弁当は味が薄すぎた、という短い報告だった。有希は机の前で声を出して笑った。
夏になると、隣の区画の野菜が先に採れた。有希のものは小さく、形も曲がっていた。彼女が失敗かなと言うと、彼は、まだ採らずに待ってもいいのでは、と答えた。
以前なら、また正しい方法を教えられたと思っただろう。今は、これは意見であって命令ではないと分かった。有希は一本だけ採って、あとは残した。自分でも比べてみたかった。
ある朝、彼が寝坊して来なかった。有希は一人で草を抜き、先に帰った。昼に謝る連絡が来ると、今日はよく眠れたならよかった、と返した。寂しくなかったわけではない。それでも、毎回同じ時刻に会えなければ関係が壊れるとは思わなかった。夕方、彼が買ったパンの写真が届き、有希は来週その店へ行きたいと答えた。会えなかった朝の分を、責めずに次の楽しみへ変えられた。
二人は、ときどき農園の外で食事をするようになった。最初は園芸用品を買いに行った帰りだった。二度目には、買うものがないのに待ち合わせた。
有希は仕事の話をした。彼はすぐに解決法を提案せず、何が一番嫌だったかと聞いた。有希は、直せることを直すのが嫌なのではなく、直す前の自分が全部間違っていたように扱われるのが嫌なのだと話した。
彼はしばらく黙り、最初に水のことを言った日は失礼だったかもしれない、と答えた。有希は、言われたことより、自分がうまくできていないと認めるのが嫌だったのかもしれない、と返した。
どちらかが完全に悪かったという話にはならなかった。二人とも、まだ知らなかった相手の事情を、少しずつ知っていった。
食事のあとで彼が、次は映画へ行かないかと誘った。有希はうなずいてから、その日は土曜の朝からでなくてもいいかと尋ねた。午前中は眠りたかった。彼は午後の上映を調べた。断り方や希望の出し方を練習するために付き合うのではない。それでも、彼となら、そのままの返事をしてみたくなった。
秋、有希の区画にも実がなった。形の揃わない野菜を籠へ入れながら、最初に借りた支柱を思い出した。洗って返そうとすると、来年も使いますかと聞かれた。
続けるかどうか、まだ考えていなかった。有希は籠を置き、畑全体を見た。冬になれば空く場所もある。仕事が忙しくなれば、来られない週もあるだろう。
「もう一年、やってみます」
彼が喜ぶからではなく、自分でそう思えたことがうれしかった。彼は、では春の苗を選ぶ楽しみがありますね、と答えた。
二人は柵越しではなく、同じベンチで弁当を食べた。有希が持ってきたおかずに、彼が作った卵焼きを分けた。今度は塩加減も、きゅうりの厚さも、前より有希の好みに近かった。
彼が、今日はどうですか、と聞いた。有希はおいしいと答え、次は少し甘い卵焼きも食べてみたいと付け加えた。彼の好きな味を、自分も知りたくなった。
隣の畑まで借りる必要はなかった。二人は別々の区画を片づけ、使った道具をそれぞれ洗った。帰りは同じ道を歩き、駅へ向かう角で自然に手が触れた。
会える場所は、その間にちゃんとあった。育つ速さが違っても、片方が全部を引き受けなくても、一緒に待つことはできた。有希は明日のお弁当に何を入れるか考え、隣を歩く彼へ、その話をした。