美濃の共同工房を畳むという連絡は、六月の平日に来た。陶芸教室の生徒が帰ったあと、千景は乾きかけた土をビニールで包みながら留守電を聞いた。建物の所有者が変わるので、八月までに私物を引き取ってほしいという。
六年前に出ていった工房に、自分のものが残っているとは思わなかった。電話をかけ直すと、管理人は、名前を書いた木箱が三つある、と言った。蓮にも同じ連絡をした、と続けた。
四十二歳になった千景は、一度電話を机に置いた。蓮とは二年前の展覧会で挨拶を交わしている。連絡先も消していない。ただ、二人きりになるための日程を相談するのは久しぶりだった。
土曜の十時、と彼から返事が来た。仕事の連絡に似た短い文章に、かえって安心した。
山裾の工房には、以前より草が伸びていた。錆びたシャッターを持ち上げていた蓮は、千景を見て手を止めた。
「暑いから、先に窓を開けた」
四十四歳の彼は、雑誌で見た写真より日に焼けていた。東京の店で個展を重ね、作品の値段は千景が知っていた頃の何倍にもなっている。けれど履いている作業靴は、同じ銘柄だった。
中へ入ると、焼成の匂いはもうしなかった。埃と、湿った木と、棚の下に潜り込んだ虫の死骸。その匂いに千景は少しほっとした。ここにいた年月を甘く思い出すには、汚れが十分に残っていた。
木箱には試作品が入っていた。口の曲がった急須、釉薬の流れすぎた皿、重すぎて持ち上げにくい鉢。千景は一つずつ裏を見て、自分の印を探した。
「これ、売れなかったやつだね」
蓮が白い鉢を指した。
「売らなかったの」
思ったより強い声が出た。二人ともその違いを覚えていた。
千景が工房を出た年、二人は結婚を考えていた。蓮の作品が初めて大きな賞を取り、千景の器は近所の喫茶店へ少しずつ納められる程度だった。工房の経費は同じだけ払ったが、窯を使う回数は蓮のほうが多かった。
彼が展覧会へ行っている間、千景は荷物を受け取り、釉薬を注文し、来客にお茶を出した。頼まれたことばかりではない。やっておけば、二人の暮らしが円滑になると思っていた。やがて自分の制作時間が減った時、彼女は蓮に、自分のほうが才能がないから辞めるのだと言った。
蓮は強く止めたが、千景は聞かなかった。止めてほしかった時期と、止められるのが苦痛になった時期が、彼には見分けられなかったのだと思う。
白い鉢はその頃の作品だった。底を薄くしすぎて、棚に置くと少し揺れた。千景は、まだ仕上げていないから、と売らずにいた。本当は誰にも値段をつけられたくなかった。
今なら、器としての欠点をすぐ言葉にできる。けれど昔の自分に、ただ未熟だったと判決を下す気にはなれなかった。
昼になり、蓮が近くで弁当を買ってきた。生姜焼きと焼き魚を一つずつ。千景が魚を選ぶと、彼は少し驚いた顔をした。
「肉、食べなくなった?」
「教室の前の弁当屋で、毎週食べてるから」
千景はそう言って箸を割った。蓮の前では好きでなくなったことばかり話していた気がする。新しく好きになったものを、彼はほとんど知らなかった。
午後は棚を解体した。電動工具は使えるのに、蓮は二人で持てば外せる板を一人で抱えようとした。千景は反対側を持ち、三つ数えてから下ろそう、と言った。
「そこ、俺がやるから」
「持てるよ。いち、に、さんでいい?」
蓮は頷いた。板は思っていたより重かったが、下ろせた。二人の得意なことが違うのではなく、同じことをする時の速さが違うのだと、千景は初めて気づいた。蓮は思いつくとすぐ動き、彼女は手順を決めてから動きたかった。その差を埋める役を、自分が選んで引き受けていた。
夕方、管理人から電話があり、裏の倉庫も確認してほしいと言われた。もう一日かかりそうだった。蓮は明日も来られると言ったが、千景には午前の教室があった。
「午後三時なら」
「俺が午前からやっとくよ」
「私のものは、開けないで待ってて」
彼は、わかった、と言った。
その夜、千景は駅前の宿へ泊まった。蓮は町の自分の工房へ帰った。別れ際、昔よく行った食堂へ誘われ、彼女は一瞬だけ返事に迷った。
「今日は、一人で食べたい」
「そっか。じゃあ、また明日」
部屋に入ると、断ったことがひどく冷たい行為だったように思えた。六年前も、こうして彼を傷つけたのかもしれない。しかし布団に横になると、体はすぐに眠りへ向かった。疲れている時に一人になりたい気持ちまで、恋人の価値を量る尺度にしていた頃より、体の言葉は簡単だった。
翌日、千景は午前の教室を終えてから戻った。生徒の一人が初めて薄い湯呑みを挽き、なかなか手を離せずにいた。千景はその時間を待った。三時には少し遅れた。
工房の床は掃かれていた。千景の箱は閉じたまま、入口のそばに寄せられていた。
「ありがとう。待たせた」
「こっちも今、終わったとこ」
蓮はその説明以上のことを求めなかった。もし六年前にこういう午後があったなら、と考え、千景はやめた。当時の自分なら、待たせた申し訳なさで、自分の仕事を始める前から疲れていただろう。
倉庫の奥には、二人で使っていた食器が残っていた。店へ出せなかった皿や欠けた茶碗ばかりで、正式な揃いは一組もない。千景は新聞紙をほどき、蓮は洗い桶の水を替えた。
二つの小鉢に、同じ釉薬がかかっていた。蓮のものは縁が薄く、千景のものは丸かった。千景が片方を彼へ渡すと、蓮はしばらく見つめてから聞いた。
「いま、作ってる?」
「教室以外で?」
「うん」
「少し。週に二個くらい。釉薬の色が、まだ決まらない」
「見たいな」
千景は、それを褒め言葉として受け取りそうになった。けれど彼は単純に、見たいのだろう。彼女自身、蓮の新作を雑誌で見ると、底がどうなっているか確かめたくなった。
「焼けたら、写真を送る」
「うん」
窓から遅い午後の光が入った。二人で水を使う音が静かな部屋に響いた。蓮が袖をまくり直した時、千景はその手首に触れたくなった。仕事を終えた彼の体温を、まだ覚えていた。
彼も同じことを感じたのか、洗った皿を渡す手が少し止まった。千景は皿を受け取り、布の上へ伏せた。今夜一緒にいれば、抱き合うことはできると思った。別れた理由を全部思い出さずに済むほど、二人はもう若くなかったが、思い出したうえで恋しがることならできた。
「俺、あの時、戻ってきてほしかった」
蓮が言った。
「知ってた」
「でも、戻ってきたら何を変えればいいか、考えてなかった」
千景は水栓を止めた。
「私は、辞めるって言った時、あなたに負けたんだと思ってほしかった。そうすれば、あとのことを全部あなたのせいにできたから」
彼の顔は曇った。正直に話せば相手が楽になるとは限らない。千景は言った言葉を取り消さず、乾いた布を一枚渡した。蓮はしばらくして、それを受け取った。
片づけが済む頃には暗くなっていた。白い鉢は、千景が持って帰る箱へ入れた。揺れる底を削り直すかどうかは、まだ決めなかった。
工房の鍵を管理人に返し、駐車場で別れた。蓮が手を振り、千景も振り返した。明日から頻繁に連絡を取り合うとは、どちらも言わなかった。
信号へ向かう手前の交差点で、蓮の車と方向が分かれた。以前はいつも同じ車に乗り、彼が運転していた。運転が苦手だから、と千景は助手席に座る理由を説明していたが、教室を始めて毎日ハンドルを握るうちに、細い道にも慣れた。
車は彼女が中古で買ったもので、後部座席には生徒の作品を運ぶ緩衝材が積んであった。工房から持ち帰った荷物を載せても、まだ隙間があった。前を行く車の尾灯が赤くなり、千景は早めにブレーキを踏んだ。自分の車の停まり方を、体がもうよく知っていた。
帰りの車の中で、千景は一度だけ泣いた。信号待ちの短いあいだだった。悲しいのは別れたことだけではなく、やり直せそうな一瞬が今も確かにあったことだった。
家に着くと、白い鉢を台所に置いた。ひとりで食べる桃を切って入れると、底はやはり少し揺れた。彼女は下に布巾を敷き、立ったまま食べず、椅子に座った。甘い汁が鉢の内側を伝った。残った半分は、明日の朝に食べることにした。